2013年6月29日土曜日

紹介 東国駅路網の変遷過程

花見川地峡の自然史と交通の記憶 17

2013.06.24記事「平安時代の東海道と花見川地峡」で示したように、平安時代には花見川河口の幕張が東海道の駅となっていました。駅は東海道という陸路の駅であるとともに、それと交わる水運路の駅であったことが必然的に考えられます。このことから、花見川(水運)-花見川地峡(陸運)-平戸川(水運)-印旛沼(香取の海)(水運)という水運路の存在に着目することができると述べました。

中村太一著「日本古代国家と計画道路」(吉川弘文館、平成8年)では東国駅路網の変遷過程について、詳細な研究成果をまとめていますので、引用、紹介します。この研究成果が古代東国道路網に関する情報の現在のスタンダードになっているようです。

1 7世紀中頃から持統3年(689)までの道路体系

7世紀中頃から持統3年(689)までの道路体系
出典:中村太一著「日本古代国家と計画道路」(吉川弘文館、平成8年)
引用者が道路を赤色で着色

東海道は三浦半島の走水から海路で富津岬に抜けて上総に入り、常陸に向かうルートとなっています。
東海道と東山道を結ぶ相模-武蔵-上野ルート(古代国家の計画道路)が存在していました。

2 持統3年(689)から神護景雲2年(768)までの道路体系

持統3年(689)から神護景雲2年(768)までの道路体系
出典:中村太一著「日本古代国家と計画道路」(吉川弘文館、平成8年)
引用者が道路を赤色で着色


この段階で、駅家・駅路が制度的に確立し駅制が成立しました。
相模-武蔵-下総を連結する東海・東山道連絡駅路が成立しました。
浮島駅がこの東海・東山道連絡駅路の一つ駅として設置されました。

3 延暦15年(796)頃の道路体系

延暦15年(796)頃の道路体系
出典:中村太一著「日本古代国家と計画道路」(吉川弘文館、平成8年)
引用者が道路を赤色で着色

宝亀2年(771)の武蔵国の東海道編入(それ以前は東山道)によって、東山道武蔵路と東海道走水ルートが廃止され、相模国府-武蔵国府-下総国府-上総国というルートが東海道本路として位置付けされました。
この時期では浮島駅は東海道本路の駅であったことになります。

4 弘仁6年(815)頃の道路体系

弘仁6年(815)頃の道路体系
出典:中村太一著「日本古代国家と計画道路」(吉川弘文館、平成8年)
引用者が道路を赤色で着色

下総国から常陸国に入るルートを最短距離で結ぶために、浮島・河曲・鳥取どを結ぶルートに代わり、下総国井上駅から茜津・於賦駅などを経て常陸国に入るルートが開かれました。
浮島駅は東海道本路から分かれて上総国に向かう支路の駅として格下げされました。

5 10世紀代頃の道路体系

10世紀代頃の道路体系
出典:中村太一著「日本古代国家と計画道路」(吉川弘文館、平成8年)
引用者が道路を赤色で着色

武蔵国内の東海道本路が、武蔵国府を経由しない路線形態に変化しました。

この書のなかで、10世紀末頃には全国一律な駅制は崩壊すると考えられ、10世紀中頃が駅制のほぼ最終段階と考えられると記述されています。

つづく

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次の記事作成のためのメモ

上記マップに出てくる駅制の駅名を見ると、○○津として茜津駅・平津駅がみえる。○○戸はない。

またこの書で古代東国の水上交通について検討していて、その中で古地名のなかの「津」に着目している。

一方、14世紀文書海夫注文の検討で得たイメージ(「戸」は在来的、民衆的、「津」は新規的、官側的)は「津→戸」俗論の誤りを指摘するのに有効であった。

これらのことから、「戸」と対比して得られる「津」の意味は、古代交通政策(計画)の認識を深める上で大きな意義を持つと考える。

「津」の本義は古代国家における国土政策用語、国土計画用語としての港湾であると思う。

「戸」は古代国家成立前から既に一般語であり、一般民衆が使う言葉であり、多義的な言葉であるので、支配層は国土政策(国土計画)用語としてはこれを避け、テクニカルターム「津」を使ったのではないか?

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