2013年9月29日日曜日

人工河川から地峡河川へ その3

前々報(2013.09.25記事「人工河川から地峡河川へ」)と前報(2013.09.28記事「人工河川から地峡河川へ その2」の記述事項に関連して、「地峡」の説明地図を掲載します。

次の図は吉田東伍著「利根治水論考」(明治43年)掲載地図「衣河流海古代(約千年)水脈想定図」に花見川(戦後印旛沼開発事業で勝田川と高津川を追加合流する前の元祖花見川)と平戸川の位置および別掲の地形段彩図の範囲を点線で追記したものです。

吉田東伍著「利根治水論考」(明治43年)掲載地図「衣河流海古代(約千年)水脈想定図」、情報追記

吉田東伍は、太日川(江戸川)を除くと、東京湾水脈と衣川流海(キヌガワナガレウミ)水脈が近接する場所は、花見川と平戸川が近接する場所しかないことをこの図で表現しています。

花見川という河川はこのように特別な地勢上の意味を有する河川です。

花見川は、乱暴で粗野な検討で「台地を開削してつくった人工放水路だ」と定義づけてしまい、それで工事をしてもよいような河川ではないのです。

花見川は、水系としては小さいけれど、河川争奪により印旛沼水系の一部を取り込んで印旛沼水系の流域に楔のように張りだした流域を持つ、東京湾水系の特異な河川です。

次の図は花見川と平戸川が谷中分水界で接していた場所付近の現在の地形段彩図です。

地形段彩図

この地形段彩図を基図に、縄文海進ピーク時の海面の分布と二つの海に流れ込む河川、その河川が1点で接する谷中分水界の位置を記入してみました。

縄文海進ピーク時の花見川地峡の様子

この図に示したように、地形を大局的に見ると、香取の海と東京湾の間に狭い陸部(台地)が存在していると捉えることができます。つまりこの付近で2つの海を隔てる陸部が狭まり、地峡を形成しているのです。

この地峡を花見川地峡とこのブログでは呼んでいます。

この花見川地峡は平戸川水系と花見川水系の2つの河川によって谷津が刻まれ、その2つの河川(谷津)が1点の谷中分水界で接するという大変特異な地形で構成されています。

この地図を模式的に表現すると次の図になります。

花見川地峡の模式イメージ

花見川地峡の存在、及び花見川地峡の特異な地形の存在のために、先史時代から人々は香取の海と東京湾の交通をこの地峡を通っておこなってきました。

縄文時代における花見川地峡の交通は、縄文時代遺跡分布等から推察できます。(本ブログ記事)
弥生時代における花見川地峡の交通存在は、土器様式分布等から研究されています。(田中裕:国家形成初期における水上交通志向の村落群-千葉県印旛沼西部地域を例として-、海と考古学、海交史研究会考古学論集刊行会編、2005
古代における花見川地峡の交通存在は、東海道水運支路の検討が行われています。(本ブログ記事)また貝塚の貝殻の分析から研究されています。(「八千代市の歴史」(八千代市発行))

このように、一般にはあまり知られていませんが、花見川地峡というものが存在するとともに、その幹線交通路の歴史が中世まであったのです。
そして、近世になって、印旛沼堀割普請、戦後は印旛沼開発事業があったのです。

さて、花見川地峡の自然史と地勢、二つの海を結ぶ交通の歴史を俯瞰してみると、花見川を「地峡河川」として捉え、そこに生じる特殊な社会要請に応えるべきであるとして、そのあるべき姿を検討することが良い結果を生むに違いないと考えられます。

一方、花見川を、印旛沼堀割普請と戦後の印旛沼開発事業における土木工事の側面にだけ焦点を当てて、狭い視野から「人工河川」と捉えてしまうことは、ものごとを矮小化してしまう思考です。バランスを崩した跛行的な思考です。それは、問答無用に特定要請に応えようとする時代錯誤的な思考であり、良い結果を到底生むことができません。

おわり

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2013.09.25記事「人工河川から地峡河川へ」、2013.09.28記事「人工河川から地峡河川へ その2」、2013.09.29記事「人工河川から地峡河川へ その3」をサイト「花見川と河川整備計画」に収録しました。
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