2011年5月30日月曜日

花見川の語源4

5 ハナミ
5-1 ハナ
 ハナは柳田國男の解釈を踏襲します。
 前の記事(花見川の語源3)で引用した以外に、柳田國男は次のような文章を書いています。
「ハナワは蝦夷語のパナワの名残で、上の平らな丘のことを謂って居るらしい。」(雪国の春、昭和3年)
「『ハナ』は塙、即ち高地のことであろうが、…」(豆の葉と太陽、昭和15年)
「花輪はもとアイヌ語から出たものらしく、今の語でいふと段丘端、東国でいふ峡(はけ)通りであるが、…」(豆の葉と太陽、昭和15年)

 柳田國男はハナについて「アイヌ語だといっても、たいてい誤りはあるまい。」と言ってアイヌ語起源として説明しています。柳田國男の時代の知識ではその説の通りだと思います。しかし、正確には縄文時代の縄文人の話していた言葉ですから、このブログではハナは縄文語起源として考えることとします。

 国語大辞典(小学館)では「はな」は次の3語(【花・華・英】、【端】〔「はな(鼻)」と同源〕、【鼻】〔「はな(端)」と同源〕)掲載されています。このうち「はな【端】」の意味(物の先端の部分。はじ。末端。)が花見川のハナの意味に該当すると考えます。

国語大辞典(小学館)の記述(用例略)
はな【端】〔「はな(鼻)」と同源〕
一 端、先端の意
1 物の先端の部分。はじ。末端。
2 二つ以上並ぶものの先の方をさしていう。
3 時間的に先の方をさしていう。はじめ。最初。発端。
二 〔語素〕 略

岩波古語辞典(岩波書店)の記述(用例略)
はな【端】〔はな(鼻)と同根〕
1先端部。突端。
2でだし。先頭。

5-2 ミ
 国語大辞典(小学館)では「み」は全部で19語掲載されています。私はハナミのミは「み【水】」の意味であると考えました。

国語大辞典(小学館)の記述
み【水】水(みず)。多く他の語と熟して用いる。「いずみ(泉)」「みくさ(水草)」「みお(澪)」「みなそこ(水底)」「みなと(水門)」など。

岩波古語辞典(岩波書店)の記述(用例略)
み【水】みず。複合語として用いる。「垂(たる)水」「水草」「水漬(づ)き」「水な門(と)」など。

5-3 ハナミの意味
 台地に谷津が発達し、縄文海進で海がリヤス状に複雑に陸地に入り込み、水面と台地の対比が否が応でも意識しなければならない自然環境の中で縄文人は暮らしていました。リヤス状の海の幸を得た跡が、現在の内陸に貝塚として残っています。
 リヤス状の海を遡れば湿地になり、小川が台地から流れ込んできています。台地=端(ハナ)から水(ミ)が流れ込んでいる情景を見て、縄文人はこれをハナミと表現したのだと思います。
 鼻から垂れる鼻汁をハナミズと表現しますが、花見川のハナミはこれと同じ表現方法だったと考えます。谷津の奥深くまで海(水)が入り込み、そこに谷津の上流から小川が流れ込むという水の姿をハナミ(端水)という言葉で地名表現されたと考えます。
 小川の水は飲料水として縄文人に必須であったので、ハナミは大切な生活資源のありかを示す地名だったと思います。
 花見川はハナミズ川、端水川だと思います。

            貝塚の分布と縄文海進想像図

5-4 地名としてのハナミ探索
 ハナミは河川名としてのみ残っていますが、本来は地名ですから、どこかに地名として残っているかもしれません。歴史史料を見るとき、気にしておきたいと思います。

5-5 ハナミの検証の必要性
 ハナは縄文語起源の高地(日本語では端)の意味、ミは日本語の水の意味としてハナミを解釈しました。
 整合性がとれていません。
 ミも縄文語起源でなければなりません。その検証が必要です。ミが縄文語やアイヌ祖語などに遡るものであるのか、今後検証したいと思います。
 ハナは縄文語起源の言葉で、地名の根源語であり、ミは上代日本語起源で、ハナミという地名は弥生時代以降つけられたということかもしれません。
(つづく)

2011年5月28日土曜日

花見川の語源3

(宇那谷川流域の記事は、花見川語源の情報発信の後、継続して連載する予定です。)

1 過去記事の概要
 花見川の語源については、「花見川の語源1」、「花見川の語源2」で、要旨が次ぎの記事を書いています。

 ハナミのハナは先端の意味であると解釈しました。
 柳田國男著「地名の研究」(昭和10年)の次の説明をそのまま当てはめて考えました。

「ハナはすなわち塙(はなわ)であって、民居の後ろにのぞんだ高地なるゆえに・・・」
「ハナグリのハナはたぶん突出の意味であろう・・・」
「『落葉集』巻一に、「ハナ山、山の差出たる処を謂ふ、塙に同じ。ハナワ、塙と書けり、山の差出たる処也」とあるのは、あるいは『奥儀抄』によったのかも知れぬが、現今常陸稲敷地方で、高い地所をハナワというのは事実である(茨城県方言集覧)。所によっては花輪と書き、または半縄と書くのも多い。あるいは猪鼻または竹鼻などもあって・・・」
「このハナワなどはアイヌ語だといっても、たいてい誤りはあるまい。アイヌ語のPana-waはPena-waに対する語で、ワは「より」、パナは下、ペナは上である。パナワとはすなわち「下から」という意味である。日当たりがよく、遠見がきいて、水害を避けつつ水流水田を手近に利用しうる地勢だから、人が居住に便としたに相違ない。猪鼻台などのイは、すなわちイナカのイであって、民居ある高地と解せられ得る。」

 この柳田の説明から、花見川、花島だけでなく、花見川にかかる亥鼻橋の亥鼻も同源であると考えました。近くの船橋の花輪(花輪インターチェンジなど)も同源の例として示しました。

2 「ハナ」の新素材発見
 最近、上記考えを補強し、場合によってはさらに展開させるかもしれない素材を2つ発見しましたので、紹介します。

ア 天台地先では、花見川を亥鼻川と呼んでいること。字「猪ノ鼻」もあること。
 原著者和田茂右衛門「社寺よりみた千葉の歴史」(千葉市教育委員会発行)209ページの34花見川の項に「天戸地先では亥鼻川と呼ばれています。天戸町の旧坊辺田村地先にかけられた橋は、亥鼻橋と名付けられております。この橋名については、嘉永2年(1849)2月の御鹿狩六手鹿狩絵図には、猪鼻橋と記入してあり、これも亥鼻川から取って名づけられた橋名だと思われます。」と記述されています。

 また、幕張町誌(注)を読むと、第六章行政の土木の項に次の記載があり、天戸地先に字「猪ノ鼻」があり、地名として確認できます。

            幕張町誌の第六章行政の土木の部分
注 幕張町誌 次の添え書きがある原稿コピーを千葉市立中央図書館から帯出閲覧しました。(禁帯出本を帯出本に変更していただいた職員の方の好意に感謝します。)
「『幕張町誌』は、幕張町役場にあったものを、昭和48年に和田茂右衛門氏が借用し、それを千葉市史編纂委員会で増コピー、2001年にそれをさらにコピーして、幕張公民館図書室に備えるものとした。この資料は、千葉市中央図書館が、2008年に幕張公民館より借用し、コピー製本したものである。」

 この知識を得てから、「絵にみる図でよむ千葉市図誌下巻」の472ページに収録されている「天戸村字訳絵図 1876(明治9年)3月」(天戸村湯浅正夫家所蔵)を見ると、縮尺の関係で読めなかった文字「字猪の鼻」が読めました。

            「天戸村字訳絵図 1876(明治9年)3月」(天戸村湯浅正夫家所蔵)部分
 「絵にみる図でよむ千葉市図誌下巻」(千葉市発行)より転載
 図の左下の小さな四角いくくりの中に「字猪の鼻」と書いてあります。事前の情報がなければ縮尺の関係で読めません。

 地名「猪の鼻」、河川名「亥鼻川」が情報として、現代にまで伝わってきていることを、しっかりと確認できました。

イ 地名「花輪」、自然地形名「花輪台」の確認
 柳田國男の塙、花輪、半縄などの地名について、たまたま思い浮かんだ船橋市の花輪(インターチェンジ)を近傍の例として、これまで説明してきました。
 しかし、これは私の知識不足で、お膝元の検見川に正真正銘の「花輪」地名があることを最近知りました。
 「絵にみる図でよむ千葉市図誌下巻」(千葉市発行)376ページの「字掘込周辺の地番割図 1934(昭和9)年4月作製1992年写」に字として「花輪」が確認できます。

            「字掘込周辺の地番割図 1934(昭和9)年4月作製1992年写」部分
            「絵にみる図でよむ千葉市図誌下巻」(千葉市発行)より転載

 また、この台地を「花輪台」と呼んでいることを知りました。この情報は、原著者和田茂右衛門「社寺よりみた千葉の歴史」(千葉市教育委員会発行)172ページからのものです。(「この花輪台を横切っている国鉄は、…」

3 「ハナ」の原義が忘れられた後の花見川語源情報
 原著者和田茂右衛門「社寺よりみた千葉の歴史」(千葉市教育委員会発行)170ページ、209ページには、「千葉実録」(治承4年〔1180〕頃)に次のような記述があることが記載されています。
 「源頼朝が治承の昔この地を通行のさい、川の名を問われた時、千葉常胤の六男東六郎太夫胤頼が二首の和歌を差し上げて答えました。
 行く水の色もあやなる花見川 桜波よる岸の夕風
 水上の藻にや咲くらん谷川の花見にけらし峰の春風」

 縄文人が縄文海進の時代につけた地形を示す地名「ハナ」「ハナミ」の意味が忘れ去られ、輸入された外国文化としての漢字「花見」を当てはめ、美化してストーリーを作った例が上記の情報の本質だと思います。
 地名は専ら会話で使われるから、その音(この例では「ハナミ」)がしぶとく残るという、地名の継続性に感動します。

 検見川の花園町、花園1~5丁目、南花園1・2丁目の花園は「新町名設定に際し、当時の宮内三朗助役が『美しい花園のような町』になることを願い命名した」と「絵にみる図でよむ千葉市図誌下巻」(千葉市発行)375ページに記述されています。
 実は、現在の花園のその場所に字「花輪」があったのです。
 私から見ると、縄文人の「ハナワ」の「ハナ」の原義は現代人に忘れられたけれども、「花」という漢字の美しさにも支えられて、「ハナ」が「花園」として地名の中に辛くも繋がったことは、良かったと思います。「花園」命名の際に、「花輪」を残したいという土地の人々の気持ちが、当時の命名者にも届いていたのかもしれません。


4 花見川流域における「ハナ」地名、河川名
 花見川流域における「ハナ」地名、河川名を整理すると、次のようになります。
●河川名
花見川
亥鼻川
●地名(字名)
花島
猪の鼻
花輪
●地形名
花輪台

 次に、ハナミ、イノハナ、ハナシマ、ハナワの意味について探りたいと思います。
 文章が長くなりすぎるので、記事を改めます。

2011年5月23日月曜日

長沼池と縄文遺跡

宇那谷川流域紀行6 長沼池と縄文遺跡

            長沼池の復元図(基図は旧版1万分の1地形図、大正6年測図)

            長沼池の復元図(基図は現代2.5万分の1地形図)

 前の記事で書いたとおり、「六方野開墾絵図」から新田開発される前の長沼池を復元してみました。面積は約26ヘクタールあります。台地上に刻まれた浅く広い形状の谷津が、地盤変動により流れの出口がなくなり、谷津の形状そのままの沼(池)が生まれたものであると見立てました。
 この池のほとりに縄文遺跡があります。
 千葉県埋蔵文化財分布地図(3)(平成11年3月、千葉県教育委員会)から、次の情報を読み取ることができます。

遺跡名:屋敷遺跡
所在地:千葉市稲毛区長沼屋敷町
水系:花見川
種別:包蔵地
時代:縄文(中・後)
遺構・遺物等:縄文土器(加曾利E、加曾利B)
立地現状:台地上・畑、宅地
県台帳:150
文献:(空欄)
備考:(空欄)

 最近縄文時代に興味を持ち、別のブログ「ジオパークを学ぶ」で学習の記録をアップしています。(「小林達雄著『縄文の思考』を読んで」、「小林達雄著『縄文人の世界』紹介など)
地域づくりについて考えようとすると、縄文時代について理解しておくことが大切であると、多面的視点から強く感じています。
 こうした私の心理状況の中で、長沼池のほとりに縄文遺跡を見つけて、長沼池と縄文遺跡の関係について興味を深めています。

 次に私が興味を持った点について箇条書きにしてみます。今後本格的に情報を集めて、縄文人の生活をイキイキとしたイメージの中で知り、現在社会に必要な情報を自分なりに引き出したいと思います。

1 長沼池が縄文人の定住環境の場であったということ
 千葉市の歴史に関する書物で長沼池が登場するのは、宝暦期から天保期にかけての六方野開発における長沼新田と宇那谷村の争論が最初のようです。それ以前の長沼池の記述はないようです。
 しかし、縄文遺跡の存在は、縄文時代から長沼池が人々の生活の基盤として活用されたことを証明するものと考えます。この屋敷遺跡の情報について、報告書等はないようですが、出来るだけ情報を集めたいと思っています。
 また、縄文時代の長沼池の自然がどのようなものであったか、近隣遺跡等の情報から類推したいと思っています。

2 縄文遺跡が長沼池の最上流部に位置すること
 縄文遺跡が長沼池の最上流端近くに位置していることから次のような意味を読み取ることが出来るのではないかと思います。
・長沼池に水が流れ込む最初の場所、おそらく湧水近傍箇所を意識して、縄文人は定住地を定めたものと考えます。飲料水の確保が定住地選定の重要ポイントだと重います。飲料水とする清潔な水は長沼池の水面からは採っていないと想像します。
・長沼池の上流を定住地とすることで生活排水、屎尿などが池に入り、池の水を富栄養化させ、魚類などの生物生産量を増加させるということを、縄文人は体験的に知っていたと私は想像します。もちろん現代のような科学的知識ではないのですが、生活体験の知恵があったと想像します。
・近傍の母定住地から近いこともこの場所定住の要件だったと思います。母定住地として、西北西側750mの屋敷西遺跡・歯貫遺跡・新山遺跡が、あるいは南東側1100mの愛生遺跡・愛生東遺跡、北西側1300m子和清水遺跡が考えられます。母定住地はいずれも海に通じる谷津で生活条件は長沼池ほとりより良かったと想像します。人口増などの要因により海と離れた劣悪な長沼池のほとりに、飲料水は確保でき、小魚程度は採れるので、少人数の縄文人が母定住地との関係を維持しながら住んだと想像します。

3 神社「三社大神」が縄文遺跡そばにあること
 縄文遺跡と神社との関係はもちろん分りません。しかし、縄文人以来、人々の生活がこの長沼池のほとりに続き、縄文人が土地の精霊に抱いた感情が、長い年月を経ても連綿と引き継がれたものと想像します。精霊は神に昇華され、縄文人の感情が神社という形態で現代まで残っているものと想像したくなります。(ブログ「ジオパークを学ぶ」で大護八郎著「石神信仰」の読書感想として「カミと『もの』」を書きました)
 なお、三社大神の社格、名称は明治3年神社取調書上で「延喜式外」、「八幡大神、天照大神、春日大神」となっています。(「千葉市史 史料編9 近世」による)
 三社大神の由来はWEB千葉県神社庁によれば次のような説明となっています。
 「創立勧請の年代は明らかでないが、往古より土神一社を産土神として崇敬した。一方郷中では男子が15歳になると、必ず伊勢神宮に参詣し、帰路相州鎌倉八幡宮に詣でて、始めて男子の仲間入りをする習慣があったが、中古の国乱によって参詣がままならず、伊勢・相模の両宮を勧請し土神と併せ祀って三社神社と称した。」

            三社大神の鳥居

2011年5月22日日曜日

長沼池の成因

宇那谷川流域紀行5 長沼池の成因

            迅速図に表現された長沼池

 宇那谷川上流にはもととも広い長沼池がありました。この長沼池は戦後農地となり、その後住宅地へと土地利用が変貌しています。
 近代地形図で描かれた最初の長沼池は、明治前期に作成された迅速図においてです。ここで描かれた長沼池の面積を図上計測したところ、約7.6haでした。
 江戸時代には長沼池は下流の宇那谷村の水源として使われる一方、付近の原野が長沼新田として開発されました。この時、宇那谷村と長沼新田との間で長沼池にかかる争論がありました。この時つくられたと考えられる「六方野開墾絵図」(1672年5月作成、1765年写、宇那谷町内会所蔵、「絵にみる図でよむ千葉市図誌下巻」収録)によれば、まだ長沼池の水田開発が行われる前の状況が描かれており、御成り街道より南まで池が広がっています。名前のとおり「長沼」になっています。この絵図に描かれた長沼池が、人がこの池を改変する前の状態を表しているとみてよいと思います。絵図に描かれた長沼池を地図のプロットしてその面積を測定すると、約26haであり、明治時代の池面積の3.4倍ありました。

            六方野開墾絵図(宇那谷町内会所蔵、「絵にみる図でよむ千葉市図誌下巻」より転載)

 この長沼池のほとりに縄文遺跡(屋敷遺跡)があります。台地の真ん中では飲料水を得られませんから、台地上に縄文遺跡はほとんどありませんが、この長沼池のほとりに縄文遺跡があるのは、その時代から長沼池があったことを物語っていると思います。長沼池が飲料水の確保に使われるとともに、魚介等の採取地としても利用されていたと考えられます。
※屋敷遺跡〔種別:包蔵地、時代:縄文(中・後)、遺構・遺物:縄文土器(加曾利E、加曾利B)〕(千葉県教育委員会WEB情報「ふさの国文化財ナビゲーション」による)

 次に台地でありながら、なぜ長沼池ができたのか、その成因を考えてみました。
 次の図には旧版1万分の1地形図「三角原」「六方野原」(ともに大正6年測図)の等高線から閉曲線となっている凹地を抜き出してみました。この図からわかるとおり、長沼池の西側に浅い谷を連想させる台地上の凹地が連続的に分布しています。その凹地は宇那谷川と横戸川の支川谷津の上流部に該当します。同時に凹地の北側の終端は直線状の分布となり、等高線の形状から崖線の存在を確認できます。つまり、台地に谷津が形成された後、崖線を境に北側が相対的に地盤隆起し、南側(谷津の上流側、源流側)が取り残されたような状況が生まれたと想像できます。崖線が直線状ではっきり表現されているので、断層崖かもしれません。
つまり台地に谷津が刻まれた後の地盤の運動で、上流部が相対的に沈下したため、長沼池ができたと考えることが出来ます。

            長沼付近の微地形(基図は旧版1万分の1地形図)

            長沼付近の微地形(基図は現代2.5万分の1地形図)

2011年5月21日土曜日

河川と谷津をルートとする高圧送電線「花見川線」

宇那谷川流域紀行4 河川と谷津をルートとする高圧送電線「花見川線」

            宇那谷川谷津を通る高圧送電線「花見川線」

 宇那谷川が小深川と合流する手前約500mは谷津の左岸側が盛土されて谷底が狭まっています。また、その理由が私には明解に理解できませんが、宇那谷川が蓋架けされて地下水路となり、表面は草地となっています。上流側が行き止まりとなるために散歩用空間としても使い勝手が悪く、人が立ち入っている光景を見ません。
この区間は風景的に高圧送電線の専用敷地のように見えます。

 この高圧送電線「花見川線」は花見川左岸から犢橋川谷津を通り、この宇那谷川谷津に入り、さらに勝田川谷津から勝田川の佐倉市上志津原の谷津を通って下志津原方面に抜けます。河川と谷津を選択的に通るルートです。

            高圧送電線「花見川線」ルート
 赤太線が「花見川線」、オレンジ線は他の高圧送電線、赤点は変電所。

            送電線鉄塔を真下から見る

            「花見川線」の標識

            犢橋川谷津の「花見川線」

            犢橋川谷津の花見川合流部低湿地の「花見川線」鉄塔基礎

 この写真は3月23日に花見川の震災状況を見に行った時の写真です。もちろん頑丈なコンクリート基礎と鉄塔はびくともしていませんでした。この鉄塔から50m離れた花見川の護岸は被災してコンクリートブロックはバラバラになり、管理用道路にも段差がついていました。化灯の沖積地にある護岸は被災しているのに、そのすぐそばで、送電線鉄塔が地震でびくともしないことに、私はあらためて感心しました。当然といえば当然ですが、社会資本としての頑丈さを備えていることに一種安心しました。

 震災前2月22日に東電に電話ヒアリングして、このルートがこの付近の送電線で最初に出来たこと、高圧送電線でも日本最大50万ボルト送電線で千葉から東京に電気を運ぶ幹線であることなどを教えてもらいました。
 花見川流域の高圧送電線網をマップ化して、以前記事(花見川中流紀行8河川景観と送電線鉄塔)にしましたが、3月11日の東日本大震災以後計画停電などで送電線網に対する社会的関心が高まり、一時この記事の閲覧が増えました。

 私自身も震災を契機にして、変電所の位置や高圧送電線網の配置や機能に興味を一層深く持つようになりました。特に原発災害に関連して東電の発電部門と送電部門分離議論がマスコミをにぎわしていますが、こうした議論を聞くと、否が応でもう送電線網の社会インフラとしての重要性に気がつき、その実態をもっと理解したくなります。

 なお、2月22日に東電に電話ヒアリングした時、私の問い合わせ(花見川流域の送電網について詳しい情報を知りたい)に対して東電サイドの対応スタンスは次の通りでした。
1 送電線網情報は公開していないので教えられない。WEBで情報発信していない。パンフレットなどもない。窓口もない。
2 お客さん(私)は家庭電源の契約者であるので、発電所から家庭まで電気が送られる送電の一般的仕組みについては技術者が電話なら教えることは出来る。
(これでは結局何も教えてもらえないので、花見川流域について、25000分の1地形図から送電線網と変電所をプロットして、そのマップを手元において東電技術部門の方に電話する。)
3 (私のマップによるルートについて)送電電圧や機能の概略について教えていただいた。
電話に出ていただいた方の対応は丁寧でしたが、会社のスタンスは送電線網については一般には一切公表しないというものでした。

 東電が情報提供を渋る理由は、テロリストに送電線網情報を渡したくないということのようです。しかし、一般国民に送電線網の基本的情報や機能を教えないという方針は時代錯誤のように感じられます。
 送電線網は国民の生活を支える重要な社会資本ですから、その存在・維持管理や設置に対して国民の協力を得ることが必要です。そのためには送電線網の実態や機能を国民に理解(学習)してもらうことが大切です。今回の原発災害や電力不足を契機に、東電が送電線網を私物でなく公共財として扱うようになり、その情報を国民に知らせるようになることを願います。

2011年5月20日金曜日

ホトトギス初音

 今朝散歩している時にホトトギスの「キョキョッ、キョキョッ」という初音を聞き、録音機代わりにデジカメ動画を撮りましたので、アップします。実は昨日午後今年初めてホトトギスの声を聞きいていましたので、もしかしたら鳴き声を聞けるかもしれないと思っていたのですが、運よく聞け、録音できました。
 単なる鳥の声ですが、インドや中国南部などからはるばる渡ってきた鳥が、身近なところで激情的に鳴くと、私の感情がなにか騒ぎます。
飛翔しながら鳴いている動画が撮れたらまたアップしたいと思います。


            ホトトギスの鳴き声
 画面は意味がありません。ホトトギスの鳴き声だけ聞いてください。

 花見川の左岸に柏井町字高台というところがあります。台地面が実際に高くなっています。堀割普請前はこの付近の花見川谷底に東京湾側と印旛沼側の分水点があった場所です。この高台付近の雑木林に毎年ホトトギスが来ています。この林にウグイスが沢山棲息しているので、托卵するのに好都合なのでしょう。このホトトギスが近くのこてはし団地や横戸台団地などの上を激情的な声で鳴きながら、これから秋まで、毎日飛翔周回します。

2011年5月19日木曜日

厄介者扱いされた宇那谷川

 宇那谷川流域紀行3 厄介者扱いされた宇那谷川

 前回記事で紹介したとおり、水田耕作が終焉した宇那谷川は谷底の土地利用が畑と資材置き場や荒れた未利用地の混在地化し、河川はほとんど蓋架けされてしまいました。
宇那谷川は地域から厄介者扱いされています。
 河川を蓋架けしてその上部は人が進入できないようにした未利用地としていますが、そうではなく、河川の水をきれいにし、環境資源として地域づくりに活用しようという発想が大切だと思います。
 散歩しているだけでは、なぜこのような情けない河川の扱いになるのか十分に理解できません。地域づくり、街づくりの経緯に詳しい関係者や行政部局から情報を得たいと思います。

 千葉市下水道局建設部下水道計画課からいただいたパンフレット「千葉市水辺再生プラン-心なごむ 水辺の再生-」には、場所を特定しているものではない一般論として、柵渠のあるべきイメージパースが掲載されています。

            千葉市下水道局のイメージパース

            千葉市下水道局のイメージパース

 このイメージパースは単なる絵空事にすぎないのか、それとも実現していく可能性が存在しているのか、行政や関係者から情報を得たいと思います。

2011年5月18日水曜日

宇那谷川流域の風景

宇那谷川流域紀行2 宇那谷川流域の風景

宇那谷川は小深川と合流するポイントから上流500mまでの区間は谷津の左岸が埋め立てられ(み春野業務団地)、川は地下水路となっています。この区間は行き止まりとなっているため散歩する人もなく、もったいない土地利用となっています。花見川から犢橋川を経て宇那谷川に至る高圧送電線(花見川線)が通っていますが、この区間は高圧送電線を通すためだけの敷地のような景観を呈しています。

            小深川合流部付近の宇那谷川谷津(地下水路部)

 み春野業務団地から東関東自動車道までの区間の宇那谷川は、鋼矢板や鋼鉄製梁を利用した柵渠となっています。谷底の土地利用は畑や資材置き場、子ども用野球グラウンドなどです。地形図には水田の記号が出ていますが、現在の宇那谷川の谷津には水田耕作は全く見られなくなっています。

            宇那谷川の柵渠

            宇那谷川脇の資材置き場

 東関東自動車道より上流には谷底平野を利用した洪水防御用の調整池ができています。宇那谷川から調整池に越流する部分のみ開水路となっていますが、ここより上流は全て蓋架けされている地下水路になっています。

             宇那谷川の調整池越流部

            調整池脇の蓋架けされた宇那谷川

 かつてあった長沼は埋め立てられ住宅地になっています。宇那谷川はその脇を地下水路で流れています。地下水路の地表部分は未利用地になっています。

            長沼付近の宇那谷川地下水路(千葉市稲毛区長沼原町)

 地下水路化した宇那谷川の痕跡は国道16号の長沼陸橋付近の、閉店したイトーヨーカドー建物近くまで確認できます。

            蓋架けされた宇那谷川(千葉市稲毛区長沼町)
通路として利用されています。

            人家の間の宇那谷川源流部
閉店した長沼イトーヨーカドー建物付近で、未利用地が行き止まりになります。

宇那谷川流域の概要

 宇那谷川流域紀行1 宇那谷川流域の概要


 宇那谷川流域は河川延長が約4.9km、流域面積が約6.1平方kmで勝田川支川のなかでは流域面積、流路延長ともに最も大きいので、勝田川の本川筋と見立てています。
 行政界をみると、宇那谷川谷津の谷底平野と左岸側台地は、下流は千葉市花見川区、上流は千葉市稲毛区になっています。また、右岸側台地は、下流が四街道市、上流が千葉市稲毛区となっています。
 宇那谷川の源流は長沼町のイトーヨーカドー跡地付近にまでその痕跡を追うことができます。
土地利用をみると、宇那谷川谷津の谷底平野は盛土されて畑になっていて、水田耕作は行われていません。東隣流域の小深川谷津の谷底が水田耕作されていることと対照的な土地利用になっています。台地上は畑と虫食い状の小規模住宅開発地が混在している状況になっています。

2011年5月17日火曜日

み春野団地の調整池

 勝田川流域紀行9 み春野団地の調整池

            み春野団地の調整池

 宇那谷川と小深川が合流するところ(千葉市花見川区)にみ春野団地があります。み春野団地は野村不動産が販売している約1000区画の一戸建て住宅団地です。この団地造成に伴って約1.37ha(数値地図2500空間データ基盤より計測)の調整池が出来ています。
花見川流域にある調整池では大きい部類です。
 金網越しに覗くとコサギ、カワウなどの水鳥がいつも飛来してきています。調整池の底に溜まった水溜りに魚などの生きものが生息しているようです。
 勝田川とこの調整池は巨大なコンクリート壁で隔てられています。しかし、この調整池に手を加えて、野鳥などの生きものの棲息に好都合な環境をつくることは可能です。空を飛ぶ野鳥にとってみると、勝田川谷津の環境多様性が増すことになります。またこの団地や周辺に住む人が生きものの棲息を愉しむことが出来ると思います。
 後日このブログで詳しく紹介しますが、勝田川支流横戸川にあるこてはし団地の調整池はビオトープとして整備され周辺住民の憩いの場として利用されています。近くに良い参考事例があります。

            こてはし団地調整池

2011年5月16日月曜日

土地改良記念碑

勝田川流域紀行8 土地改良記念碑

            勝田川沿岸土地改良記念碑

 み春野橋と内山橋中間付近の右岸台地斜面下に土地改良記念碑があります。「勝田川沿岸土地改良記念碑」と書いてあり、平成18年に河川改修によりここに移転した旨の文字も別の石に刻んであります。
 勝田川谷津水田の土地改良がどのように行われたのか興味がありますので、今後行政の担当部局にコンタクトして情報を入手したいと思っています。

 今後次のような問題に興味を持ち、情報発信できれば面白いと思っています。
ア 谷津水田の土地改良に使ったエネルギー(お金)が現在の水田耕作にどのように役立っているのか?
う 土地改良事業を実施した当時の耕作者の気持ち(願い)と現在のそれとの比較。
エ 土地改良された耕地が放置されたり静脈産業用地に利用されたりしている問題。

 参考までに、花見川散歩でたまたま見つけた土地改良記念碑の写真をパソコンのなかからピックアップしました。勝田川水系4基、高津川水系1基、犢橋川水系1基、長作川水系1基の合計7基を見つけました

            花見川水系土地改良記念碑の分布

            佐倉市志津南部

            小深川

            宇那谷

            高津西谷津

            千葉市犢橋

            長作町天戸町

2011年5月15日日曜日

勝田川流域の生きもの

 勝田川流域紀行7 勝田川流域の生きもの

 勝田川小流域(宇那谷川と小深川合流部から花見川合流部までの区間)の散歩で見た生き物を以下にプロットしてみました。

            勝田川付近の生きもの観察プロット図

 河川改修工事前には馬橋付近に多数の亀やドジョウを見ることができました。
 カワセミは花見川から内山橋付近まで遠征してきています。横戸川の狭い柵渠の中(コンクリート製梁の下)を高速で飛翔しています。柵渠の中に餌となる生きものが生息しているようです。
 勝田川谷津の谷底は水田として利用されていますが、数年前までは夜間に歩くとホタルを見かけました。また微高地(段丘)は畑として利用されていますが、ウサギの足跡を見かけました。ノウサギか飼ウサギか判りませんが、ノウサギが生息していていもおかしくありません。
キジも良く見かけます。オスキジは人をあまり恐れません。逆に人に自分の存在を誇示するように小高い場所に陣取ってケーンと鳴きます。

            オスキジ

ヤマカガシも良く見かけます。

           ヤマカガシ

カルガモ、コサギ、ゴイサギ、カワウも良く見かけます。

            カルガモ

 生物観察を目的に散歩すればもっと沢山の動物を見つけることが出来そうです。勝田川谷津には広い水田と微高地の畑、集落や斜面の樹林、台地の畑などが広がっていて、花見川流域では、生きものが生活できる残り少ない場所となっています。
 勝田川の改修により勝田川河道が拡幅されました。この空間が生きものの生活環境として重要な役割を果たしていくことを期待しています。

2011年5月14日土曜日

緑の基本計画と勝田川谷津

 勝田川流域紀行6 緑の基本計画と勝田川谷津

 勝田川谷津は現在河川改修が行われており、花見川合流部から上流約2.7kmくらい上流までは、河川を境に北側が八千代市、南側が千葉市になっています。

            勝田川谷津の自治体境界線

 この区間は谷津の谷底平野が水田となっていて広々しており、台地縁の斜面は樹林となっていて田園的自然的風景が残っています。近隣に居住している人々の散歩の場としても活用されています。

 この勝田川谷津が緑地行政上どのように位置づけられているか、八千代市と千葉市の「緑の基本計画」で確認してみました。

1千葉市の位置づけ
 「千葉市緑と水辺の基本計画」(都市緑地保全法に規定する「緑地の保全及び緑化に関する基本計画」〔通称「緑の基本計画」〕)における勝田川谷津の位置づけの特徴
ア 勝田川谷津を含むゾーンが「中央環状緑地軸(歴史と木立の緑地軸)」として位置づけられている。
イ 中央環状緑地軸の特徴として「既成市街地を取り巻く環状の緑」「貝塚等史跡と一体となった樹林地が多い」「最も開発圧が高い緑地」が記述されている。
ウ 中央環状緑地軸の保全・整備の方向として「樹林地、農地の保全と活用」「自然型大規模公園の配置」「市民の週末田園レクリエーションの場の整備」「優れた自然地域を多数含み、これらの環境を保全しつつ、植物や動物とふれあう場の整備」が記述されている。
エ しかし、「千葉市緑と水辺の基本計画」では勝田川名称あるいは勝田川谷津が独自に扱われることはなく、それが含まれる中央環状緑地軸説明(上記イ、ウ)も勝田川谷津以外の地域を主にイメージしている。
オ 「千葉市緑と水辺の基本計画」から勝田川谷津についての具体的施策を読み取ることはできない。


            千葉市緑の将来像

            千葉市緑地軸の機能・特徴・保全・整備の方向

2八千代市の位置づけ
「八千代市緑の基本計画」のおける勝田川谷津の位置づけの特徴
ア 勝田川が緑の骨格軸として位置づけられている。
イ 同時に「勝田川周辺保全配慮地区」として重点施策地区に指定されている。
ウ 「勝田川周辺保全配慮地区」の基本方針として、「勝田川を中心に形成される緑豊かな自然環境の保全を一体的に図るため、施設緑地の配置や、地域制緑地制度の活用を効果的に行い、「緑の骨格軸」を実感できる緑とすることを目指します。」が記述されている。

            八千代市緑の将来構造図

            八千代市重点施策位置図

            勝田川周辺保全配慮地区の基本方針

感想
「千葉市緑と水辺の基本計画」では花見川、都川、鹿島川が河川として扱われていますが、勝田川が独自に扱われることはなく残念です。千葉市は勝田川と谷津の環境上の価値をもっと積極的に評価してもよいと思います。積極的に評価されなかった理由・背景として次のようなことを想像します。
ア 勝田川が市境になっていて、河川や谷津を「丸ごと」扱えないので、緑地計画意欲が中途半端にしか湧かなかった。
イ 国道16号の地域分断効果を是認し前提と考えるため、横戸台団地やこてはし台団地の居住環境として勝田川とその谷津を捉えていないこと。
ウ 勝田川より南の地域一体が戦前まで陸軍演習場となっていて、地域づくりの推進母体となるような集落(市街地)の存在が希薄であり、勝田川とその谷津の環境上の価値を享受する主体が明確でないこと。
エ 千葉市としては千葉都心の都市づくりに興味が集中し、市域縁辺僻地にまで関心を持つ計画立案上の心理的余裕がないこと。

一方「八千代市緑の基本計画」では勝田川の環境上の価値は正当に(=オーソドックスに)評価されています。勝田川とその谷津環境が勝田台団地等の居住環境として重要であることは誰でも実感できます。

2011年5月10日火曜日

勝田川の河川改修

 勝田川流域紀行5 勝田川の河川改修

 勝田川谷津(谷底平野とそれに面する谷壁斜面と台地面)は水田耕作がされていて、また斜面樹林も残っています。里山の自然風景、自然環境が残っています。一日中散歩者が絶えません。
 この勝田川谷津が河川計画、緑地計画、都市計画、道路計画などでどのように位置づけられているか、WEBから得られる資料やヒアリング等によって見ていきたいと思います。

 最初のこの記事では、勝田川の河川改修について、千葉市からいただいたパンフレットを参考に見てみたいと思います。

●勝田川改修の経緯(パンフレット「千葉市の河川」(平成15年3月)より)
 勝田川はその源を千葉市小深町地先に発し、北西市境を流下し、横戸町地先で印旛放水路に合流する流域面積20.24平方kmの河川です。下流部では土地改良(土地改良区昭和41年度設立)による改修、維持管理が行われてきましたが、近年上流の市街地化により、降雨時に下流部で溢水被害が頻発化するようになり、土地改良区による管理が困難になりました。そこで、市にその管理が移管され、流域4市(千葉市、佐倉市、八千代市、四街道市)で協議会を設立し、整備を進めているところです(名称=勝田川改修協議会:規約締結昭和54年4月1日)。協議会管理区間は6783mで、4市で協議のもと千葉市が事業主体となって維持管理を行ってきたところですが、平成6年7月に印旛放水路~宇那谷町4号橋 (3590m)が一級河川に指定されたことにより、平成6年度から都市基盤河川改修事業を導入し、改修を進めているところです。

●勝田川河川改修ステージ
 河川改修のステージは次のように整理されます。千葉市下水道局建設部都市河川課に電話ヒアリングして初めてわかりました。このようなステージステップを踏まなければならないのは、勝田川が合流する印旛放水路(花見川)の改修ステップに歩調を合わせる必要があるためという説明がありました。
・現況:平成23年現在すでに消滅している過去の状況です。(毎年溢水)
・暫定改修:平成23年現在工事が終了して、新たに現出した状況です。(3年に1回溢水)
・一次改修:暫定改修の次に工事する状況です。(10年に1回溢水)
・本格改修(将来):最終的な工事でつくる状況です。(50年に1回溢水)

●計画諸元
 ここで、「暫定改修」とは平成23年現在工事がほぼ終了した河道の状況です。「本格改修」とは将来の最終的な工事でつくる状況です。

            勝田川改修計画諸元

●標準断面図
 この標準断面には現況(「現況」という文字記述はありませんが、細線で河道断面が表示されています)と一次改修断面(草が生えている断面)、将来改修断面(緑色ハッチで表示される断面)が表示されています。平成23年現在工事がほぼ終了した「暫定改修」河道の状況は表現されていません。

          勝田川河川改修 標準断面図

●完成イメージ
 本格改修(将来)の完成イメージのスケッチが2点パンフレットに掲載されていますので転載します。

            勝田川完成イメージスケッチ
パンフレット「一級河川勝田川」(千葉市)から転載

 堤防天端に散歩者が描かれていることは「花見川流域を歩く」散歩人としてうれしいことです。ここの描かれた散歩者がそのまま花見川のサイクリング道路に出て散歩できるような状況がいつか生まれることを願います。

●暫定改修の姿
 朝日が当たる前のまだ薄暗い時に撮った写真ですが、暫定改修の姿が現出しましたので掲載します。

            暫定改修の姿(平成23年3月30日撮影 東海道付近)

            平成21年9月の姿(東海道付近)

 電話ヒアリングで、高水敷の状況を安定させるまでのために、木製の柵を低水路との間に設置したとのことを知りました。昨年の出水で木製柵が損壊している部分が既にあります。
 また、堤内地からの小規模排水口が高水敷表面に直接流れていて、溝がないところが多くなっています。排水が高水敷表面を自由に流れている状況は改修された河川では余り見かけません。私は高水敷土中に礫間浄化施設でもあるのかと思ったのですが、ヒアリングで特段の仕掛けがないことがわかりました。

 現在の状況(平成23年5月の勝田川の状況)はあくまでも「暫定改修」であり、あるべき姿に至る途上の1ステップとして捉える必要があります。

 勝田川を散歩する人も多く、非利害関係者で河川(改修)に興味を持つ人も多いので、現場にわかりやすい河川改修の説明があると、河川事業に対する周辺市民の理解が進むと思います。