2013年7月6日土曜日

花島観音と行基

花見川地峡の自然史と交通の記憶 22

2013.07.05記事「東海道「浮島」駅と花島観音の関係」で花島観音の開基が行基によるものであり、その伝承から花島観音が位置する花見川が、8世紀初頭には東国交通ネットワークの中に位置づけられていたことを論じました。

さて、ここでは行基が花島観音という花見川の中でも相当奥まった場所に係ったことの意味を検討してみます。

この検討はすべて想像(空想)です。

桜の頃の花島観音
島状に孤立した河岸段丘上に花島観音があり、樹木に覆われている。

1 行基の土木業績
行基の業績については興味を持ちましたので、また、東国巡錫ということが史実としてどれだけの確からしさがあるのか、これから専門書で学習して行きたいと思っています。
一般には、行基は高僧でありながら民衆のために土木工事を行ったことで有名であり、道場や寺院を多く建立しただけでなく、溜池15窪、溝と堀9筋、架橋6所、困窮者のための布施屋9ケ所等の設立など数々の社会事業を成し遂げたとされています。(ウィキペディアなどによる)

2 花見川に行基が登場した理由
香取の海と東京湾を結ぶ水運路(花見川-花見川地峡-平戸川)[花見川地峡部は陸路]に位置する場所に行基が登場し、その場所に花島観音が開基した理由は、行基が土木面で社会救済をしていた高僧であるということから、地域の人々が土木面で行基を必要とし、期待したからであると想像します。

単なる仏教の布教活動を行基が行い、その跡が残されたと考えるのでは行基が登場してくる意味があまりないと思います。

具体的に想像するに、香取の海と東京湾を結ぶ水運路(花見川-花見川地峡-平戸川)のうち、花見川地峡の存在は大きなネックです。ここに溝あるいは堀がつくられれば舟運が通じ、交通路としての価値が高まります。

つまり、古代にあっても、近世の印旛沼堀割普請と同じく、人々は花見川地峡の開削を渇望し、その願いを行基に託したのではないでしょうか。

行基が花見川の地に来たことが史実であればなおのこと、それが後世の創作による伝承であっても、行基登場の意味は同じであると思います。地域の人々が、花見川地峡開削の願いを行基に託した結果が、寺伝としての「行基による開基」になったのだと思います。

花島観音が花見川の奥深くに存在している理由は、古代にあって、花見川地峡開削の祈願が行われた場所がここであったということだと想像します。

花見川地峡付近の地形模式図
印旛沼堀割普請前には、花見川地峡に平戸川支谷津の古柏井川が存在していたが、河岸段丘化していて、陸路でのみ越えることができたと考えられる。(サイト「花見川流域資料1 下総台地の地形発達史」参照)

つづく


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