2014年8月13日水曜日

「縄文流通網」に関する論文の学習

シリーズ 花見川地峡の利用・開発史
第1部 縄文弥生時代の交通 その5

直前2記事に過去記事を再掲して、縄文弥生時代の交通について思考するウォーミングアップを始めました。

ウォーミングアップの一環として、次の論文の学習をしましたので、その結果をメモします

●学習した論文
高橋誠・林田利之・小林園子(2001):縄文集落の領域と「縄文流通網」の継承-佐倉市坂戸草刈堀込遺跡発見の晩期貝層から-、印旛郡市文化財センター研究紀要2、73-105

1 この論文の概要
論文は次の5章から構成されています。
第1章 佐倉市坂戸草刈堀込遺跡の概要
第2章 発見された遺物
第3章 「縄文流通網」
第4章 縄文集落と領域の継続性
第5章 まとめ

論文最初に要旨が掲載されていますので、それを直接引用します。

論文の要旨

2 佐倉市坂戸草刈堀込遺跡の位置
東京湾産貝殻が出土した佐倉市坂戸草刈堀込(さかどくさかりぼつこみ)遺跡の位置を示します。

佐倉市坂戸草刈堀込遺跡の位置

3 私が興味を持った記述
この論文で私が興味をもった主な事項を書きだしてみます。

ア 出土した貝類が東京湾産であること
貝類は台付浅鉢形土器に入って出土し、イボキサゴを主としハマグリ、シオフキガイ、アサリなどを含む組成であり、近隣遺跡出土貝類の組成と近似し、東京湾産であるという可能性を指摘しています。二次的に廃棄した貝を集めて、なぜ土器に入いれて埋納したかその理由は不明であるとしています。

イ 東京湾からの流通ルートは山奥から山奥へという山越えの流通路を考えた方が合理的である
「かつては、東京湾まで川一本くだればよいルート上にある都川最上流域の誉田高田貝塚などから、鹿島川支流最上流域の野呂山田貝塚、八反目台貝塚等を経由した搬入ルートが想定されてきた(阿部1994)が、遺跡分布の位置関係を考慮した場合、分水界を越えた、谷奥から谷奥へという、いわば山越えの流通路を考えた方が合理的である。」と記述しています。

[検討]
この記述の遺跡の位置関係を次に示してみます。

流通路検討に関連する遺跡分布

この論文では「山奥から山奥」へと考えた方が合理的であるとしていますが、東京湾の1集落と山奥の1集落の相対取引ならまだしも、一定の地域規模を有する物資流通の場合、物量が大きくなりますから運搬具として必ず舟を活用することになると思います。生貝を全て人が担いで流通させたとは考えられません。
従って、人が担ぐ距離を最短にして、舟を主要運搬具とした流通路を考える必要があります。

私は野呂山田遺跡を経由して生貝が東京湾から印旛沼水系に流通した可能性が濃いと考えます。

野呂山田遺跡はその位置からして物流中継基地のようにさえ見えてきます。
埋蔵文化財情報(ふさの国文化財ナビゲーション)は次のようになっていて、一過性の居住跡などではなく、ある程度の拠点性を有しています。

●野呂山田遺跡の概要
・種別 集落跡、貝塚
・時代 縄文(中・後・晩)、平安
・遺構・遺物 地点貝塚・縄文土器(勝坂・加曽利E・堀之内・加曽利B・安行1・2・3a)、石器(石鏃・石皿・磨石・凹石・磨製石斧・打製石斧・腰飾)、土製品(土偶・耳飾)、貝製品(貝輪)、魚骨、獣骨、貝(ハマグリ・ツメタガイ・オキシジミ・シオフキ・アカニシ・キサゴ・マテガイ)、土師器

この遺跡については立地条件等を含めて詳細に検討したいと思います。

縄文時代だけでなく、律令国家になってからの時代にもここが幹線交通の結節点であった可能性を検討したいと思います。

花見川地峡と同じように、野呂山田遺跡のある場所が、舟運が主要運搬ツールであった時代の東京湾と香取の海をつなぐ数少ない交通要衝地峡であったと考えています。

縄文時代において、丸木舟が活用できる谷津の上流範囲がどこら辺までであったのか、縄文海進をふまえた検討をしたいと思います。

ウ 貝類は「縄文流通網」によってもたらされた
「内陸集落に残された鹹水産貝類は、彼らが自ら獲得していた可能性は非常に薄い。…集落間に張り巡らされた互酬関係=交易により重層的に食料経済を補完・維持していたことが明確なのである。そのような集落間の密接な関係を、本論では「縄文流通網」と呼ぶこととしたい。…「縄文流通網」がすでに中期後半段階で構築されていた…」

[検討]
「縄文流通網」の提案はその通りだと思いますが、この論文の流通網のイメージには幹線物流ルートの存在とか物流をなかば生業とする集団(行商人みたいな人)の存在はイメージしていないようです。

エ 東京湾と印旛沼をつなぐ拠点集落が重要な中継地としての役割を担っていた
「先の報告(高橋1999)において、吉見台遺跡などの印旛沼沿岸の汽水貝塚に含まれる鹹水産貝類は、千葉市北部以北から持ち込まれたことを想定したが、後期後半以降のこうした状況を考慮すると、実は、千代田遺跡(八木原貝塚)などの、東京湾と印旛沼をつなぐ位置に所在する拠点集落が重要な中継地の役割を担っていたことも想定される。注)
注)というよりも、流通の発達した社会においては、物資搬送ルートの中間地点に位置していることは地理的に大きな利点であり、周辺の集落との関係においては、何らかの形でイニシャチブをもっていた可能性すら考えられる。早くから千代田遺跡(八木原貝塚)に目を向けて物資の流れを考察した阿部芳郎の先見性(阿部1994)は評価されてよい。と同時に、そのような遺跡の大部分を未調査のまま失ってしまったことは心底悔やまれる。」

[検討]
理解できない箇所です。

まず、千代田遺跡が東京湾と印旛沼をつなぐ重要な中継地であったことを想定できる根拠が、地図をみても直感的にわかりません。(上図参照)
この論文の対象遺跡(坂戸草刈堀込遺跡)より東京湾から離れています。

また千代田遺跡は台地の真ん中にあります。このような立地条件の遺跡が生貝などの物資搬送を考察している時、なぜその搬送ルートの中継地になりえたのか?

縄文時代に関する一般人には理解しがたい特殊情報があるのかもしれません。その場合、それを理解した時は、自分の知識レベルが飛躍的に向上しているはずですから楽しみです。

関係論文を読んで学習を深めたいと思います。

オ 印旛沼南岸地域では縄文集落の領域の継承がみられ、3点セットとなっている
「縄文流通網」のコミュニケーション構築が、集落の領域の安定的な等間隔配置を可能ならしめた。…中期後半、後・晩期、中期末葉から後期初頭の集落分布は時代が異なるにもかかわらず位置的に近接する。これを3点セットとして捉えられる。集落の「領域」には、財産の総体としての意味が付与される。「縄文流通網」は、まさしくそうした財産の一つであった。

印旛沼南岸地域の中・後・晩期拠点集落分布
高橋誠・林田利之・小林園子(2001):縄文集落の領域と「縄文流通網」の継承-佐倉市坂戸草刈堀込遺跡発見の晩期貝層から-、印旛郡市文化財センター研究紀要2、73-105 より引用

[検討]
この論文の結論部分です。とてもわかりやすく、参考になる部分です。
この論文を読んで私が得た最大の収穫がこの結論です。


この論文を引き金にして、縄文時代等の流通や交通に関する論文や図書を芋づる式に読みたいと思っています。

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