2011年12月25日日曜日

下野牧の名残り「野馬除土手」

下野牧の名残り「野馬除土手」 滝ノ清水跡のすぐ近くに野馬除土手が現存しています。

現存する野馬除土手(正面)

2つの土手により構成されている野馬除土手
2列の土手になっているのですが、どうしてもそれを表現する写真をとることができませんでしたので、組写真にイメージを書き込みました。

地図には溝として表記されています
千葉市提供DMデータ

ここにも千葉市教育委員会の説明板がありました。興味ある記述ですので、転載します。

千葉市教育委員会の説明板
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下野牧の名残り「野馬除土手」
千葉市長作町

この「野馬除土手」は、江戸幕府の牧場である「小金牧の内下野牧」(南は花見川団地、北は鎌ヶ谷市に続く原野)の野馬が外へでないように隣接する村々の農民が築いたものです。
下野牧には約2.300疋の野馬がいたようです。
この土手は、溝を掘り、土を左右に盛って築いたもので、野馬土手、野馬堀、道灌堀とも言われています。

下総の牧場の歴史は古く、平安時代に編纂された延喜式に下総5牧の名があります。その一つ「高津牧」は習志野原をその地にあったと推測されます。
徳川幕府は下総の東に佐倉牧、その西に小金牧、安房に峯岡牧、駿河(静岡)に愛鷹牧を置き、それぞれに内牧を設けて野馬を捕える「捕込」場を造りました。鎌ヶ谷側に下野牧の捕込場跡があり、年1度の「野馬捕り」行事は人気を呼び、見物人で賑わいました。
捕えた野馬は良馬を献上馬とし、他は駒、小荷駄用、農耕馬用として払い下げられました。農耕馬は農村の経済に大きな影響を与え、「馬の半稼ぎ、馬の半身上」と言われるほど役立っていました。 (協力:房総牧研究会 千葉市教育委員会文化課) ……………………………………………………………………

説明板のイラスト

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