2017年11月22日水曜日

鳴神山遺跡は典型古代牧遺跡 印西船穂郷の謎(8/11)

8 鳴神山遺跡は典型古代牧遺跡

古代牧は6つのゾーンから構成されるという研究があります。

この6つのゾーンを鳴神山遺跡に投影してみると良く適合して、鳴神山遺跡牧特性の理解を深めることができます。
牧場地区は「大」集団居住地域の北側で小字「大野」の付近になります。
繋飼地区は総柱掘立柱建物付近で厩舎の存在を想定できます。
管理地区は氏族名が書いてある多文字土器や羽口破片が出土した付近であると考えることができます。
居住地区は「大」集団居住地域です。
牧田地区は養蚕痕跡の濃い地域を想定できます。
祭祀地区は馬骨出土祭祀跡井戸付近が対応します。

鳴神山遺跡牧は下総における典型的古代牧遺跡であり、軍事道路機能と一体的に整備された国家戦略軍事牧遺跡であると考えます。

つづく
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パワーポイントスライドを利用して次の11話を連載しています。
1 発掘調査報告書GIS学習 印西船穂郷の謎(1/11)
2 7~10世紀下総国の出来事 印西船穂郷の謎(2/11)
3 鳴神山遺跡と船尾白幡遺跡の概要 印西船穂郷の謎(3/11)
4 鳴神山遺跡の牧と漆、墨書文字「大」「大加」集団 印西船穂郷の謎(4/11)
5 小字「大野」の出自、「大」の意味と氏族、養蚕 印西船穂郷の謎(5/11)
6 船尾白幡遺跡の養蚕、漆と麻、「帀」の意味と氏族 印西船穂郷の謎(6/11)
7 鳴神山遺跡直線道路 印西船穂郷の謎(7/11)
8 鳴神山遺跡は典型古代牧遺跡 印西船穂郷の謎(8/11)
9 「鳴神山遺跡=大結馬牧」仮説 印西船穂郷の謎(9/11)
10 大結馬牧(仮説)の領域 印西船穂郷の謎(10/11)
11 古代開発集落が滅びた理由 印西船穂郷の謎(11/11)

参考 印西船穂郷の謎講演レジメ(pdf) 12M

2017年11月21日火曜日

鳴神山遺跡直線道路 印西船穂郷の謎(7/11)

7 鳴神山遺跡直線道路

鳴神山遺跡の中央部を西南西から東北東にかけて直線道路が通っています。
直線道路は谷津地形を完全に無視して台地から谷底の降りていることが確認されていて、8世紀初頭頃律令国家計画道路の特徴を具えています。
この図で直線道路以外の曲線遺構は中世及び近世の馬堀跡です。

発掘調査報告書における直線道路の平面図及び断面図の例です。

直線道路の道路幅は上端で2.0m~2.4m、下端で0.9m~1.1m、深さ0.5m~0.7mです。
巾約1mの道路であり、馬に騎乗した人が馬にいちいち歩く方向を合図する必要のない機能を具えていたと考えます。構造からみて騎馬のすれ違いができない一方通行道路であると考えます。
道路は9世紀初めごろには埋め立てられています。

直線道路の発掘状況写真です。

直線道路の発掘状況写真です。

直線道路に面して長辺が道路と並行する総柱掘立柱建物(2間×3間)が存在します。総柱掘立柱建物は鳴神山遺跡ではこの1棟だけです。
道路機能と関わりのある建物であり、通常の掘立柱建物ではなく床が存在する総柱掘立柱建物ですから補給機能や関所機能を具えた行政機関の建物であることが推察できます。

道路断面を見ると複線区間と単線区間があり、かつ道路深さが総柱掘立柱建物付近だけ浅くなっていることから、上図のような道路区分が可能です。

この直線道路の意義について上図のような想定ができます。
地形を無視した直線性は中央政府の計画思考を反映しています。地元集落の生活機能とは全く無関係な道路であることがわかります。
8世紀だけ存在して、蝦夷戦争が終わるとともに埋め立てられたのですから、軍事専用道路であったことがわかります。
有効幅員1mの堀込構造から一方向道路であることが判ります。
西南西-東北東の方向から下総国府(東京湾)と香取の海を結ぶ道路であることが想定できます。
鳴神山遺跡牧域を貫通するのですから、この道路と牧が有機的セットで開発されたと考えることが合理的です。
道路直近に存在する総柱掘立柱建物は道路通行者のための補給機能やチェック機能の存在を物語っています。
このような情報から直線道路は律令国家の東北進出行軍専用道路であると考えざるをえません。国家的戦略的軍事道路であったと考えます。
道路と牧がセットで開発されたのですから、鳴神山遺跡牧は騎馬用軍馬、駄用軍牛の支給牧ということになります。鳴神山遺跡牧を国家的戦略的な軍事牧であると意義づけることができます。

道路構造から直線道路の機能を想像すると上図のようになります。
複線区間は下総国府方面からはるばる行軍してきた軍勢の集合・順番整序空間、そこから東の単線区間は補給チェック施設への行進区間であり、総柱掘立柱建物が補給チェック施設であると考えます。

つづく
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パワーポイントスライドを利用して次の11話を連載しています。
1 発掘調査報告書GIS学習 印西船穂郷の謎(1/11)
2 7~10世紀下総国の出来事 印西船穂郷の謎(2/11)
3 鳴神山遺跡と船尾白幡遺跡の概要 印西船穂郷の謎(3/11)
4 鳴神山遺跡の牧と漆、墨書文字「大」「大加」集団 印西船穂郷の謎(4/11)
5 小字「大野」の出自、「大」の意味と氏族、養蚕 印西船穂郷の謎(5/11)
6 船尾白幡遺跡の養蚕、漆と麻、「帀」の意味と氏族 印西船穂郷の謎(6/11)
7 鳴神山遺跡直線道路 印西船穂郷の謎(7/11)
8 鳴神山遺跡は典型古代牧遺跡 印西船穂郷の謎(8/11)
9 「鳴神山遺跡=大結馬牧」仮説 印西船穂郷の謎(9/11)
10 大結馬牧(仮説)の領域 印西船穂郷の謎(10/11)
11 古代開発集落が滅びた理由 印西船穂郷の謎(11/11)



2017年11月20日月曜日

船尾白幡遺跡の養蚕、漆と麻、「帀」の意味と氏族 印西船穂郷の謎(6/11)

6 船尾白幡遺跡の養蚕、漆と麻、「帀」の意味と氏族

竪穴住居100軒あたり紡錘車出土数のグラフを見ると船尾白幡遺跡の数値が大きく、近隣遺跡と比べて養蚕が盛んであることが判ります。

この絵は出土鉄鎌を整理したものですが、桑枝切りなどの使われたと考えます。

養蚕を示す墨書土器「子」(コ=蚕)が掘立柱建物の柱穴から出土し、養蚕用掘立柱建物を建設する際の祭祀(地鎮祭)で埋められたものと考えられます。「小」(コ=蚕)とかかれた墨書土器も数多く出土しています。

「小」(コ=蚕)の書体をみると他遺跡の文字「小」とくらべて静かで、まるで蚕の幼虫が3頭ならんでいるようです。「小」は女性が書いた書体であると推察します。

船尾白幡遺跡が利用した戸神川から(西根遺跡から)人形・馬形が出土していて、馬と娘の婚姻譚を背景とした養蚕祈願をこれらの人形・馬形で行ったと考えます。

人形・馬形は戸神川流路跡から重なって出土していて、同じ小舟に乗せて流した祭祀の存在を知ることができます。

船尾白幡遺跡から漆に関わる墨書文字が多数出土しています。「息」(ソク=乾漆)が多くなっています。

船尾白幡遺跡からは「麻」の文字も出土します。
「息」(ソク=乾漆)と「麻」の出土から麻を材料とした乾漆が船尾白幡遺跡の特産であったことが忍ばれます。

「息」の文字
鳴神山遺跡では馬皮を材料にした漆皮(シッピ)が作られ、船尾白幡遺跡では麻を材料にした乾漆が作られ、同じ漆器生産でもそれぞれ特徴が対照できるので面白いことです。

船尾白幡遺跡は鳴神山遺跡より穂摘具の出土数が多く、水田耕作がある程度行われていたようです。

船尾白幡遺跡のメイン墨書文字は「帀」(アマ=天の則天文字)です。この文字はアマと読み天の大神、天神を意味すると考えます。天津神を表現していると考えます。
恐らく鳴神山遺跡の文字「大」「大加」を意識して「帀」(アマ=天の則天文字)を使ったのではないかと考えます。
リーダー氏族は「帀」も書いてある多文字墨書土器に出てくる壬生部(ミブベ)であると考えることができます。

鳴神山遺跡と船尾白幡遺跡のメイン墨書文字と解釈、リーダー氏族をまとめてみました。
戸神川を挟んだ台地で対峙する両集落がどのように協力・競争していたか興味が深まります。

つづく
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パワーポイントスライドを利用して次の11話を連載しています。
1 発掘調査報告書GIS学習 印西船穂郷の謎(1/11)
2 7~10世紀下総国の出来事 印西船穂郷の謎(2/11)
3 鳴神山遺跡と船尾白幡遺跡の概要 印西船穂郷の謎(3/11)
4 鳴神山遺跡の牧と漆、墨書文字「大」「大加」集団 印西船穂郷の謎(4/11)
5 小字「大野」の出自、「大」の意味と氏族、養蚕 印西船穂郷の謎(5/11)
6 船尾白幡遺跡の養蚕、漆と麻、「帀」の意味と氏族 印西船穂郷の謎(6/11)
7 鳴神山遺跡直線道路 印西船穂郷の謎(7/11)
8 鳴神山遺跡は典型古代牧遺跡 印西船穂郷の謎(8/11)
9 「鳴神山遺跡=大結馬牧」仮説 印西船穂郷の謎(9/11)
10 大結馬牧(仮説)の領域 印西船穂郷の謎(10/11)
11 古代開発集落が滅びた理由 印西船穂郷の謎(11/11)



2017年11月19日日曜日

加曽利貝塚国特別史跡指定記念シンポジウム

2017年11月18日に若葉文化ホールで加曽利貝塚国特別史跡指定記念シンポジウムが開催され参加してきました。
最近はこの手のイベントには全くといっていいほど参加したことが無かったので新鮮な印象を受けることができました。

イベント会場前

文化庁主任文化財調査官佐藤正知さんから「特別史跡とは」と題する講演がありました。
一言でいうと、加曽利貝塚は土地に関わる国宝であるとのこととして理解しました。

佐藤正知さん

京都大学大学院総合生存学館特定教授の泉拓良さんから「縄文時代について」と題する講演がありました。縄文時代と貝塚について世界を視野に、かつ後氷期の気候変動等との関連のなかでの詳しい説明がありました。

泉拓良さん

千葉市埋蔵文化財調査センター所長西野雅人さんから「加曽利貝塚の価値と魅力」と題する講演がありました。
加曽利貝塚の学術的価値として次の3点の詳しい説明がありました。
1 日本列島の貝塚は、日本の歴史、人類の歴史を語る上で欠くことができない
2 東京湾東岸の貝塚群は日本の貝塚のなかでも、とくに重要な価値を有している
3 加曽利貝塚は東京湾東岸の貝塚群を代表する存在
また、付加された価値として次の2点の詳しい説明がありました。
1 研究史的な価値
2 文化財の保護活用に関わる価値
さらに縄文人の生活や文化にかかわる発掘情報が現代社会ともつながっていることなど興味深い話がありました。
また講演途中に発掘現場とのテレビ実況中継によるやりとりがあり、市民参加や市民に対する説明の意義が浮き彫りになりました。

西野雅人さん

シンポジウム会場のおける発掘現場実況中継の様子

3人の講演のあと5人の出席者による討論があり加曽利加塚国特別史跡指定の意義や今後の市民参加による史跡活用方策について熱心な話となりました。
市長によるゆるキャラ「かそりーぬ」誕生秘話なども裏話としてだけではなく、加曽利貝塚特性理解として興味が湧きました。

討論の様子

このシンポジウムは千葉市としても力を入れて開催した様子が配布物から感じました。
配布物を入れる袋が特製であり、立派なパンフレット3冊、コースター、ボールペンなどが入っていました。

特製袋

パンフレット1

パンフレット2

パンフレット3

コースター、ボールペン

昭和時代で終わった加曽利貝塚の輝きが、国特別史跡指定をきっかけに再び輝きだし、まちづくりの目玉に育っていくことを行政や考古関係者が願っている様子が伝わってきました。

感想
自分の縄文時代学習にいろいろと好ましい刺激を受けました。
途中まで学習が進みましたが事情で中断している大膳野南貝塚の学習の再開をはやくしたくなりました。大膳野南貝塚の全貌を通しで理解すればそれを手ずるにして加曽利貝塚の意義などもより深く理解できるようになると思います。
西根遺跡出土「イナウ」についての記事をまとめ、その原資料提供者である千葉県に対する報告を急ぎたいと思います。シンポジウムで「アイヌ」「送り」「祭祀」などの言葉が飛び交う様子を聞いていて、西根遺跡「イナウ」出土の意義の大きさを密かに感じました。
講演説明情報のなかの出典のいくつかに興味が湧き、早速入手したと思います。

2017年11月18日土曜日

小字「大野」の出自、「大」の意味と氏族、養蚕 印西船穂郷の謎(5/11)

5 小字「大野」の出自、「大」の意味と氏族、養蚕

奈良時代において墨書文字「野」は上記八千代市上谷遺跡出土多文字墨書土器の例から牧の意味であることが明白です。

一方、鳴神山遺跡で墨書土器「大」「大加」が最も集中して出土する直線道路北側の小字が「大野」です。
「大」「大加」集団が運営していた牧であるから「大野」という地名がついたと思考できます。
牧集団出土物である墨書文字「大」「大加」を根拠に小字「大野」の出自を説明できる珍しい例であると言えます。
学術的な意義(価値)のある小字であると考えることができます。

墨書文字「大」「大加」の元来の読みはオオカミで意味は大神、大国玉神であると考えます。その根拠はリーダー層が書いたと考えられる多文字墨書土器に大国玉神、国玉神がでてくることから推論できます。
具体的固有名詞(大物主神、大国主神など)でイメージされていたのかもしれません。
「大」「大加」は国譲りの神様である国津神を表現しているものと考えて間違いないと思います。
「久弥良」(クビラ)つまり金毘羅を表している墨書文字もあります。
なお「大」とともに「王」が共伴出土する場合がいくつかありますから、元来の読み(意味)「オオカミ」が短縮されて「オオ」と読まれていた場合が多いと推察します。
鳴神山遺跡のリーダー氏族は多文字墨書土器に出てくる丈部(ハセツカベ)であると考えられます。

墨書文字「大」は下総国、上総国の広範な開発集落から出土します。丈部の分布も同じく広範であるので氏族としての丈部が墨書文字「大」を共有していて各地の開発集落で使っていたと考えられます。

養蚕の道具である紡錘車が鳴神山遺跡から出土しています。

同時に養蚕集団の祈願文字であると考える「依」(キヌ)も多数出土します

墨書文字「依」(キヌ)は掘立柱建物が集中する付近の竪穴住居から集中出土し、紡錘車の出土は掘立柱建物群を取り囲むように広範な竪穴住居から出土します。
この分布の様子から蚕飼育は掘立柱建物で集中しておこない、その世話を行っていた集団の祈願文字が「依」(キヌ)であり、繭から糸を紡ぐ作業は女性が自宅(竪穴住居)で行っていたものと考えることができます。蚕飼育と糸紡ぎは人間的空間的に分業されていたと見てとることができます。

つづく
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パワーポイントスライドを利用して次の11話を連載しています。
1 発掘調査報告書GIS学習 印西船穂郷の謎(1/11)
2 7~10世紀下総国の出来事 印西船穂郷の謎(2/11)
3 鳴神山遺跡と船尾白幡遺跡の概要 印西船穂郷の謎(3/11)
4 鳴神山遺跡の牧と漆、墨書文字「大」「大加」集団 印西船穂郷の謎(4/11)
5 小字「大野」の出自、「大」の意味と氏族、養蚕 印西船穂郷の謎(5/11)
6 船尾白幡遺跡の養蚕、漆と麻、「帀」の意味と氏族 印西船穂郷の謎(6/11)
7 鳴神山遺跡直線道路 印西船穂郷の謎(7/11)
8 鳴神山遺跡は典型古代牧遺跡 印西船穂郷の謎(8/11)
9 「鳴神山遺跡=大結馬牧」仮説 印西船穂郷の謎(9/11)
10 大結馬牧(仮説)の領域 印西船穂郷の謎(10/11)
11 古代開発集落が滅びた理由 印西船穂郷の謎(11/11)

参考 印西船穂郷の謎講演レジメ(pdf) 12M

2017年11月17日金曜日

鳴神山遺跡の牧と漆、墨書文字「大」「大加」集団 印西船穂郷の謎(4/11)

4 鳴神山遺跡の牧と漆、墨書文字「大」「大加」集団

鳴神山遺跡の牧関連遺物の出土状況を示しています。
馬骨出土祭祀跡井戸と牧関連墨書土器があります。
参考に船尾白幡遺跡をみると、船尾白幡遺跡がかかわる西根遺跡領域から馬歯などが出土していて、希薄ですが船尾白幡遺跡も牧に関連していることがわかります。

鳴神山遺跡の馬骨出土祭祀跡井戸の平面図・断面図を八千代市白幡前遺跡の類似土坑資料と同縮尺にして並べてみました。
下総では古墳時代から大切な馬を祭祀の生贄としてきましたが、鳴神山遺跡井戸、白幡前遺跡土坑ともに馬を生贄とした牧建設祈願祭祀の跡であると考えることができます。
白幡前遺跡では馬2頭と人1人が犠牲となり、高津馬牧建設祈願に関わる祭祀が行われたと考えます。鳴神山遺跡では馬を犠牲にした8世紀後半の牧建設祈願が行われたと考えます。鳴神山遺跡井戸、白幡前遺跡土坑の双方から東京湾産貝が出土し、祭祀に際して貝食が振舞われたことがわかります。

鳴神山遺跡の同じ竪穴住居から斃牛馬処理集団や漆を示す墨書土器が出土して、牧集団の存在と牧集団が皮を材料にした漆製品を作っていたことが判りました。
この墨書土器は「馬牛子皮身軆」と書いてあり「馬牛蚕皮肉骨」の意味であり、斃馬牛処理集団の祈願墨書土器であることが判明します。斃馬牛処理集団が存在するのですから、その場が牧であったことが証明されます。

この墨書土器は「馬牛子皮身軆」墨書土器と同じ竪穴住居から共伴出土しています。「七」=漆(シツ)、「知益」=汁液(シルエキ)と読めますから、斃馬牛処理集団が馬皮をつかって漆製品(漆皮)をつくっていたことが判ります。

「馬牛子皮身軆」墨書土器、「七 知益」墨書土器が出土した竪穴住居から多量の「大」「大加」墨書土器が共伴出土しています。この状況から「大」「大加」を共有する集団こそが牧集団であることがわかります。
この絵は「大」と書かれた墨書土器です。「大」と書かれた文字の部分が残るように土器を意図的に割っていることが判る例が多くあります。「大」は「大加」とくらべて墨書が多く、刻書が少なくなっています。
「大」をマイ土器に祈願文字として書いた集団がこの竪穴住居の穴の前でマイ土器を割り、投げ込んだと考えます。そのような祭祀が牧活動の組織性を強めるために行われたと感が増す。

「大加」はロゴマークになっています。また刻書が多くなっています。墨書が少なく刻書が多いことから「大加」集団は「大」集団より貧しい(墨にありつけない)集団で劣位な集団であったと考えます。
刻書「大加」に墨書「弓」が上書きされているものがかなりの数出土しています。相撲の弓取式は勝者に武器としての弓を与える儀式ですが、同じことが文字レベルで行われていたと推察します。つまりマイ土器「大加」を持っていたものが牧活動で功績を上げ、支配層から墨書「弓」を与えられたものと考えます。あるいは弓現物をもらい、その記念として墨書「弓」を書いてもらったのかもしれません。

牧集団「大」「大加」は武装していて刀子や鉄鏃が多数出土します。
この絵は刀子の例です。刀子は成人男性が1人1本持っていたのではないかと想像しています。

この絵は鉄鏃の例です。T字形、三角、Y字形など破壊力の大きな殺人専用の槍です。腕や足、首も一刺しで飛んだと思います。
鉄鏃は「大加」の出土する竪穴住居からの出土がほとんどないので上位集団である「大」集団だけが独占していたようだと推察します。鉄鏃は牧内支配のための威圧的武器だったように感じます。

鉄鏃と「大」の相関の高さは時代毎に分布面から確かめることができます。
逆に「大」「大加」出土竪穴住居から紡錘車などの道具類の出土は少なくなっています。

つづく
……………………………………………………………………
パワーポイントスライドを利用して次の11話を連載しています。
1 発掘調査報告書GIS学習 印西船穂郷の謎(1/11)
2 7~10世紀下総国の出来事 印西船穂郷の謎(2/11)
3 鳴神山遺跡と船尾白幡遺跡の概要 印西船穂郷の謎(3/11)
4 鳴神山遺跡の牧と漆、墨書文字「大」「大加」集団 印西船穂郷の謎(4/11)
5 小字「大野」の出自、「大」の意味と氏族、養蚕 印西船穂郷の謎(5/11)
6 船尾白幡遺跡の養蚕、漆と麻、「帀」の意味と氏族 印西船穂郷の謎(6/11)
7 鳴神山遺跡直線道路 印西船穂郷の謎(7/11)
8 鳴神山遺跡は典型古代牧遺跡 印西船穂郷の謎(8/11)
9 「鳴神山遺跡=大結馬牧」仮説 印西船穂郷の謎(9/11)
10 大結馬牧(仮説)の領域 印西船穂郷の謎(10/11)
11 古代開発集落が滅びた理由 印西船穂郷の謎(11/11)