2011年10月23日日曜日

花見川河川争奪の成因検討2 oryzasan氏の説と感想7

花見川河川争奪を知る21 花見川河川争奪の成因検討2 oryzasan氏の説と感想7

oryzasan氏論文「花見川の地学」第3章に対する感想の続きを述べます。

感想(つづき)

oryzasan氏は以下の点からも古柏井川下流の存在に疑念を述べられています。
エ (高地に)行く手を遮られた前谷津と後谷津(*)が、合流後あらためてそこを横切るのはおかしい。

* 谷津の名称は地名として前谷津と後谷津があります。oryzasan氏は前谷津を西谷津と、後谷津を東谷津と仮称していますが、現地地名(河川名)を優先して使用しないと混乱しますので、この記事では前谷津、後谷津の名称を使います。

次の図は標高30m以上を赤で、27.5m以上をピンクで色塗りして、河川の方向を矢印で描いたものです。

花見川付近の地形と流向

この図を見て次のことに気がつきます。

1 前谷津は最初北流し、ついで東流します。最初から高地があり、それに遮られて東流したということならば、oryzasan氏の考えは理解できます。(しかし、その場合隣の芦太川が最初からある高地を浸食して北流する説明ができません。)oryzasan氏はこのようなことをのべているのではないと思います。

2 そもそも印旛沼水系ができた当初はここに高地はなく、その後隆起帯が北に移って、この場所が高地になったというストーリーを大方の人が採用しています。oryzasan氏もそのようなお考えだと思います。そうすると、最初北流していた前谷津が、東流に流路を変更する前の流路が、高地に跡となって残っていなければなりません。地形図からそのような証拠は見られません。

東西方向と南北方向の水系パターンが構造的なものを表現していることは推察されると思います。

3 「前谷津と後谷津が合流した後、あらためて隆起した高地を北流するのはおかしい」とのことです。
高地が隆起する前は北流していたのであるが、隆起した後は流れることができなくなったということを述べているものと理解できます。もしそうならば、流出口を失った河川の水が溜まり、そこには湖沼ができるはずです。(実際に、そのような成因の湖沼として、宇那谷川の長沼池が存在したと、私は考えています。)しかし、この付近に湖沼の堆積地形は見つかりません。湖沼堆積物の観察記録もないと思います。(もしあったとしても、結局は河川争奪を考えることになりますが。)

高地の隆起で北流できなくなったので、湖沼を形成することなく、河川がみずから出口を探し、反対方向として、南流した(南流する谷を削った)ということは、原理的にあり得ません。

以上の検討から、「(高地に)行く手を遮られた前谷津と後谷津が、合流後あらためてそこを横切るのはおかしい。」という理由設定そのものが成立しません。したがって、そのことは、古柏井川下流の存在に疑念を持つ理由になりません。

前記事とこの記事で述べたことから、古柏井川の下流部が存在したという事実は疑う余地はないと思います。

古柏井川下流部は、江戸時代の堀割普請により河床掘削が行われ、同時に盛土により谷形状のほとんどが隠されました。この古柏井川下流の古地理詳細復元は今後大いに行うべき課題であると思います。

0 件のコメント:

コメントを投稿