2011年11月12日土曜日

3期・4期の地形横断変遷

花見川河川争奪を知る39 花見川河川争奪の成因検討3 クーラーの説14
3期地形横断復元7

次に、3期・4期の地形横断変遷をモデル断面について、時間を追って見てみます。

1 3期(河川争奪後~普請前)の地形
3期地形横断

柏井で前谷津と後谷津を花見川に争奪されているため、空川になっている古柏井川の地形横断想定です。
空川となっている谷底面は、北柏井の集落の乗っている段丘面に対比される地形面であり、勝田川河岸段丘の千葉第Ⅱ面に対比されるものとして仮想しました。
その高さは12~15mと想定されます。
西岸寄りに段丘面(15~18m)の存在が想定されます。
この段丘面は柏井付近より南の高位段丘、勝田川の千葉第1段丘に対比されるものとして仮想しました。
川幅(谷津の台地浸食幅)250m程度、川の深さは10m~13m程度の谷であったと想定されます。

2天明期普請後の地形
天明期普請後の地形横断

享保期の普請と天明期の普請後、自然地形の谷底を3~5m程度掘り下げ、その土を主に西岸河岸段丘の上に捨土したと考えられます。
この地形横断は天保期普請の工事書類から判明しました。

この時の東岸の急斜面、西岸の河道付近の急斜面(天明期普請で掘削した斜面)、平坦面(捨土場であった段丘面)、谷上部の斜面が続保定記の絵図に表現されています。
続保定記絵図の地形表現
続保定記絵図の地形認識の断面上の対応

この断面図は水平距離を極端に圧縮して全部を一目でわかるように表現してありますが、垂直:水平=1:1にして、観察者の背丈とこの図のスケールを同一にした場合、観察者は続保定記絵図にあるような地形認識を持つことができます。

3天保期普請後の地形
天保期普請後の地形

天明期普請でつくられた古堀を約5m掘り下げ、残土を東岸の台地面縁と西岸の天明期捨土場上に捨土しました。
天保期普請では、モデル断面付近(高台付近)で東岸斜面を主に掘削して河道をつくろうとしています。
その理由として、洪水を流す線形をこの付近で東岸にカーブさせるという工学的配慮の存在が1つ考えられます。同時に天明期普請で土工量の少ない西岸段丘斜面を掘削し、その残土を段丘面上に捨土しましたが、その工事跡を触りたくなかったという事情があったと想像します。
高所にある捨土場を下から再度掘削するとなると崩れや滑りが発生し、当時の技術力では工事管理上の収拾がつかなくなることを恐れ、土工量は多少大きくなるが地山掘削の方を選んだのではないかと想像します。

4 戦後印旛沼開発工事前後の地形
戦後印旛沼開発工事前と現在の地形

戦後印旛沼開発工事前の谷底の高さは天保期の堀床の高さより3.5mほど高くなっています。その理由は土砂流入により自然に埋立が進んだものと考えられます。
戦後の印旛沼開発工事では、東岸斜面の掘削を行い河道幅を確保し、谷底を6m弱掘削しています。
天保期普請でつくられた谷地形と比較すると2mほど深く掘削しています。

2 件のコメント:

  1. Cooler様

     Oryzasanです。議論の進み方が早く、なかなかついて行けず、申し訳ありません。「3期(河川争奪後~普請前)の地形」の図、「印旛沼開発工事前の地形横断」についていくつか思うことがルのですが、とりあえず質問させてください。

    ①この図は右が西、左が東でいいのですね。
    ②右側の。印旛沼開発工事前の地形横断現在の地形横断よりも上に出ている部分は現在は無いということですか。その根拠(どこかで述べられているのかもしれませんが探せませんでした)を示して下さい。
    ③印旛沼開発工事前の地形横断の断面の下の地層、武蔵野ローム層と立川ローム層は段丘面まで、立川ローム層は古柏井川の川底まで地表面と平行に続いているのでしょうか。
    ④常総粘土層はどうなっていると考えられますか。
    ⑤武蔵野ローム層降灰以前の地表面の地形断面はどうなっていたのですか。
    ⑥⑤のような谷状の凹地は、古柏井川の浸食によって生じたのでしょうか。

     以上です。

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  2. 2011,11,21記事で返答しましたので、よろしくお願いします。

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