2011年10月31日月曜日

4期地形の把握とわかったこと

花見川河川争奪を知る30 花見川河川争奪の成因検討3 クーラーの説5

2-3 4期地形の把握とわかったこと
5期(印旛沼総合開発以降現代まで)における地形改変の把握結果を前記事までに報告しました。
この作業により4期地形の復元把握は1949年撮影米軍空中写真によれば確実にできることが判りました。
大正6年測量の旧版1万分の1地形図や明治前期測量の迅速2万図も有力な資料となりますので、補助資料として使うこととしました。
次に示すのは米軍撮影空中写真を実体視して作成した地形分類図です。以前の記事に掲載した図を少し訂正してあります。
地形分類図

この図から、古柏井川復元に関連すると思われる事項で、わかったことを列挙します。

A
A地点東岸で盛土の背後に埋め残されたと考えられる細長い平坦面とその背後の崖が確認できました。
残念ながら現在は埋め立てられて観察できませんが、DMデータをみると、凹地に台状に盛土した様子が表現されています。この平坦面は勝田川の河岸段丘に連続することが確認できます。
DMデータと地形分類図のオーバーレイ(A、B地点付近)
(ただし、空中写真はオルソ化していません)

B 
B地点の断面図をDMデータから作成しました。
B地点断面図
(左が東岸、右が西岸)

この断面図に示される西岸背後の窪地は旧版1万分の1地形図(大正6年測量)にも迅速図(明治15年測量)にも出てくるもので、谷の斜面の一部(自然地形)であることは確実です。
注目すべきは、その斜面の最も低い場所が17m以下であることです。
つまり盛土をはがせば、この付近に17m以下の高さの何らかの谷が存在していたことを証明しています。

C
C地点の西岸には盛土に出口を塞がれた、北方向に向かう、明瞭な流入支谷が確認できます。
最も低い場所の高さは18.4mです。
盛土前に、これより低い場所に、この流入支谷が合流する本川谷津があったことが証明されます。
DMデータと地形分類図のオーバーレイ(C、D地点付近)
(ただし、空中写真はオルソ化していません)

C地点地形断面図
(左が東岸、右が西岸)

この流入支谷は迅速図に次のように描かれています。
迅速図

D
D地点の地形断面を次に示します。
D地点地形断面
(左が東岸、右が西岸)

北柏井の集落の乗る平坦面の平面形状は、前谷津(東から流入する谷津)が北に向かって流れて形成されたことを強く示唆します。
後谷津(西から流入する谷津)の合流部北側の平坦面(盛土がされていて緩斜面になっている)も同じく北に後谷津が流れたことによって形成されたことを示唆しています。

なお、A、B、C、Dの谷断片や平坦面と背後の崖は、空中写真実体視で、いずれも意外なほど「新鮮」な感じであり、古柏井川の時代を考える際のヒントになるような気がしています。

柏井から南にも平坦面(河岸段丘)が分布します。それらを含めて、平坦面の対比を今後検討したいとおもいます。
確かな対比のためには、oryzasan氏や団体研究グループが専門とするような火山灰をキーとする現場検証が必須だと思います。

2011年10月30日日曜日

5期地形改変の把握(補足)

花見川河川争奪を知る29 花見川河川争奪の成因検討3 クーラーの説4

前記事で戦後の工事で、堀割区間の河床を3~5m掘削したことと一部で実施した比較的規模の大きな斜面掘削・盛土の把握を報告しました。
このうち、河床の掘削にともない、堀割区間のほぼ全線にわたって、斜面脚部において定規断面をつくるために掘削あるいは盛土していることを示すと考えられる資料が見つかりましたので、掲載します。

次の図は、1960年(昭和35年)測量の千葉都市図で、河床掘削と斜面掘削・盛土工事の後の様子を表現しています。
この図でケバで示された部分が定規断面をつくるための斜面整形部分です。
地図表現をみるとあたかも台地を全て掘削した跡のような強い印象を受けますが、工事の実態は一部区間以外は天保期の堀割普請斜面の表面を少しだけ整形したものです。
ほとんどの区間で、斜面の位置が変化するほどの掘削、盛土は行われていません。
千葉市都市図 「「絵にみる図でよむ千葉市図誌 下巻」(千葉市発行)440ページ掲載図を引用

2011年10月29日土曜日

5期地形改変の把握

花見川河川争奪を知る28 花見川河川争奪の成因検討3 クーラーの説3

2-2 5期地形改変の把握
3期(河川争奪後~堀割普請前)の地形や古地理を復元することができれば、花見川河川争奪の姿を詳しく知るための基本情報となり、河川争奪成因の有力な検討材料も得られる可能性が高くなります。
2期(河川争奪進行期)や1期(河川争奪前)の古地理復元が可能となります。
このように花見川河川争奪の検討のキーとなるのが3期の地形・古地理復元です。
その3期の地形・古地理復元のためには、正確な4期(堀割普請後~印旛沼総合開発前)の地形把握が前提となります。
そして、4期の地形の正確な把握を行うということは、とりもなおさず5期(印旛沼総合開発後~現在)における地形改変の実態を知ることです。

花見川河川争奪について今後検討を行っていくという実際上の観点からしても、現場に出かけて地形観察する際、その地形が戦後改変された結果であるのか、そうでないのか知っておくことは必須です。
5期の地形改変の把握は次の方法で行いました。

ア 「印旛沼開発工事誌」(水資源開発公団)掲載工事記録による把握
イ 旧版1万分の1地形図とDMデータとの重ね合わせによる把握
ウ 1949年米軍撮影空中写真と近年撮影空中写真の実体視による比較

ア 「印旛沼開発工事誌」(水資源開発公団)掲載工事記録による把握
「印旛沼開発工事誌」(水資源開発公団印旛沼建設所)によれば、印旛沼干拓事業の「第一期計画とし、疏水路掘削工事を主とした計画を昭和25年に作成した」とあります。
したがって、それ以前に開発事業の工事は行われていないことは確実です。
また、「大和田から海岸までの疏水路の掘削は大半農林省において完了し、一部海岸部の掘削を行い国道14号線、京成成田線、京成千葉線等の橋りょう工事を実施して43年3月全開削工事を終わり徳川時代からの東京湾疏流の夢が実現することになった。」と書いてあります。
したがって工事は昭和25年(1950)の間から昭和43年(1968)の間に行われたことが判りました。
次の図が掲載されており、工事前と工事後の谷底の高さを縦断的に知ることができる情報を得ることができます。 堀割区間では谷底を3~5m掘り下げています。弁天橋で3.9m、高台付近で5.4m、柏井橋で3.3mとなっています。
横断図が1断面だけ掲載されており、弁天付近の掘削部です。右岸(東岸)が大きく掘削されています。
掲載された横断図以外の情報がありませんので、それ以外の斜面がどのように地形改変されたかということを知ることはこの資料からはできません。
農林省の工事内容がこの資料に掲載されていないため、現代にその情報が伝わってきていないようです。
工事前と工事後の谷底の高さ(計画縦断図)

イ 旧版1万分の1地形図とDMデータとの重ね合わせによる把握
GIS上で、旧版1万分の1地形図と千葉市提供DMデータ(*)を重ね合わせたところ、上記アではわからなかった堀割区間の掘削、盛土の概要を知ることができました。
旧版1万分の1地形図とDMデータ重ね合わせ画面の例
堀割斜面における主な掘削箇所と盛土箇所

この作業で掘削個所、盛土個所でないことが判明した堀割斜面は、天保期堀割普請の姿を基本的にそのまま伝える斜面です。
戦後の地形改変の姿が判明した意義は大きなものがあると思います。GISの活用による新旧電子地図情報の重ね合わせで、初めて把握が可能になりました。

*謝意
このブログにおける地形検討(流域界地形検討、堀割普請地形検討等)のために千葉市、佐倉市、四街道市、八千代市、習志野市、船橋市の各都市計画担当課よりDMデータを提供していただきました。ここに謝意を表します。

ウ 1949年米軍撮影空中写真と近年撮影空中写真の実体視による比較
1949年米軍撮影空中写真と近年撮影空中写真のそれぞれを実体視して比較し、イで判明した堀割斜面の掘削、盛土の概要が間違っていないことを確認しました。

この確認作業により、1949年米軍撮影空中写真が4期地形・地理を知ることのできる資料であることを確認しました。(イで判明した地形改変は1949年には実施されていないことを確認しました。)

古地理復元を記述するための時代区分

花見川河川争奪を知る27 花見川河川争奪の成因検討3 クーラーの説2

2 花見川河川争奪に関わる古地理の復元
2-1 古地理復元を記述するための時代区分
ブログ記事記述を行っていく上で、例えば、「堀割普請前の地形復元(河川争奪後の自然地形の復元)」という語句を使うと、とても分かりにくく、わずらわしい感じがします。そこで、次のような時代区分を便宜的に行い、記事を記述することにします。

ねむの木さんからのコメント

ねむの木さんからコメントをいただきました。

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おはようございます。

30年も 前の ことですが 犢橋小学校のPTAのお母さんたちが 「ふるさとこてはしを 知ろう」ということで 地域のお年寄りを 訪ねたり 文献で調べ 広報誌に連載したことがありました。
 「犢橋」の地名の由来は いま天戸大橋が架かっている橋の工事が 両岸の地盤が悪く どうしても うまくいかず 人柱の代わりに 生きた子牛を埋め 神様に捧げたそうです。 そこで 「こうしばし」「こてはし」「犢橋」となったとかーー。
子牛のことを「こて」と呼ぶと 聞いたことがありますので 調べてみたいと思っていますがーーー。

いま80代の人たちのころは よく花見川の岸辺で遊び  その頃は 清水がたくさん 流れでていた聞いた記憶があります、 なにしろ  難工事で 多くの人が 犠牲になり いまでも その供養塔があるそうですが 見たことは ありません。

橋の名前は 隣村と 折り合いがつかず 船橋側が「 天戸橋」 四街道側には 「犢橋」と表示が あったのですが 昨日 車の中から みたら 「御成街道 天戸大橋」と 真ん中ごろに 表示板が たっていました。

御成街道につきましても 面白いはなしがありますが ご存知ですか?

遅れましたが 私のことは 竹中機械製作所で 検索なさってみていただけたらーーーと 思います。「切削侍」のなかで「おんな侍」 で書いています、 これからも よろしくお願いいたします。

2011年10月21日9:34
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ねむの木さんごめんなさい。 投稿していただいたコメントが、どうしてかわかりませんが、スパムホルダーに入っていて、しばらくそこを見なかったものですから、掲載がおくれてしまいました。

犢橋の由来はとても興味があります。牛に関係することはいろいろな地名辞典に出ていますが、本当にそうか、私も調べたいと思います。
やはり「こて」の音が最初にあり、漢字は当て字と考えて、その意味を考えてみたいと思います。

それとともに、人柱のかわりに子牛をささげたという点に強く興味を惹かれます。つまり、かつては人柱があったということです。物騒なことになるので情報が地域外に出ないけれど、明治以降まで実際に人柱を立てて土木工事をしたという話を聞きます。
土木の隠れた歴史として興味が湧きます。

御成街道の橋の名前が両岸で違っていたという話も興味がわきます。この付近の明治以降の行政区域の帰属変遷は複雑であり、近隣の地域が競うような「政治」が好きな風土があるような印象をもっています。それは日本全国同じかもしれませんが。

WEB見させていただきました。あらゆる難加工に 情熱でトライする男たちのブログ「切削侍」は人気ブログですね。

今後もコメントよろしくお願い申し上げます。御成街道の話など。

2011年10月28日金曜日

参考 20万分の1地質図幅「千葉」(明治20年)

花島村近傍地質図が掲載されている「千葉図幅地質説明書」(明治21年、農商務省地質調査所、巨智部忠承 述)の親図である20万分の1地質図幅「千葉」(明治20年、農商務省地質調査所、巨智部忠承)原本を産総研第7事業所の地質調査情報センターで閲覧し、コピーさせていただきました。
この原本は個人が使っていたもので、裏表に多数の書き込みがあり、古書店が付けたと思われる購入を促す和紙の付箋(「全部日本人ノ手ニ成レル…」)が残っています。

書き込みのない原本カラーコピーも見せていただきました。
次の4種の図面があり、明治中期の地質に対する重視がうかがわれました。

千葉図幅地質図(日本語バージョン)
千葉図幅地質図(英語バージョン)
千葉図幅地形図(日本語バージョン)
千葉図幅地形図(英語バージョン)

日本山岳会が所蔵する原本を借用してコピーしたとの説明がありました。

また、千葉図幅地質説明書の原本を閲覧し、「花島村近傍地質図」のページをコピーさせていただきましたが、この原本の裏には大久保書店のラベルが残っていました。神田の地質専門古書店から購入したもののようです。

巨智部忠承が地質調査所長であった時代もあるとのことですが、その地質調査所時代著作物を後の時代に同じ機関が古書店等から収集していることを知り、時代の変遷とはこういうことだと、妙に実感させられました。

花見川河川争奪に関連して、千葉図幅地質図から得られる情報は特に見つけることはできませんでした。
千葉図幅地形図からは、花見川流域に関して、当時の地形観を偲ばせる情報が得られましたので、機会を見つけて紹介します。

巨智部忠承のカラー「花島村近傍地質図」掲載

花見川河川争奪を知る26 巨智部忠承のカラー「花島村近傍地質図」掲載

ページ「断層論文」に、巨智部忠承のカラー図葉「花島村近傍地質図」と関連記述を掲載しましたので報告します。
20万分の1地質図幅「千葉」の説明書「千葉図幅地質説明書」(明治21年、農商務省地質調査所、巨智部忠承 述)に掲載されているものです。

次に、この花島村近傍地質図を拡大して表示します。

安政地震劈裂線、地水滲漏線、断層線が描かれていて、巨智部忠承が現場で見つけた情報と断層に対する考えを具体的に知ることができます。

図中の断層線は記述文章から「平坦地層一部の陥落」(天戸村の崖地に於いて第三紀層及び第四紀層の露出あり。東面に斜下すること凡そ拾度にして層向南北なり。)を示しています。
丙丁断面図の水流の下にf記号が描いてある通り、河道の下に断層本体を想定しているものと読み取れます。

まさに花見川河川争奪発生ポイントそのものにおける情報であり、3つの素材の空間位置が現在でも正確に特定できます。
124年前の情報ではありますが、河川争奪成因検討において何らかの参考になる可能性が濃厚です。
花見川河川争奪成因検討の断層説でこの情報を詳しく検討したいと思います。

2011年10月26日水曜日

花見川河川争奪 成因検討前の予感

花見川河川争奪を知る25 花見川河川争奪の成因検討3 クーラーの説1

私(クーラー)が花見川河川争奪成因について、これから思考する内容を、記録していきます。

現在のところ明確な結論があるわけではないのですが、今後の検討の参考にはなると思います。

これまでこのブログ記事を書いてきて、特にoryzasan氏の論文を読ませていただき、花見川流域の地史について学習を深めることができたと実感しています。
同時に否応なく多量の専門的学術的情報に触れることになり、自分が初歩・入門のレベルであることをあらためて痛感しています。
しかし、初歩・入門であるからこそ、今後の知識獲得の伸び代は潜在的には大きなものがあると自ら期待します。
そして、その期待にだけ頼って、今後のこのブログ記事を1つ1つ書いていきます。
既に用意できた情報はいわばゼロです。
これからの日々の情報入手とその料理・思考のみがブログ記事掲載の原動力です。
予定調和的に河川争奪の結論を導くことができるかどうか、自分自身も興味津々です。

次のような目次で記事を「花見川河川争奪を知るシリーズ」の入れ子シリーズで連載する予定です。

1 成因検討前の予感
2 花見川河川争奪の古地理復元
3 花見川河川争奪の成因検討
3-1 断層説
・巨智部忠承の断層論
・トピックス 東京湾北縁断層の情報
3-2 埋没谷洗い出し説
4 今後の成因検討について

早速記事本題に入ります。

1 成因検討前の予感
花見川河川争奪の成因検討にあたって、予感するものがありますので、まず記録しておきます。

ア 成因検討の前に、河川争奪現象の詳細な記載が必要であること
河川争奪現象の詳細が古地理復元等で明らかになればなるほど、成因検討の材料が増加し、的確な成因説明が可能になると思います。
現在は、このブログの記事展開の通り、河川争奪現象の存在を認知するかどうかといった段階です。
河川争奪現象に関わる古地理復元情報が大いに不足しています。
ですから、成因検討をするにしても、初歩的なレベルを免れないと思います。
成因検討より古地理復元・認知の方が大切かもしれません。

イ 地下深部のブロックの動きそのもの(例 隆起とか沈下)を以って、直接花見川河川争奪を説明することはできないという予感
前記事でも述べましたが、地下深部のブロックの動きそのもの(例 隆起とか沈下)を以って、直接花見川河川争奪を説明することはできないという予感を持っています。
その予感の理由の1つは、それだけでは、花見川でのみ河川争奪が発生し、近隣河川に発生しない説明が、地理的広がりを考えると困難であるからだと思うからです。
もう1つの理由は、地下深部のブロックの動きが堆積環境にある地表に与える影響の鈍重さと、1河川だけの河川争奪という、一点突破的特殊性の間に、平仄が合わないものを直感することです。

ウ 「極端な浸食力増大をもたらした要因」=「花見川河川争奪の成因」という直感
花見川近隣の河川も強い浸食力を示す谷地形を示しています。しかし河川争奪に至っていません。
花見川は近隣河川の強い浸食力とは比べものにならない極端に強い浸食力をもって争奪対象河川を一気に浸食しているように、私の感情レベルでは感じます。
したがって、近隣河川が持つことができない、特殊的に極端な浸食力増大が花見川にもたらされたと考えます。
その特殊的に極端な浸食力増大をもたらした要因を見つけることができれば、それが即ち、花見川河川争奪の成因であると考えます。
東京湾水系のV字谷の分布
旧版1万部の1地形図から作成

黄色線に示すV字谷北端の定向分布線より北側の花見川V字谷部分の存在を、私は「極端な浸食力増大」として「感じて」います。
黄色線と花見川の交点付近に花見川河川争奪のヒントがあるかもしれません。

oryzasan氏のコメント(2011.10.25)

花見川河川争奪を知る24  oryzasan氏のコメント(2011.10.25)

oryzasan氏から次のコメントをいただきましたので、掲載します。 このコメントに対する私(クーラー)の感想等は追って別記事で述べます。
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Cooler 様 「花見川河川争奪を知る20 花見川河川争奪の成因検討2 oryzasan氏の説と感想6」を拝見しました。
 空中写真の判読から古柏井川の旧地形が復元できそうだとのお話しを興味深く読ませていただきましたが、残念ながら地形の解釈に誤りがあります。次の点です。

 「断面A-Bのイメージ」ですが花見川の開削部の上部半分を「盛土」としていますが、この部分は地山です。盛り土部分は2m弱(「横戸緑地」の公園が台地面から出っ張った部分)しかありません。 僕はこの部分が造成される現場を見ていますが、盛り土部分が関東ローム層の上に乗っているのを観察(貝化石層がローム層の上に乗っていてびっくりしました)しています。
また、現在はヤブで覆われていますが、開削部も調査がされており、厚さ約5mの陸成の関東ローム層(武蔵野ローム層+立川ローム層)の下に、常総粘土層と木下層、上岩橋層が分布するのを確認しており、これは対岸も同様です。
 従って、この部分に「古柏井川」の谷があったとすれば、それは花見川開削部の内側以外に考えられません。

 下図はCoolerさんのブログ中の地図に手を加えたものです。盛り土は両岸にありますが、これは台地面上を薄く覆っているに過ぎず、基本的にはここは地山です。各地形面の境界部ははっきりしない部分はありますが、おおかたはこんなところでしょう。

問題は千葉第Ⅰ段丘が南西に出っ張る部分(?部分)ですが、これは5万年前(千葉第Ⅰ段丘堆積物堆積時)の勝田川の支流(段丘堆積物の分布は河川の氾濫原の広がりを示しますから)を示すのかもしれません。
ただしこれが柏井にまで連続し、現在の柏井の谷津に接続したかとなると、この段丘面は柏井まで伸びてはいませんから、そうは考えられません。

なお、柏井前谷津と後谷津の南流の時期は30m地域の隆起が始まって間も無く(この頃のこの地域はわずかな高低はあったと思いますが、ほとんど平らと見て良いでしょう。)のことと考えています。
おそらくは現在の花見川も、この前後に流れの方向を変えていると思います。千葉第Ⅰ・第Ⅱ段丘の形成はそれよりももっと後のことです。
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2011年10月25日火曜日

oryzasan氏論文の感想と謝意

花見川河川争奪を知る23 花見川河川争奪の成因検討2 oryzasan氏の説と感想9

oryzasan氏論文「花見川の地学」第4章の感想と謝意を述べます。

感想
地下深部ブロックの動き

花見川河川争奪(oryzasan氏によれば単なる流域変更による分水界のずれ)の成因について、oryzasan氏は「地下深部のブロックの動きに起因するだろう」とイメージしています。

この論文や関係する論文を読ませていただくと、私も花見川河川争奪の原因の根っこには必ずや地下深部のブロックの動きがあると予感します。

地下深部のブロックの動きが表層地質・地形の世界でいくつかの事象連鎖を起こし、その事象連鎖が媒介項となり、花見川河川争奪を発生させたというモデルが考えられると思います。

地下深部のブロックの動きそのもの(例 隆起とか沈下)が直接花見川河川争奪を引き起こしたとは考えられません。地下深部のブロックの動きに起因する河川争奪媒介事象を見つけることが、成因検討になると考えています。
花見川河川争奪成因検討モデル

謝意
oryzasan氏に感謝

このブログにoryzasan氏が論文「花見川の地学」を寄せていただいたことに改めて感謝します。

おかげさまで、私自身が地史基礎学習を行うことができ、いくつかの勘違いや間違いを訂正できました。またoryzasan氏との論点の違いを検討するなかで、偶然ですが空中写真実体視というツールを獲得でき、花見川河川争奪の認識を一挙に深めることができました。それにより今後の私自身の検討展望を大きく切り開くことができました。

花見川河川争奪に関する表現の違いはありますがoryzasan氏の考える地形発達と私、あるいは白鳥氏が考える地形発達はほぼ同じものだと感じました。

機会が得られれば、現場でoryzasan氏から台地の地層観察についてご指導を受けたいと願っています。

oryzasan氏のホームページ「佐山自然誌通信 八千代市とその周辺の大地と森の歴史」を見させていただきました。台地と低地の自然史、花粉分析と八千代の森の歴史など豊富で充実したコンテンツに驚きました。すべて学術的に高度なものばかりです。このホームページを手がかりにして花見川流域の自然史の学習を深めたいと思っています。

(次の記事から、私[クーラー]の花見川河川争奪成因に関する考えをシリーズで掲載します。)

2011年10月24日月曜日

花見川河川争奪の成因検討2 oryzasan氏の説と感想8

花見川河川争奪を知る22 花見川河川争奪の成因検討2 oryzasan氏の説と感想8

oryzasan氏論文「花見川の地学」全4章の最終章である第4章を紹介します。

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oryzasan氏論文「花見川の地学」 第4章引用

Ⅳ.花見川付近でのみ分水界が北にずれるのはなぜか


白鳥さんの論文で引用された図2は僕が描いたものです。あの図は築地書館発行の「日曜の地学 千葉県編」中の「花見川から印旛沼へ」という章の中のものですが、文章の中で僕は、印旛沼と東京湾という地域の差異は木下層堆積期からすでにあり、前者に泥質の潟湖(ラグーン)堆積物が分布するのに対して、後者には砂州の堆積物が分布している。両地域の分化は地殻変動と密接な関係があり、印旛沼西部調整池周辺と東京湾とは別個の沈降域である。花見川開削の行われた横戸の台地は両者を分かつ隆起帯であり、工事の困難さをもたらした遠因になっているのではないかと書いて、常総粘土層の高度分布と泥質の木下層の分布を重ねた図を描いたのでした。図を素直に見ればわかるとおり、花島から横戸間の花見川流域は尾根状の高まり(隆起域)であり、白鳥さんの言われるような沈降域ではありません。したがって地下水が特にここに多く集まる理由はなく、谷津の頭部侵食が花見川だけで進まなければならない理由はありません。


天明・天保の開削工事において、多量の湧水のために花島付近の工事が困難を極めるのは、「ケト土」の部分を深く掘ったからでしょう。「ケト土」は泥炭層ですが、縄文海進の海が及ばなかった低地の奥に分布し、弥生時代から古墳時代の「草本質泥炭層」と縄文時代後期から晩期の「木本質泥炭層」の二つの部分に分けられます。木本質泥炭層は当時低地に成立した、ハンノキやヤチダモなどの湿地林の林床堆積物で、木の枝などの破片が厚く積もった地層です。砂や泥などはあまり含まず、分解が進んでいない、スポンジ状の木くずの集まりといった見かけを呈することもしばしばです。このため隙間が多く、多量の地下水を含むことができますし、固結力はほとんどありません。工事の困難さはこうした木本質泥炭層を深く掘り下げねばならなかったところにあったと考えられ、花見川に限らず、低地の奥であればどこででも起こり得る現象です。

図9


花見川付近でのみ分水界が北にずれる理由(即ち、東西の「柏井川」が30m隆起帯を越えられなかった理由)は実のところ、僕にはよくわかりません。下の図はクーラーさんの作られたものに僕がオレンジの直線を書き加えたものですが、僕はこの図を見て、27.5mの等高線の分布域のずれに目がいきました。地図の東に比べ、西側が500mほど北東側にずれています。地図の西の外れには花見川が見えています。これは花見川流域のみで隆起運動の軸が北にずれていることを意味するのかもしれません。

図10


関東平野における地殻変動は、1000mを越える地下の深所にある岩盤(「基盤」といいます。関東平野はこの岩盤の上に新しい時代の地層が厚く積もっています)の動きと密接な関係があるといわれています。基盤は北東-南西方向と北西-南東方向の直行する2方向の断層でズタズタに切られており、これを「ブロック」と呼びます。このブロックの動きが上に積もっている地層を変形させて、様々な地殻変動を引き起こすと考えられています。いわば畳の上に厚く布団が敷かれていて、一枚々々の畳の上下によって、上に敷かれた布団がゆがむというイメージ(関東平野の海岸線が北東-南西と北西-南東方向の直線の組み合わせからできているのはこのため)です。上図のオレンジの線の方向は、ほぼ基盤中の断層の方向であり、25m等高線のずれは、ここを境に地下のブロックが異なっている可能性(想像を逞しくすれば右の図のようなイメージ)があります。

図11


と言うわけで、花見川の流域が、この地域の一般的な分水界の北に入り込んでいる理由ははっきりしません。しかしそれは、地下深部のブロックの動きに起因するだろうとの漠然としたイメージを、僕は持っています。
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この章の感想は次の記事で述べます。

2011年10月23日日曜日

花見川河川争奪の成因検討2 oryzasan氏の説と感想7

花見川河川争奪を知る21 花見川河川争奪の成因検討2 oryzasan氏の説と感想7

oryzasan氏論文「花見川の地学」第3章に対する感想の続きを述べます。

感想(つづき)

oryzasan氏は以下の点からも古柏井川下流の存在に疑念を述べられています。
エ (高地に)行く手を遮られた前谷津と後谷津(*)が、合流後あらためてそこを横切るのはおかしい。

* 谷津の名称は地名として前谷津と後谷津があります。oryzasan氏は前谷津を西谷津と、後谷津を東谷津と仮称していますが、現地地名(河川名)を優先して使用しないと混乱しますので、この記事では前谷津、後谷津の名称を使います。

次の図は標高30m以上を赤で、27.5m以上をピンクで色塗りして、河川の方向を矢印で描いたものです。

花見川付近の地形と流向

この図を見て次のことに気がつきます。

1 前谷津は最初北流し、ついで東流します。最初から高地があり、それに遮られて東流したということならば、oryzasan氏の考えは理解できます。(しかし、その場合隣の芦太川が最初からある高地を浸食して北流する説明ができません。)oryzasan氏はこのようなことをのべているのではないと思います。

2 そもそも印旛沼水系ができた当初はここに高地はなく、その後隆起帯が北に移って、この場所が高地になったというストーリーを大方の人が採用しています。oryzasan氏もそのようなお考えだと思います。そうすると、最初北流していた前谷津が、東流に流路を変更する前の流路が、高地に跡となって残っていなければなりません。地形図からそのような証拠は見られません。

東西方向と南北方向の水系パターンが構造的なものを表現していることは推察されると思います。

3 「前谷津と後谷津が合流した後、あらためて隆起した高地を北流するのはおかしい」とのことです。
高地が隆起する前は北流していたのであるが、隆起した後は流れることができなくなったということを述べているものと理解できます。もしそうならば、流出口を失った河川の水が溜まり、そこには湖沼ができるはずです。(実際に、そのような成因の湖沼として、宇那谷川の長沼池が存在したと、私は考えています。)しかし、この付近に湖沼の堆積地形は見つかりません。湖沼堆積物の観察記録もないと思います。(もしあったとしても、結局は河川争奪を考えることになりますが。)

高地の隆起で北流できなくなったので、湖沼を形成することなく、河川がみずから出口を探し、反対方向として、南流した(南流する谷を削った)ということは、原理的にあり得ません。

以上の検討から、「(高地に)行く手を遮られた前谷津と後谷津が、合流後あらためてそこを横切るのはおかしい。」という理由設定そのものが成立しません。したがって、そのことは、古柏井川下流の存在に疑念を持つ理由になりません。

前記事とこの記事で述べたことから、古柏井川の下流部が存在したという事実は疑う余地はないと思います。

古柏井川下流部は、江戸時代の堀割普請により河床掘削が行われ、同時に盛土により谷形状のほとんどが隠されました。この古柏井川下流の古地理詳細復元は今後大いに行うべき課題であると思います。

2011年10月22日土曜日

花見川河川争奪の成因検討2 oryzasan氏の説と感想6

花見川河川争奪を知る20 花見川河川争奪の成因検討2 oryzasan氏の説と感想6

oryzasan氏論文「花見川の地学」第3章に対する感想を述べます。

感想
①河川争奪の時期はいつか

oryzasan氏のおっしゃる通り、河川争奪の時期は1.7万年前の海進開始期以前だと思います。ここらへんの地史時間概念はこの論文で学習させていただきました。

②「古柏井川」の下流は存在するか
oryzasan氏は以下の点から古柏井川下流の存在に疑念を述べられています。
ア 明瞭な谷地形が確認されない
イ 下流部ほど広いはずの谷幅が狭い。(人工的に広げたなら、なおさら)
ウ 川幅に比べて台地との高度差が大きすぎる
エ (高地に)行く手を遮られた前谷津と後谷津が、合流後あらためてそこを横切るのはおかしい。

以上のoryzasan氏の論点を検討します。

1949年撮影米軍空中写真をディスプレイ上で裸眼実体視して、次の地形分類図を作成しました。

地形分類図

この作業で、これまでの私の地形理解で重大な誤りを犯していたことに気がつきました。

次の図はこれまでこのブログで何度も掲載してきたものです。古柏井川の無能谷になった部分の水系を赤線で示してあります。2支流を考えています。

旧版1万分の1地形図の等高線分布から想定したものです。

これまでの古柏井川の無能谷部分の水系理解

余談になりますが、地団研専報45論文のリストで発見し、最近読んだ戦前の地形学者論文(基礎資料は同じ旧版1万分の1地形図を使っている)でも、同じ2支流が水系に図化されています。この論文を見た時、自分の水系理解も間違っていないと思い、まんざらでもない気分でした。

戦前地形論文の花見川水系認識
花井重次、千葉徳爾(1939):関東平野の凹地地形に就いて 特に下総台地上の凹地地形、地理、VOL2.、NO2

この水系理解が空中写真の実体視をした途端に、疑念なく、間違いであることが判りました。

A-B付近の3D画像は次の断面のようにきわめて明瞭に見ることができます。


断面A-B付近の地形分類図


断面A-Bのイメージ


このデータ、特に台地(下総下位面)を削る斜面(緩斜面、急斜面・小崖)と平坦面の連続性から、次のような地形解釈をすることができると考えました。

古柏井川の復元にかかわる地形解釈

当初考えていた支流は、支流ではなく、堀割普請の盛土で埋め尽くされなかった古柏井川の河道(の河岸段丘部分)と盛土に挟まれた空間であることが判りました。

この区間の下流の右岸(西側)の支流も同じように古柏井川の谷壁と盛土に挟まれた空間であることが判りました。

空中写真実体視恐るべしです。実体視した途端に地形の解釈ができました。

この地形解釈の精緻化による変更は大いにありうると思いますが、根本は変わらないと思います。

次の地図は1960年(昭和35年)測量の千葉市都市図ですが、堀割普請背後の平坦面が千葉第1段丘に連続している有様をよく表現している等高線が描かれています。


千葉市都市図
「絵にみる図でよむ千葉市図誌 下巻」440ページ掲載図を引用

oryzasan氏の古柏井川下流存在に対する次の疑念

ア 明瞭な谷地形が確認されない
イ 下流部ほど広いはずの谷幅が狭い。(人工的に広げたなら、なおさら)
ウ 川幅に比べて台地との高度差が大きすぎる

には、以上のデータで答えることができたと思います。

(つづく)

2011年10月21日金曜日

花見川河川争奪の成因検討2 oryzasan氏の説と感想5

花見川河川争奪を知る19 花見川河川争奪の成因検討2 oryzasan氏の説と感想5

oryzasan氏論文全4章の第3章を紹介します。

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oryzasan氏論文「花見川の地学」 第3章引用

Ⅲ.「古柏井川」は存在したか
①河川争奪の時期はいつか
最初に述べたように、この地域の川が侵食力を持っていたのは、海水面の低下期であるV字谷の時代、つまり最終氷期最寒冷期以前でなければなりません。1.7万年前(八千代市平戸における新川低地沖積層の下限の年代です)以降は海進期になり、谷は沖積層堆積の場となります。約4000年前の縄文の海の海退後もこの状況に変わりはなく、関東平野で新たに谷を刻み始めた川はありません。ですから河川の争奪があったとすれば、それはV字谷の時代以前ということになります。
②「古柏井川」の下流域は存在するか
古柏井川の上流域を花見川が奪ったとすれば、古柏井川の下流域が地形的に確認されねばなりません。とくにその時期が、最も河川の侵食力の強かった(つまり海水面の最も低下した)最終氷期最寒冷期の出来事であったとすれば、明瞭な谷地形が残されているはずです。クーラーさんはそれが横戸-柏井間の花見川開削部にあったとしていますが、はたしてそうでしょうか。
航空写真は1949年にアメリカ軍が撮影したものです。柏井の谷津と花見川の開削部が写っていますが、他の低地に比べて、花見川の開削部分は明らかに直線的です。人工的に作られたものという印象を強く受けます。花見川開削部が「古柏井川」の下流部を人為的に広げて作られたとすれば、このことは説明がつきます。しかし、その幅は柏井の谷津よりも明らかに狭く、ここが柏井の谷津の下流部であったとは考えられません。なぜなら谷津の幅は下流部ほど広いのが原則だからです。まして、「古柏井川」の下流部を人工的に広げて作られたのが花見川の開削部であるとするならば、なおのことです。

図8

また花見川の開削部の地形は、幅に比べて台地との高度差が大きいのが特徴です。このことは、例えば勝田川低地の地形と比べてみれば明瞭で、大きすぎるといって良いでしょう。もしこれが、古柏井川の谷津の底を掘り下げた結果であるとするならば、人為的改変以前、勝田川低地との合流点において、古柏井川は急流をなして勝田川に合流したことになり、不自然です。
さらに、北東に向かう柏井の谷津が突然直角に曲がるのは、30m地域の出現によって、行く手を遮られたためでしょう。それなのに、東西の谷津の合流後、改めてそこを横切ってゆくのもおかしなことです。
以上の理由から花見川の開削部が、かつての古柏井川の下流域であったとする、クーラーさんの考えには賛成できません。そして他には古柏井川の下流域の候補にあたるような地形は見あたりませんから、古柏井川はなかったというのが僕の結論です。
ただし、それは現在のように谷筋が明瞭になって以降(つまり5万年前以降)のことです。常総粘土層の堆積期、あるいはその直後であれば話は別です。この頃、この地域はほとんど平坦で、わずかな高低の差に従って水が流れ、それが現在の低地の元となる谷を刻んでゆくのですが、そんな、谷筋がまだはっきりと形成される以前であれば、「古柏井川」の存在は充分に考えられます。この頃、東西の柏井の谷津の元を作った川(「東柏井川」と「西柏井川」とでも呼びましょうか)は、芦太川や宇那谷川などと一緒に(もしかすると花見川も)、南西方向から北東方向へと並行して流れていたでしょう。30m地域の出現によって、東西の「柏井川」だけが直角に流路を変えて花見川に合流し、東京湾へと流れることになるのですが、これは河川の争奪というよりは単なる流路変更と見た方が妥当ではないかと思います。
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第3章の感想は次の記事で述べます。

2011年10月20日木曜日

「花島村近傍地質図」掲載

花見川河川争奪を知る18 「花島村傍地質図」掲載

河川争奪成因の一つの検討対象として、断層説を考えています。

ページ「断層論文」に巨智部忠承の論文を掲載してあります。

この論文内容を図で説明した「花島村近傍地質図」(「千葉図幅地質説明書、明治21年、農商務省地質調査所発行、巨智部忠承 述」に掲載)を入手しましたので、ページ「断層論文」に掲載しました。

この図の丙-丁断面に断層(f)位置が描いてあります。偶然(?)ですが、この場所が私が考える河川争奪発生ポイントです。

花見川河川争奪の成因検討2 oryzasan氏の説と感想4

花見川河川争奪を知る17 花見川河川争奪の成因検討2 oryzasan氏の説と感想4

oryzasan氏論文「花見川の地学」第2章引用に対する感想を述べます。

感想
ア 5万年前には、ほぼ現在の川筋に固定されていた
この論文を学習させていただき、沖積層を切る河川争奪という勘違いを排することができました。感謝します。

既報の通り、空中写真による地形面対比の作業を始めました。
その作業の中で、堀割普請で、掘削土捨土で埋め尽くされないで残った古柏井川の谷底面らしき地形面断片を見つけています。その地形面が勝田川の千葉第1段丘(武蔵野面相当)(房の駅より北に分布する河川段丘)に連続する感触をもっています。
もしそうだとすると、千葉第2段丘(立川面相当)を形成した河川の下刻時期に河川争奪が起こったのかもしれません。その場合5万年前より新しい時代(約2万年前)になります。
こうした想像が正確であるかどうかまだわかりませんが、作業の手がかりを得たので作業を進めて、順次報告します。

杉原(1970)による地形・地質概念図
杉原重夫(1970):下総台地西部における地形の発達、地理学評論43-12

イ 掲載図を見ながら、一つのヒントが浮かぶ
図5の花見川流域模式地質断面図とその説明から花見川流域の地層と地形発達の特徴がよくわかりました。花見川流域を含めてこのような素晴らしい研究が行われていることを知り、感動しました。

この図の上岩橋層上面が谷の形をしています。この谷の形はこの図では実際の谷ではなく、地殻変動を表現しているものだと思います。

この図の掲載趣旨と全く離れますが、この埋没谷イメージを引き金にして、「三谷豊・下総台地研究グループ(1996):下総台地北西部における後期更新世の地殻変動、地団研専報45」で次のような記述があることを思い出しました。
「木下層は、下末吉海進期の堆積物(菊池、1974)であり、上岩橋層を不整合におおって本地域のほぼ全域に分布する。基底面は一般に平坦であるが、しばしば深さ10mを越す埋積谷を基底に伴う」

もし、上岩橋層を削る深さ10m以上の埋没谷があり、その谷を埋める木下層の層相が泥層であれば、そのような場所が水蝕にさらされたとき、埋没谷が無い場所と比べて浸食が激しいという現象がおこるのではないかと想像しました。

自分としては花見川河川争奪の成因検討対象の一つになるのではないかと思いました。

2011年10月19日水曜日

花見川河川争奪の成因検討2 oryzasan氏の説と感想3

花見川河川争奪を知る16 花見川河川争奪の成因検討2 oryzasan氏の説と感想3

oryzasan氏論文全4章の第2章を紹介します。

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oryzasan氏論文「花見川の地学」 第2章引用

Ⅱ.現在の川筋が決まったのはいつか
ですから、現在の台地と低地の分布が決まるのは湿地の時代からV字谷の時代にかけてのことであり、V字谷の時代以降、川筋の変更は起きていないと考えて良いでしょう。おそらくは乾陸化の完成する東京軽石層降灰期の5万年前には、ほぼ現在の川筋に固定されていたのではないでしょうか。
古東京湾の海退直後にはまだ川はありません。海退直後の地表面の微妙な高低の分布に従って流れ出した小さな流れが、現在の川筋、つまり低地の元になったと考えられます。つまり現在の川筋が決まったのは、湿地の時代のことです。

図3

常総粘土層最下部には「三色アイス軽石層(SIP)」と呼ばれる、約13万年前の箱根山の噴出物が挟まれています。右の図は花見川流域におけるその分布図ですが、SIPが層状で挟まれているのが観察される地域と、軽石の粒として砂の間に散っているか、全く見られない地域があり、後者は前者に比べて、離水が遅れた地域と考えられます。なぜなら後者は河原など水の動きの激しい環境と考えられるからです。層状のSIPの分布域は現在の分水界地域よりも東京湾よりの、やや低い地域にあります。

図4

また、常総粘土層の最上部は、やや緑がかった、白~灰色の石けん状の粘土層よりなることが多いのですが、この粘土層は、水成の火山灰層で、水との化学反応の結果粘土化したものと言われています。しかし花見川下流域の千葉市天戸~長作付近にはこの粘土層は見られず、かわりに赤土状のローム層が分布します。この地層は「下末吉ローム層」と呼ばれる、常総粘土層と同時期に降下した陸成火山灰層です。このことは、古東京湾の海退後、まだ湿地環境が残っていた他の地域に対して、天戸~長作周辺地域の乾陸化が先行したことを示しています。離水は最も高い場所から進むはずなので、天戸~長作地域は現在の分水界地域である、横戸~柏井周辺よりも高かった(下の図)ことになります。

図5

図6

この地域に最初に流れ出した川はおそらく、この地域から北東の印旛沼方向と南西の東京湾方向に向かって流れ出しますが、間もなく分水界地域に隆起帯の軸が移って、現在の分水界が形成されたのでしょう。
次の図は八千代市周辺の台地と低地の分布に、印旛沼水系と東京湾水系との分水界を入れたものですが、最も高い、海抜高度が30mを越える地域が、分水界よりも印旛沼水系側にあることに注目してください。このことは隆起軸の印旛沼側への移動が、分水界確定後も続いていることを示しています。しかし現在の川筋はこの頃、既にある程度できあがっており、周りの隆起にもかかわらず、谷底の下刻作用を続けて、現在(正確には海水面の最降下期、つまり最終氷期最寒冷期)に至ったのでしょう。隆起軸の長作-天戸地域から30m地域への移動は、陸成下末吉ローム層に挟まれる御岳起源の軽石層、Pm-Iの年代の約7万年前から、この地域全域の陸化の完了する5万年前(東京軽石層の降灰年代です)までの間に行われたと考えられます。

図7

そうした中で花見川だけが、その流域を北に「食い込ませて」おり、やや異質な印象を受けます。それは東西の柏井の谷津の合流によります。柏井の谷津はどちらも、他の谷津と同様、北東方向に向かって流れ出しますが、30m地域に遮られるようにして流路を直角に曲げ、花見川に合流して、当初とは逆方向の東京湾へと向かいます。クーラーさんはその理由を、かつてあった「古柏井川」の上流域を花見川が奪ったためとしていますが、僕は柏井の谷津は5万年前には既に花見川の流域であったと考えています。理由は次の通りです。
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2011年10月18日火曜日

思わぬみっけものに興奮

花見川河川争奪を知る15 思わぬみっけものに興奮

2011年10月6日記事「花見川河川争奪の証明」の文章を一部削除したことを、前記事で報告しました。

この削除した文章にある花見川本川谷底と前谷津谷底の段差の成因については、やはり気になっています。

戦後の印旛沼総合開発の工事前の段差と、現在の段差を比較すれば、江戸時代の堀割普請によりできた段差の量と戦後の工事で出来た段差の量を分離して把握することができます。

それができれば、江戸時代の堀割普請の工事土量がわかり、普請の実体を定量的な工事量としてより正確に把握できます。
また、谷津の形成にかかわるなんらかの情報も得られるかもしれません。

このような視点から旧版1万分の1地形図(大正6年測量)と迅速図(2万分の1、明治15年測量)をみましたが、問題個所に段差は表現されていません。

そのようなことを考えているとき、米軍撮影空中写真なら戦後の工事前の地形実体を把握できることに気がつきました。

それを入手(購入)しようとして国土地理院のWEBをのぞいてみると、その空中写真の電子ファイルをフリーに閲覧(「名前を付けて保存」でjpgファイルのダウンロード可)できることが判り、驚きました。

さらにダウンロードした連番2つの電子ファイルをディスプレイ上でならべて裸眼実体視を試みると、

なんと鮮明な映像で地形の起伏が実体視できました!!!

久しぶりにパソコンの前で静かに大興奮しました。

すきな時に、すきな場所、すきな時点の空中写真をダウンロードして、それをパソコンディスプレイ上で実体視できる環境が日本に実現していたことに驚きました。

案の定という表現がぴったりですが、案の定、この実体視により花見川本川と前谷津の間に、戦後工事前の明瞭な段差を確認できました。その他、地図では分からなかった地形の様々な特徴が、凹凸が強調されている実体視画面の中に広がっています。

そして、さらに、なんと、堀割普請により原地形が失われたと勝手に思い込んでいた場所に、

古柏井川の谷壁の断片と考えられる地形を、複数個所発見しました。!!!

古柏井川の谷底の断片と考えられる地形まで見つかります。
古柏井川の谷地形復元に手が届いたという感触を持ちました。
その地形が花見川方向と勝田川方向でともに、これまで見過ごしてきた河岸段丘に連続しているということにも気がつきました。(追って詳細は報告します。)

米軍空中写真の閲覧と実体視により、自分の花見川河川争奪検討に一つの転機が訪れました。

終戦直後に撮影された米軍空中写真で地形を実体視で調べることができるということは、人工改変が少ない場所なら、大正、明治、江戸時代、さらにさかのぼってその地形をほぼそのまま正確に把握できるということだ、と私は思います。
地図という人の抽象化過程が介在する間接的情報ではなく、地物そのものの直接的情報を3D画像として認識できることに興奮が収まりません。

河川争奪以外の興味(縄文語「ハナ」地名由来の地形、子和清水の姿、縄文丸木舟出土地の状況、続保定記絵地図掲載情報の現地比定、特殊演習場など軍関係施設の残存状況など)にも米軍空中写真実体視は、大いに活用できそうです。

私の散歩にとって革命的と言えるほどのツールを入手できたことになります。
散歩のICT化をまた一歩進められそうです。

花見川谷底の段差から、思わぬみっけものを得ました。

裸眼実体視した画面
ダウンロードした写真は1949年米軍撮影、縮尺1:16000。ファイルの画像解像度は200dpi。

参考
国土地理院の空中写真閲覧ページ
国土変遷アーカイブ 空中写真閲覧」 http://archive.gsi.go.jp/airphoto/

現在公開されている空中写真
1936年1月~1945年12月撮影:約 17,000枚
1946年1月~1960年12月撮影:約144,000枚
1961年1月~1970年12月撮影:約138,000枚
1971年1月~1980年12月撮影:約393,000枚
1981年1月~1990年12月撮影:約 56,000枚
1991年1月~2000年12月撮影:約 71,000枚
2001年1月~2009年12月撮影:約174,000枚
2010年1月~2010年11月撮影:約 15,000枚

「花見川河川争奪の証明」記事の訂正

花見川河川争奪を知る14 「花見川河川争奪の証明」記事の訂正

oryzasan氏論文「花見川の地学」第1章を読ませていただき、自分の思考の中にあった、河川争奪により沖積層を切ることがあったかのような勘違いに気がつきました。

この勘違いにより書いた次の文章を削除しました。

2011年10月6日記事「花見川河川争奪の証明」の「なお、付け加えれば、より決定的証拠になりますが、…」文章以下の全文。

(自分の思考の跡を残しておくために、文章そのものは残し、否定線を引くことで、削除としました。)

2011年10月17日月曜日

花見川河川争奪の成因検討2 oryzasan氏の説と感想2

花見川河川争奪を知る13 花見川河川争奪の成因検討2 oryzasan氏の説と感想2

oryzasan氏論文「花見川の地学」 第1章引用に対する感想を述べます。

感想
ア 自分の思考に時間観念が無いことに気がつく

最新地学の基礎をわかりやすく噛み砕いて教えていただき、ありがとうございます。
図1と図2で花見川付近の地形発達の模式がとてもよくわかりました。
この模式図をみて、私の花見川河川争奪のイメージには地史的な時間観念がないことに気がつきました。
この教えていただいた地形発達モデルを思考の基盤として、それに自分の考えていた花見川河川争奪の概念をあてはめたところ、次のようなことが、まず、わかりました。

イ 沖積層を切るような形での河川争奪ではないこと
oryzasan氏の次の文章から、花見川河川争奪は沖積層を切るような形での河川争奪ではないことに気がつきました。

「浸食作用の卓越は、海水面低下期に伴う、海と陸との相対的な高度差の増加によってもたらされたと考えられ、その条件の失われた入り江の時代以降、低地の川が新たに川底を削り込むようなことは起きていません。

時間観念なしに考えてきたので、思考の中に河川争奪により、沖積層を切ることがあったかのような一種の勘違いが混在していたことを意識することができました。

ウ 花見川河川争奪の谷地形変化モデル
oryzasan氏の図2のモデルに従って、自分のイメージしている花見川河川争奪プロセスを想像たくましく整理して時間軸に投影してみました。

花見川河川争奪による谷地形変化モデル

2011年10月16日日曜日

花見川河川争奪の成因検討2 oryzasan氏の説と感想1

花見川河川争奪を知る12 花見川河川争奪の成因検討2 oryzasan氏の説と感想1

oryzasan氏から河川争奪に関連して再度コメントをしていただきました。「図を使わずに文章だけで意見を述べるのは困難なので、掲示板での場ではなく、メールに添付する形でコメントする」ということで、立派な論文をメール添付で送っていただきました。専門家の立場から詳しい情報を懇切丁寧に教えていただき、大感激、大感謝です。

論文は次のような4章構成になっており、11画像付きA4版8ページに及ぶものです。(論文題名はクーラーが付けました)

花見川の地学
Ⅰ. 台地と低地の形成史
Ⅱ. 現在の川筋が決まったのはいつか
Ⅲ. 「古柏井川」は存在したか
Ⅳ. 花見川付近でのみ分水界が北にずれたのはなぜか

ブログという性格上記事を区切る必要がありますので、1章1章別記事として順次紹介させていただき、その都度私の感想等も述べさせていただきます。後日論文全体を別のページに掲載させていただきます。

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oryzasan氏論文「花見川の地学」 第1章引用

Ⅰ. 台地と低地の形成史
房総半島北西部を含む関東平野の地形は、大きく見ると、高さの異なる二枚の平坦面と境界の急斜面とから出来ています。高い方の平坦面が「台地」、低い方の平坦面が「低地」、境界の斜面を「段丘崖」と言います。

図1

台地では古東京湾と呼ばれる海に積もった、上岩橋層や木下層の上に、常総粘土層や武蔵野ローム層、立川ローム層などの火山灰層が堆積しています。なお、これらの火山灰層のうち、常総粘土層は湿地堆積ですが、他は乾いた陸上に降灰したものです。またこれらの火山灰層中には、三色アイス軽石層(SIP:約13万年前の箱根山の噴出物)、東京軽石層(Tp:約5万年前、箱根山)、姶良-Tn火山灰(約2.4万年前、鹿児島湾の姶良カルデラ)などの年代、分布、噴出源の明確な「鍵層」が挟まれています。

一方低地では、これらの地層をV字状に削り込んだ谷を、沖積層が半分ほど埋めています。沖積層はこの地域では、約1.7万年前以降に堆積した地層で、海または海へと続く湿地堆積の地層です。この海はいわゆる縄文の海で、この地域では、印旛沼方向から入り込んだ「古鬼怒湾」と、東京湾側から、海老川、菊田川、浜田川-花見川低地などに入り込んだ小さな入り江がありました。古鬼怒湾は新川低地の宮内付近まで入り込んでいたことが、沖積層中のケイソウ化石の分析からわかっています。また花見川低地では、天戸付近にまで海が入り込んでいたことを、もう20年も前のことですが、河川敷に散布されていた工事残土中の貝化石から確認しています。

従って台地と低地とは、新川低地を例にすれば、次のようにしてできたと考えられます。
台地と低地の形成には、海水面の上下が密接に関係しており、古東京湾の時代以降V字谷の時代に至る海水面低下期にかけての、浸食作用卓越期に低地の基本形となるV字谷が形成され、海進期の入り江の時代に底が埋められて低地が完成します。浸食作用の卓越は、海水面低下期に伴う、海と陸との相対的な高度差の増加によってもたらされたと考えられ、その条件の失われた入り江の時代以降、低地の川が新たに川底を削り込むようなことは起きていません。

図2
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2011年10月15日土曜日

絵図から読み取れる興味深い情報

花見川河川争奪を知る11 絵図から読み取れる興味深い情報

1 堀割普請前の地形記述
論文「木原善和(1995):江戸期の印旛沼掘割工事で描かれた絵図、印旛沼自然と文化第2号」は、下総国印旛沼御普請堀割絵図(八千代市指定文化財)について説明したものですが、堀割普請前地形に関する次のような興味深い情報が掲載されています。
……………………………………………………………………
この工事で最も重要で、かつ難工事の箇所である勝田村と花島村の間で新川と花見川を繋げる箇所に、「□□ 拾四丁芝地 高七丈壱尺」と書かれ、二つの川を繋げるところが約1.4㎞の芝地で、台地と川の水面までの高さ(深さ)が約21mであることが判明した。

写真3 新川と花見川を繋ぐ掘割箇所
……………………………………………………………………

この写真を拡大して読むと、私には「ここより 拾四丁芝地 高○○○尺」と読めました。○○○は画像が不鮮明で確認できないのですが、この論文通りとすると、「ここより 拾四丁芝地 高七丈壱尺」となります。
2度目の普請である天明の普請前の地形の記述が残っていたことを指摘したという点でこの論文は画期的であると思います。

この部分の意味として次の「ア」あるいは「イ」が考えられるように感じました。

ア 地形的凹部の存在を意味に含んでいない解釈
新川から花見川方向を向いて、「(この台地は)ここから拾四丁が芝地であり、その高さは(新川の低地からみて)七丈壱尺である。」

イ 地形的凹部の存在を言外に意味しているかもしれない解釈
新川から花見川方向を向いて、「(この眼前にある堀割は)ここから拾四丁が芝地であり、(眼前の堀割の底面から、先に広がる台地の最高点までの)高さは七丈壱尺である。」

私は、この絵図が堀割の普請のために作られたので、この説明記述を書いた人の視点が(空間位置に台地ではなく)堀割にあるということと、河川争奪後の無能谷がそこに在ったことを想定しているので、「イ」のように解釈することができるのではないかと考えています。

なお、○○○が七丈壱とすると、七丈壱尺=約21mで、新川低地標高約10m、台地最高地点標高約30mですから、値そのものは、その差分とほぼ一致する値です。

2 溜池存在の表現
上記写真の地形説明文章の上に「溜井」という表現で溜池の存在がわざわざ表現されています。村名と同じ字の大きさになっていることから、絵図作成者は溜池の存在を堀割普請の開始地点として捉えていたことがうかがえます。

溜池の存在はそこが谷津の出口であることを想起させます。そのくくり線も北に向かって開いた凹みの開口部を堤防で塞いでいる様子が表現されています。

同時に水田ではなく、溜池になっているということは、その谷津が空谷であることを示しています。

また、溜池の形が谷津の奥深くに伸びた細長いものになっていないことから、その空谷の勾配が、その場所では、急であることを物語っているように感じます。

さらに、表現が溜「池」ではなく、溜「井」になっているところにも注目します。「井」とは「泉や流水から、水をくみとる所」(国語大辞典、小学館)です。溜池表現より溜井表現の方がより流水流入、湧泉の存在を念頭に置いた言葉だと思います。そこが谷津(と言っても無能谷ですが)の出口であることを強く示唆します。



* 印旛沼開削工事は享保、天明、天保の3回行われています。上記記述は最初の享保における印旛沼開削工事で、台地部の堀割普請がほとんど行われていないという前提で思考しています。


余談

なお、溜池は3度目の普請である天保の堀割普請前の絵図にも出ています。

印旛沼干拓工事関係図(部分)
幕張町中須賀武文家所蔵 「絵にみる図でよむ千葉市図誌 下巻」(千葉市発行)掲載

この絵図の溜池は天明普請で出来た堀割の出口を塞いでつくられています。


天明堀割普請地形の表現
同時に天明普請でできた堀割跡(古堀)の地形が絵図では下記のように表現されています。絵図の表現一つ一つに現場の事実が反映されていることを確認できます。

印旛沼干拓工事関係図(部分)の地形対比
幕張町中須賀武文家所蔵 「絵にみる図でよむ千葉市図誌 下巻」(千葉市発行)掲載及び旧版1万分の1地形図に加筆

2011.10.15 記事アップ後一部訂正しました。)

2011年10月14日金曜日

ようやくベールがとれた花見川河川争奪(追記)

花見川河川争奪を知る10 ようやくベールがとれた花見川河川争奪(追記)

白鳥孝治氏の論文「印旛沼落堀難工事現場の地理地質的特徴」(印旛沼自然と文化№5、1998)の引用文献リストに掲載されていた論文「木原善和(1995):江戸期の印旛沼掘割工事で描かれた絵図、印旛沼自然と文化第2号」を読み、白鳥孝治氏が八千代市有形文化財「下総国印旛沼御普請堀割絵図」をヒントに花見川河川争奪を考えていることを知りました。

2011年10月3日記事「ようやくベールがとれた花見川河川争奪」には、千葉市のことしか書かれていないので不十分ですから、次のように文章を追記し、記事の一部を修正しました。

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「下総国印旛沼御普請堀割絵図」が昭和53年に八千代市有形文化財として指定されました。この時合わせて安永9(1780)年「下総国印旛沼新開大積り帳」と天明3(1783)年「印旛沼新堀割御普請目論見帳」の2冊の古文書も附指定されています。この絵図は印旛沼堀割工事に係った時に描かれたものとして貴重な歴史資料です。

下総国印旛沼御普請堀割絵図(部分)
「八千代市の歴史資料編近世Ⅲ」カバー

この絵図は掘り割る以前の花見川の姿を伝えていて、花見川は柏井を谷頭とし、花島を南流する東京湾水系になっていることが確認できます。

八千代市教育委員会や千葉市教育委員会の活動により印旛沼堀割普請前の花見川水系の姿が一般に知られるようになり、その中で地学関係者等にもその情報が伝わり、花見川河川争奪を覆っていたベールがようやく、はがされた。ということがこの数十年程度の間に生起したと考えます。
……………………………………………………………………

追記 この記事を書いた後に八千代市ホームページでの名称「下総国印旛沼御普請掘割絵図」の「掘割」は誤で、「堀割」が正であることを八千代市に申し入れ、訂正していただきました。
専門家の間でも誤った用語「掘割」が使われています。(2014.06.01)

2011年10月13日木曜日

花見川河川争奪の成因検討1 白鳥孝治氏の説

花見川河川争奪を知る9 花見川河川争奪の成因検討1 白鳥孝治氏の説

白鳥孝治氏が考える花見川河川争奪の2つの原因(地殻変動、花見川の浸食力)は素因として捉えるなば、その通りだと思います。

なぜ花見川だけが河川争奪したかという肝心の成因については、「常総粘土層の高度分布は,柏井,花島を通る花見川付近が低い鞍部になっているので, ここは下末吉ロームの堆積後に沈降していると考えられるから」としています。

白鳥孝治氏が示した図に私が印をつけました。この部分が鞍部だということだと思います。花見川は鞍部Aのはずれです。鞍部Aの中央には長作川の「元気のよい」谷頭浸食部がありますが、河川争奪に至っていません。また鞍部Bにも河川争奪はありません。

このような事情から、常総粘土層の高度分布からみた沈降を、花見川河川争奪の成因として特定することは、大きな無理を伴っていると感じました。

鞍部を加えた図


白鳥孝治氏の論文「印旛沼落堀難工事現場の地理地質的特徴」(印旛沼自然と文化№5、1998)の本文から沢山の有用な情報を得ることができました。またこの論文の引用文献リストを活用して、こえまで接触できなかった情報に到達することができました。白鳥孝治氏の花見川河川争奪記載に敬服するとともに、感謝します。

2011年10月12日水曜日

花見川河川争奪の成因の3説

花見川河川争奪を知る8 花見川河川争奪の成因の3説

これまで、この花見川河川争奪シリーズ記事では、
ア 白鳥孝治氏によって初めて花見川河川争奪現象が記載され、証明されたこと
イ 河川争奪による東京湾水系と印旛沼水系の分水界の変化について把握したこと
などについて述べてきました。

こうしたことを踏まえて、いよいよ花見川河川争奪の成因について検討します。

検討は次の手順で行います。

ア 最初に白鳥孝治氏、oryzasan氏と私クーラーの3説を並べて比較します。
イ 3説のそれぞれについて、検討します。
ウ 成因を特定するために必要な今後の検討方法について検討します。

*    *    *

1 花見川河川争奪の成因に関する白鳥孝治氏の説
この河川の争奪を起こす原因に,次の二つが考えられる。一つは,先に述べたように,印旛沼沼水系と東京湾水系の分水界の北側で地盤の隆起が起こったと考えることである。今一つは東京湾方向に流れる谷津が延びて, 印旛沼水系の谷津を取り込んだと考えることである。東京湾水系の谷津は,いずれも谷頭付近まで深谷津的地形をなしているので,台地を崩壊させながら谷頭を延ばしていると思われるからである。
隣接する数本の谷津のうち,花島を通る花見川だけが分水界を越えて北上した理由は, ここが弱い沈降帯であったためではなかろうか。即ち,図2にみるように(千葉の自然をたずねて, P49),常総粘土層の高度分布は,柏井,花島を通る花見川付近が低い鞍部になっているので, ここは下末吉ロームの堆積後に沈降していると考えられるからである。

図2

2 花見川河川争奪の成因に関するoryzasan氏の説
この地域には関東ローム層の下部に「常総粘土層」という火山灰層が分布しますが、この地層は「古東京湾」と呼ばれる海が退いた後に生じた湿地に堆積したものです。花見川流域でのこの地層の層相分布を見ると、下流の天戸-長作地域には同時期の陸成の火山灰層(下末吉ローム層)が分布しますが、上流の花島-横戸では湿地堆積の層相を示し、天戸-長作地域の陸化・離水の時期が早かったことを示しています。もちろん現在では花島-横戸地域の方が高いのですが、古東京湾の海退直後は逆だったことになり、その後花島-横戸地域の隆起が始まって現在の分水嶺が形成されたのではないかと思います。柏井の谷津を作った川は、この海退直後の地面の傾きに従って、印旛沼に向かう流路を形成した後、分水嶺地域の隆起の開始によって行く手を阻まれて東へ曲がり、更に南へと流れて、現在の花見川の流路を作ったのではないでしょうか。

風成下末吉ローム層の分布
この図は「三谷豊・下総台地研究グループ(1996):下総台地北西部における後期更新世の地殻変動、地団研専報45」より引用しました。

3 花見川河川争奪の成因に関するクーラーの説
ア 台地形成後の地殻変動により河川争奪の素因がつくられた
花見川の周辺には、印旛沼水系河川として台地に刻まれた浅い谷がその後の地殻の沈下により東京湾水系に組み込まれたり、台地上で谷形状を残しながら凹地となり流域帰属が不明となった地形が数多くみられます。印旛沼水系には踏みとどまっていますが谷津が湖沼化した例(長沼池)もあります。
このように、台地形成後の地殻変動により河川争奪の素因がつくられたと考えます。しかし、それだけでは本格的河川争奪は起こらなかったと考えます。
イ 断層破砕帯等の差別浸食という固有の要因により河川争奪が生じた
花見川の花島付近では安政2年の大地震で大地開裂があり、他の事象も含めて印旛沼堀割線路中断層の存在を推測するに足るものであると報告されています。(巨智部忠承「印旛沼堀割線路中断層の存在」[地学雑誌4巻3号 明治25年])
また、花見川は、平面的にみて、古柏井川(花見川に争奪された印旛沼水系河川)の河道に沿って差別的に浸食を進めています。
地下水湧水量が多く、激しい谷頭浸食地形を示す近傍の谷津(例 子和清水など)と比べて、花見川の浸食力は段違いです。
そして最も特徴的で決定的なことは、花見川は一貫して古柏井川の下流に向かって浸食を進めていることです。上流に向かって浸食を進めているのではありません。
このことから、花見川河川争奪の主要な要因は、存在が推測される断層の破砕帯等地質的脆弱部の差別浸食という固有の要因によるものと考えます。

未知の断層あるいはそれ以外の未知の理由による地質的脆弱部を理由にしているので、説とは言えないかもしれませんが、思考を発展させる踏み台として述べました。

花見川河川争奪説明図
この図では、河川争奪に至らない地形(谷中分水界、台地上凹地)分布と古柏井川の下流に向かって突き進む花見川を示しています。

2011年10月11日火曜日

「下志津特殊演習場に関連した要望」に対する回答

(花見川河川争奪に関するシリーズ記事掲載が長引くことになりましたので、シリーズを中断して「『下志津特殊演習場に関連した要望』に対する回答」記事を掲載します。)


千葉市長より、2011年9月7日記事「毒ガスに関する要望の提出」で紹介した要望の回答を受領しましたので報告します。

……………………………………………………………………
                              平成23年9月27日
○○○○様
                              千葉市長熊谷俊人


         下志津特殊演習場に関連した要望について(回答)


平成23年9月6日付「下志津特殊演習場に関連した要望」につきまして、貴重な情報をご提供いただきありがとうございます。

早々に所管である環境省に情報を送付し、検討頂きました。その結果、次の3点の理由から、現在早急に対応しなければならない切迫した危険な状況にはないとの回答がありましたのでお知らせします。

今後、新たなリスクの存在を疑わせるような廃棄・遺棄情報等が認められましたら、環境省と協議し、必要な対応及び所要の環境調査等の実施を検討してまいりますので、引き続き情報の提供をお願いします。

① 演習場要図に示された特殊演習場周辺で、戦後における化学兵器の廃棄・遺棄、発見情報がないこと。

② これまでに同場所周辺での市民生活に化学弾によると思われる支障がなく、周辺の地下水調査においてもヒ素濃度に異常値が認められないこと。

③ 化学兵器を繰り返し使用して野外演習が行われていた旧陸軍習志野学校の演習場跡地において、平成19年度に行われた環境調査においても、毒ガス成分やその関連物質は検出されておらず、本件演習場においても同様の状況であると推測されること。

なお、旧軍下志津演習場内の長沼原町の研究農場においては、化学弾の可能性のある砲弾が発見・回収されておりますので、土地改変等による掘削作業における災害の未然防止のための広報として、周辺住民の皆様や、建設・土木業者の方々に注意喚起のリーフレツトを配布し、不審物への注意喚起を行っております。

また、近衛師団管轄演習場規程付図の開示につきましては、所蔵管理機関に問合せたところ、開示を希望される方が直接相談してほしい旨の回答がありましたので、直接お問合せ下さるようお願いいたします。

問合せ先
千葉市環境保全部環境保全課
(以下略)
……………………………………………………………………

感想
ア 下志津特殊演習場存在事実の認知
戦後66年経って初めて、国(環境省)と千葉市によって千葉市花見川区に在った毒ガス演習場の存在が認知されました。
遅すぎた感は否めませんが、永遠に無知であることと比較すると画期的な出来事であると思います。

イ 毒ガス事故発生の懸念に対する評価
私の毒ガス事故発生に対する懸念に対して、行政として、主として緊急性の観点から、次のように評価していただきました。
「現在早急に対応しなければならない切迫した危険な状況にはない」
環境省の専門的判断として受け止めたいと思います。

ウ 行政としての一定の規範の発生
アとイから、次のような行政上の一定の規範が生じたものと理解します。
・中長期的観点から、毒ガス事故発生の可能性を排除しないで、当該地域に対する監視を行うこと。
・周辺住民に対して啓発活動を行うこと。(現在稲毛区住民に対して啓発活動が行われていますが、花見川区住民に対しても啓発活動を行うことが大切です。)

2011年10月8日土曜日

河川争奪による分水界の変化

花見川河川争奪を知る7 河川争奪による分水界の変化

花見川河川争奪による分水界変化図
ベースマップは旧版1万分の1地形図

堀割普請前の復元水系図にもとづいて、大正6年測量の地形図により東京湾水系と印旛沼水系の分水界図を作成し、その中に花見川河川争奪前の復元想定分水界を点線で図示しました。
この図により、花見川河川争奪により、印旛沼水系から東京湾水系に移行した流域を面的に把握することができます。

この図のベースマップを現代の地図に置き換えて、次に示します。

花見川河川争奪による分水界変化図
ベースマップは2万5千分の1地形図

なお、既報(2011年7月27日記事「河川争奪の胚」)でも述べましたが、東京湾水系と印旛沼水系の分水界付近のコンター分布は極めて特徴的な様相を呈しています。分水界線を引くことが困難です。

こうした、私にとって「いわくつき」の地形について、分水界線を引くために、旧版1万分の1地形図のコンターを改めて詳細に見たところ、分水界線を引くためには次のようなイメージを持つと合理的に引けることが判りましたので、河川争奪の成因にもかかわることなので、記録しておきます。

分水界線を引くための地形解釈イメージ

分水界線を引くことが困難な表面的な理由は大きな凹地等を含むどちらの流域に含めてよいのかわからない地域が広がっていることです。

この「困難」を「困難」として捉えるのではなく、そうした流域未確定領域が存在すると考えたらどうだろうかと気がつきました。つまり、人世界でたとえれば、国境紛争地帯があり、国境未確定になっている領域があると考えれば、よいのではないかと気がついたことです。

これまで、力づくで流域界線を引こうとしていたのですが、自然地形にも流域未確定領域という概念を導入すれば、地形(とその成因)の理解がより合理的にできそうだと気がつきました。

今回の作業では、流域未確定領域を東京湾側の水系に「一時帰属」させて分水界線を引きました。