2011年10月12日水曜日

花見川河川争奪の成因の3説

花見川河川争奪を知る8 花見川河川争奪の成因の3説

これまで、この花見川河川争奪シリーズ記事では、
ア 白鳥孝治氏によって初めて花見川河川争奪現象が記載され、証明されたこと
イ 河川争奪による東京湾水系と印旛沼水系の分水界の変化について把握したこと
などについて述べてきました。

こうしたことを踏まえて、いよいよ花見川河川争奪の成因について検討します。

検討は次の手順で行います。

ア 最初に白鳥孝治氏、oryzasan氏と私クーラーの3説を並べて比較します。
イ 3説のそれぞれについて、検討します。
ウ 成因を特定するために必要な今後の検討方法について検討します。

*    *    *

1 花見川河川争奪の成因に関する白鳥孝治氏の説
この河川の争奪を起こす原因に,次の二つが考えられる。一つは,先に述べたように,印旛沼沼水系と東京湾水系の分水界の北側で地盤の隆起が起こったと考えることである。今一つは東京湾方向に流れる谷津が延びて, 印旛沼水系の谷津を取り込んだと考えることである。東京湾水系の谷津は,いずれも谷頭付近まで深谷津的地形をなしているので,台地を崩壊させながら谷頭を延ばしていると思われるからである。
隣接する数本の谷津のうち,花島を通る花見川だけが分水界を越えて北上した理由は, ここが弱い沈降帯であったためではなかろうか。即ち,図2にみるように(千葉の自然をたずねて, P49),常総粘土層の高度分布は,柏井,花島を通る花見川付近が低い鞍部になっているので, ここは下末吉ロームの堆積後に沈降していると考えられるからである。

図2

2 花見川河川争奪の成因に関するoryzasan氏の説
この地域には関東ローム層の下部に「常総粘土層」という火山灰層が分布しますが、この地層は「古東京湾」と呼ばれる海が退いた後に生じた湿地に堆積したものです。花見川流域でのこの地層の層相分布を見ると、下流の天戸-長作地域には同時期の陸成の火山灰層(下末吉ローム層)が分布しますが、上流の花島-横戸では湿地堆積の層相を示し、天戸-長作地域の陸化・離水の時期が早かったことを示しています。もちろん現在では花島-横戸地域の方が高いのですが、古東京湾の海退直後は逆だったことになり、その後花島-横戸地域の隆起が始まって現在の分水嶺が形成されたのではないかと思います。柏井の谷津を作った川は、この海退直後の地面の傾きに従って、印旛沼に向かう流路を形成した後、分水嶺地域の隆起の開始によって行く手を阻まれて東へ曲がり、更に南へと流れて、現在の花見川の流路を作ったのではないでしょうか。

風成下末吉ローム層の分布
この図は「三谷豊・下総台地研究グループ(1996):下総台地北西部における後期更新世の地殻変動、地団研専報45」より引用しました。

3 花見川河川争奪の成因に関するクーラーの説
ア 台地形成後の地殻変動により河川争奪の素因がつくられた
花見川の周辺には、印旛沼水系河川として台地に刻まれた浅い谷がその後の地殻の沈下により東京湾水系に組み込まれたり、台地上で谷形状を残しながら凹地となり流域帰属が不明となった地形が数多くみられます。印旛沼水系には踏みとどまっていますが谷津が湖沼化した例(長沼池)もあります。
このように、台地形成後の地殻変動により河川争奪の素因がつくられたと考えます。しかし、それだけでは本格的河川争奪は起こらなかったと考えます。
イ 断層破砕帯等の差別浸食という固有の要因により河川争奪が生じた
花見川の花島付近では安政2年の大地震で大地開裂があり、他の事象も含めて印旛沼堀割線路中断層の存在を推測するに足るものであると報告されています。(巨智部忠承「印旛沼堀割線路中断層の存在」[地学雑誌4巻3号 明治25年])
また、花見川は、平面的にみて、古柏井川(花見川に争奪された印旛沼水系河川)の河道に沿って差別的に浸食を進めています。
地下水湧水量が多く、激しい谷頭浸食地形を示す近傍の谷津(例 子和清水など)と比べて、花見川の浸食力は段違いです。
そして最も特徴的で決定的なことは、花見川は一貫して古柏井川の下流に向かって浸食を進めていることです。上流に向かって浸食を進めているのではありません。
このことから、花見川河川争奪の主要な要因は、存在が推測される断層の破砕帯等地質的脆弱部の差別浸食という固有の要因によるものと考えます。

未知の断層あるいはそれ以外の未知の理由による地質的脆弱部を理由にしているので、説とは言えないかもしれませんが、思考を発展させる踏み台として述べました。

花見川河川争奪説明図
この図では、河川争奪に至らない地形(谷中分水界、台地上凹地)分布と古柏井川の下流に向かって突き進む花見川を示しています。

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