2012年10月3日水曜日

「天保13年試掘時の北柏井村堀割筋略図」の解読

天保期印旛沼堀割普請の土木遺構の詳細検討 その13

16 「天保13年試掘時の北柏井村堀割筋略図」の解読
20120917記事「柏井橋~柏井高校間左岸(東岸)の捨土土手」で取り上げた「天保13年試掘時の北柏井村堀割筋略図」(「天保期の印旛沼堀割普請」(千葉市発行)収録)について検討し、この資料で掲載されている土置場がどこで、それが捨土土手とどのような関係にあるのか検討します。

この記事では、検討に入る前にこの資料の文字の解読をしてみました。

ア 資料の影印
資料の生の影印は次の通りです。

天保13年試掘時の北柏井村堀割筋略図(千葉市 川口和夫家文書T1-36)
「天保期の印旛沼堀割普請」(千葉市発行)収録

イ 文字解読と略図区分の書き込み
影印に文字の解読結果と略図の区分を書き込んでみました。

文字解読と略図区分の書き込み図

イ-1 文字の解読
青字は「天保期の印旛沼堀割普請」(千葉市発行)に解説として掲載されている読みの情報です。間違いのない情報です。
赤字は、私が青字や同書の他の情報等から読んだ結果です。
このうち次の字(午)は当初読めませんでした。

午の文字

位置的には東西南北の南の字が入るべきところです。
しかし、どう見ても南の字には読めません。いろいろ思案しているうちに、干支の午(ウマ)が方位では南を指すことに気が付き、午という字であることにたどり着きました。

東西北の字と比べると色が薄く、恐らく朱書きだと思います。北柏井村の教養の程度をさりげなくこの地図に書き込んだものと思われます。

なお、現代では北を基準に考えますが、この略図では南を基準にしており、文字の向きも南を上にした場合(上図の逆さま)が正位です。
このような地図の作り方がこの時代の一般的なものであるかどうか、知識がないので私にはわかりません。

また、次の字は崩し字を自分に納得できるように読めなかったので、仮に「弥」村としておきました。後日専門家に教えてもらいたいと思っています。

弥?村の文字

弥村(ミムラ)と読んで村の人家が沢山ある場所の意として解釈する仮設を立てました。
ちょうど広い河岸段丘のある北柏井村の人家密集地帯方面の位置を指していると考えました。

イ-2 略図の区分
中央のゾーン(青色)は堀割筋、両側のゾーン(ピンク色)が此筋土置場也、あるいは土置場と記載されています。
両側のゾーン(ピンク色)の外側にも私領地此所土置場有之などの文字があり、くくり線はありませんが第3のゾーンになっています。

ウ 文字解読と略図区分結果
資料の生の影印を消し、文字解読と略図区分結果だけの図にしてみました。

解読図

この解読図に基づいて、天保期印旛沼堀割普請の土木遺構についての情報を得て、捨土土手の素性について考えてみたいと思います。

つづく

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