2012年9月17日月曜日

柏井橋~柏井高校間左岸(東岸)の捨土土手

天保期印旛沼堀割普請の捨土土手の詳細検討 その6

8 第1区間左岸(東岸)の捨土土手分布把握
2012.9.7記事「柏井橋~柏井高校間右岸(西岸)の捨土土手」のつづきで、同区間東岸の捨土土手の分布、形状を把握しました。

次に地形断面図を3例示します。

11番断面
断面線から東岸に捨土土手の顕著な形状を指摘できません。

16番断面
ここも、断面線から東岸に捨土土手の顕著な形状を指摘できません。

21番断面
断面線形状から捨土土手の形状を指摘できます。

このような断面図の検討から、第1区間東岸の捨土土手の分布を平面図に追記してみました。

第1区間(柏井橋~柏井高校間)の捨土土手分布図

9 11番断面や16番断面に捨土がなかった証拠はない
ここまで作業を進めてきて、自分の作業が多少無邪気であることに気がつきました。
11番断面や16番断面の東岸では、捨土の量が少なかったり、土手をつくらないで、層状に土を置いた場所であることも否定できないからです。

以前から次の図が気がかりでした。
この図は「天保期の印旛沼堀割普請」(千葉市発行)に収録されている資料ですが、同書の説明によれば、横戸村と花島村間の台地は「土置場」として設定されているとなっています。

天保13年試掘時の北柏井村堀割筋略図(千葉市 川口和夫家文書T1-36)
「天保期の印旛沼堀割普請」(千葉市発行)収録
読みも「天保期の印旛沼堀割普請」(千葉市発行)による。

私は、この本の説明から、11番断面や16番断面の東岸は、顕著な土手形状こそありませんが、「土置場」として設定された場所に位置していたと捉えました。

しかしよくこの図を検討すると、この本の説明が全く間違っていることに気がつきました。

この図のAは21断面付近の台地上の捨土土手を表しているように思います。
しかしBは花見川谷底における土置場であり、台地ではないことがわかりました。
なぜ、この本の説明が間違っているのか、別記事で説明します。

結論から言うと、私にとって以前から既知であったこの古文書からは11番断面や16番断面における捨土土手に関する情報は得られませんでした。
別の資料(別の古文書、米軍空中写真等)での検討を追ってしたいと思っています。
そうすることによって、11番断面や16番断面の東岸台地と天保期印旛沼堀割普請との関わりに関する何らかの情報は得たいとおもいます。

つづく

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