2014年10月16日木曜日

弥生・古墳の遺跡密度分布異常

花見川地峡史-メモ・仮説集>3花見川地峡の利用・開発史> 3.1埋蔵文化財データに基づく地域特性基礎検討>3.1.48弥生・古墳の遺跡密度分布異常

旧石器時代、縄文時代、弥生時代、古墳時代、奈良時代、平安時代の6時代の遺跡密度図(ヒートマップ)が揃いました。

その6枚のヒートマップを並べると弥生時代と古墳時代の密度分布がその前後の時代と比べて異常(特異)であるので、その異常(特異)さをこの記事で指摘します。

次に6枚の遺跡密度図(ヒートマップ)を並べます。

旧石器時代・縄文時代 遺跡密度図(ヒートマップ)

弥生時代・古墳時代 遺跡密度図(ヒートマップ)

奈良時代・平安時代 遺跡密度図(ヒートマップ)

参考 遺跡数データ
奈良時代遺跡数補正は2014.08.27記事「奈良時代遺跡密度データを補正する」参照

ヒートマップは各時代毎に同じ手順で6段階に相対化しそれを色表示したものです。したがって、同じ赤色でも各時代毎に絶対的な意味での密度は異なります。赤色の分布を時代間で対照するということは、各時代の相対的に高密度であった場所を比較していることになります。

弥生時代と古墳時代の赤い目玉(高密度地域)分布は、その前後の時代と比べて極めて異常(特異)です。
上総の東京湾岸から下総の印旛沼付近に赤い目玉がほぼ限定されてしまっています。
赤い目玉(高密度地域)は多様な遺跡(包蔵地、集落、古墳、貝塚…)をひっくるめて、その密度の高い場所を示しています。この赤い目玉は当時の人口密度の高い場所を近似的に表現しているといってもいいと思います。
弥生時代と古墳時代にあっては、房総では、人口密度が高い場所が特定地域に極限されていたということがこの図から読み取れます。

その理由は弥生人の大量入植によるものであると考えられます。

東京・神奈川から東京湾を渡って、あるいは房総半島を回って香取の海から房総に大量の弥生人入植者がやってきて、一時的にこのような特異な人口密度分布(遺跡分布)になったのだと思います。

縄文人と弥生人の「総取っ替え」、「社会のどんでん返し」みたいな状況があったものと考えます。ただ、その人の「総取っ替え」、「社会のどんでん返し」みたいな状況が戦争などの劇的な出来事を伴わないで、時間をかけて粛々と平和的に行われたのだと思います。

また、奈良時代には完全なる弥生人社会が成立していて、入植当時の異常な遺跡密度分布≒人口密度分布が解消されたのだと思います。

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