2014年4月7日月曜日

吉田東伍は花見川地峡を理解していた

シリーズ 花見川地峡成立の自然史 -仮説的検討-
第1部 現代から縄文海進まで遡る その2

1-4 衣川流海古代(約千年)水脈想定図(吉田東伍著「利根治水論考」(明治43年)掲載地図)

吉田東伍が「利根治水論考」(明治43年)に掲載した衣川流海[キヌガワナガレウミ]古代(約千年)水脈想定図を紹介します。

衣川流海古代(約千年)水脈想定図(吉田東伍著「利根治水論考」(明治43年)掲載地図)

吉田東伍が明治43年(1910年)に、その時点から約1000年前を見つめて作成した湖沼・河川分布図です。

吉田東伍は、この図で印旛浦、葦原(谷原)、榎浦、香澄流海(内海)、(東條浦)、香取浦、板東洲、鹿島流海、浪逆海、(海上潟)、若松浦の一体全部が流海と呼ばれていた一続きの海であることを表現しています。

同時に吉田東伍は次図に示したように、この衣川流海古代(約千年)水脈想定図の中に、わざわざ花見川と平戸川(新川)を表現しています。

衣川流海古代(約千年)水脈想定図(吉田東伍著「利根治水論考」(明治43年)掲載地図) 情報追記

吉田東伍は、この場所が印旛沼堀割普請が行われた場所であると十分承知していたことは勿論ですが、印旛沼堀割普請前にもそこが地峡であることを理解していて、河川規模としてはとるに足らない花見川と平戸川(新川)を1000年前を表現したこの図にわざわざ描きこんだものと考えます。

吉田東伍がそうした考え(印旛沼堀割普請のはるか以前にもその場所が人にとって意味のある地峡であったという考え)を持っていたということを裏付ける証拠の一つとして、吉田東伍が延喜式掲載の高津馬牧の場所を八千代市高津に比定していることがあげられます。

参考 吉田東伍著「大日本地名辞書 坂東」高津

都方面から高津馬牧に入ろうとすると花見川経由でしか行けません。

吉田東伍は水運を利用するならば、東京湾から流海(香取の海)に入る場所は限定されていて、太日川(江戸川)方面を除くと、花見川を通ることが唯一の通路であることを知っていて、その交通の要衝である地峡部に高津馬牧がつくられたと考えたのだと思います。

そのように考えると、現存地名との対比ができるだけではなく、古代における開発拠点、防衛拠点、水上交通拠点の確保による流海(香取の海)進出など様々な面での思考論理性が整合的に構築できたのだと思います。

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参考 このブログでは高津付近に次の歴史遺跡存在を仮説的に想定あるいは発見しています。

吉田東伍見立ての正確性実証ができることになると考えています。

詳しい説明と検討は別シリーズで行う予定です。

高津土塁(現千葉市立柏井小学校敷地)と古代交通路

つづく

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