2012年5月1日火曜日

双子塚築造時の花見川源頭部の地形

花見川源頭部付近にあった古墳 その4

現在の双子塚付近の地形段彩図を次に示します。

双子塚付近の地形段彩図
地形データは5mメッシュ
地図表記はDMデータ(千葉市提供)
使用した表現ソフトは地図太郎PLUS及びカシミール3D

この地形段彩図をカシミール3Dを使って3D表示しました。

地形段彩図の3D表示
地形データは5mメッシュ
地図表記はDMデータ(千葉市提供)
使用した表現ソフトは地図太郎PLUS及びカシミール3D

この現状地形3D図を使って、双子塚築造時の地形イメージ図を作成しました。

双子塚築造時の地形イメージ図

このイメージ図から次の事柄が読み取れます。
ア 双子塚の乗る地形面は下総上位面
双子塚の場所は団地開発の際に切土して一段下げていますが、双子塚があった当時は現在より1m程度高く、丁度下総上位面の北端に位置していました。
双子塚のすぐ北は段丘崖(海蝕崖)起源の斜面となっていて、すぐに下総下位面(横戸台団地の住宅地部分)となります。

イ 双子塚は花見川源頭部急斜面が見える場所のすぐ近くに位置している
堀割普請による土手がありませんから、双子塚の西は花見川源頭部急斜面と下流の谷底水田がよく見える場所になっています。
源頭部急斜面には湧水があったにちがいありません。
源頭部の源泉がよく見える場所に祭祀遺跡があるという関係は子和清水と子和清水遺跡と全く同じです。
御手洗之泉と二宮神社の関係も同じです。
滝ノ泉と春日神社もおそらく同じ関係であったものと考えます。

ウ 源頭部急斜面の上は谷中分水界となっている
源頭部急斜面の上は谷中分水界になっていて、北に下る古柏井川の谷底となっています。
この谷底は空川であったと考えられます。

このイメージ図から、私は次の思考を展開しました。
エ 双子塚を築造した豪族のテリトリー
双子塚を築造した豪族のテリトリーは双子塚より南の花見川谷底にあったことは確実であると考えます。
開発した水田の範囲と居所は改めてじっくり検討したいと思いますが、現時点では開発水田範囲はせいぜい天戸付近まで、居所は柏井付近と見立てています。
豪族と表現しましたが、まことにローカルな小豪族です。
同じころ、犢橋川には別の小豪族がいて、子和清水で同じような水田耕作に関わる祭祀をしていたものと考えます。

オ 谷中分水界が印旛沼水系豪族との領地境
古柏井川は空川で水田耕作ができませんから、古墳時代にだれかの領地になっていたとは考えませんが、古柏井川が印旛沼水系に注ぐ谷津であることから、潜在的な領有権は印旛沼水系豪族サイドにあったものと考えます。
縄文時代は古柏井川は居所としては無人でしたが、歴史時代になると古柏井川は印旛沼水系の方から見つめられることが多くなり、東京湾水系との境付近では、印旛沼水系サイドの方が土地に対する意欲が勝っていたと考えます。
なぜそう考えるか、追って別記事で説明します。

つづく

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