2012年8月10日金曜日

双子塚古墳の過去・現在・未来 その4

双子塚古墳出土物を閲覧して

3 古墳時代
3-2 土器の出土状況

2つの土器は報告書によれば次の土層から出土しています。

古墳時代土器の出土層
報告書による

3-3 土器形式からみた古墳年代と利用期間
双子塚古墳出土土器の形式と出土状況を一覧表に整理し、土器と古墳築造年代との関係を見てみました。

出土土器
土器形式
年代
出土状況
土器と古墳築造年代との関係
甕型土器底部破片
和泉期
古墳時代中期(5世紀代)
周溝覆土の最上層のa層よりの出土
古墳築造年代は出土土器年代と同じか、それより古い
小型甕
鬼高期
古墳時代後期
周溝覆土の最上層のa層よりの出土
(和泉期土器が出土しているので)古墳築造年代は出土土器年代より古い
(参考)岩波日本史辞典(岩波書店)による土器形式説明
和泉式土器:関東地方に広く分布する5世紀を中心とした時期の土師器。東京都狛江市にある和泉遺跡出土土器を標式として、1940年杉原荘介によって命名された。西日本同期の土器の影響を強く受けている。関東地方の中期古墳の副葬品として出土するほか、祭祀遺構からもまとまって出ることが多い。
鬼高式土器:関東一円に分布する5世紀末~7世紀後半の土師器。千葉県市川市にある鬼高遺跡出土の土器を標式として1938年に杉原荘介が命名。大きな特徴は坏(つき)や高坏に赤彩を施すものが多いことで、長胴の甕と須恵器の形態を取入れた坏が目立つ。

ここでは、出土土器の形式判定に間違いがなく、また、土器形式の年代認識が上表の通りであることを機械的に前提とし、検討します。

双子塚古墳からは、古墳時代中期と後期の2つの年代の土器が出土したことになります。

このことから、次の2点が判明します。
1 古墳築造年代をある程度絞り込むことができる情報が得られること。
2 古墳利用期間に関する情報が得られること。

古墳築造年代に関してみると、土器の出土状況は、いずれも古墳築造時につくられた周溝が後の時代に覆土され、その覆土中から見つかっていることが重要な手がかりとなります。(報告書では逆にこれを持って「断定できない」とし、そこで思考を停止しています。)

つまり出土状況からみて、ア 古墳築造年代は土器作成年代と同じか、イ それより古いか、のどちらかになります。

上記のうち、「イ 土器作成年代より古墳築造年代が古い」かもしれないという条件は直感的に理解していただけると思います。
「ア 古墳築造年代は土器作成年代と同じ」かもしれないという条件は、土器がもともと古墳本体中に埋納されていて、それが後代に何らかの理由で一旦出土し、その後二次的に周溝覆土中に収まったという可能性があることから考えられます。

周溝覆土a層は、断面分布形状から明白に把握できるように、古墳本体の積土が雨水等によって流下して形成されたものです。
従って、土器がもともと古墳本体の積土中にあり、雨水浸食(や盗掘等)で一旦古墳の外に出て、周溝に落ちたという可能性は十分にあり得ます。

結論としては、古墳築造年代に関する情報として、古い方の土器(甕型土器底部破片、和泉期)が示す年代、つまり古墳時代中期が双子塚古墳の作成年代か、あるいはそれより以前に作られたという情報が得られたことになります。

また、和泉期と鬼高期の土器が(祭祀が行われたと考えられる)テラス近くの周溝覆土の中から見つかったということは、和泉期から鬼高期にわたるある期間、つまり古墳時代中期から後期にかけてのある期間、この古墳が祭祀の場として使われていたということを物語っていると思います。

おそらく柏井、場合によっては花島付近を拠点とする小豪族の支配力が、ある一定期間安定して継承されていたことを示す情報を得ることが出来たと考えます。

和泉式土器を配下の各地小豪族に普及した時の中央権力が、鬼高式土器を普及させた次の中央権力に移行していった時間の中で、双子塚古墳を築造し利用した小豪族はその時々の中央権力と折り合いを付けながら、自らの支配力を子孫に継承させていったと考えることもできます。

土器が出土した周溝覆土は古墳本体から流出した土ですが、その古墳本体のつくり方や築造後の浸食のされ方について、次に、参考までに検討します。

(つづく)

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