2014年12月13日土曜日

古代交通網と古墳時代遺跡密度図のオーバーレイ

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.18 古代交通網と古墳時代遺跡密度図のオーバーレイ

茨城県域の香取の海沿岸を含めた遺跡密度図を作成し、古代交通網とオーバーレイして交通に関する問題を検討してみます。

次のような検討を予定しています。
●奈良時代前~中期の交通網と古墳時代遺跡密度図のオーバーレイ(この記事)
●奈良時代前~中期の交通網と奈良・平安時代遺跡密度図のオーバーレイ(記事にする予定)
●平安時代交通網と奈良・平安時代遺跡密度図のオーバーレイ(記事にする予定)

1 茨城県域の香取の海沿岸を含めた古墳時代遺跡密度図の作成
茨城県域の香取の海沿岸の古墳時代遺跡と千葉県域全体の古墳時代遺跡の情報に基づいてカーネル密度推定(半径パラメータ=5000m)を行い、古墳時代遺跡密度図(ヒートマップ)を作成しました。

茨城県域の香取の海沿岸地域および千葉県全域の古墳時代遺跡密度図(ヒートマップ)

このヒートマップの赤色地域は古墳時代に地域開発されていて人口が多かった地域であると読み替えることができると考えます。
同様に、白色地域はある程度地域開発されていて人口が中程度だった地域、青色地域は地域開発がほとんどされていない場所で人口が少なかった地域と読み替えて使うこととします。

2 奈良時代前~中期の交通網と古墳時代遺跡密度図のオーバーレイ 1

奈良時代前~中期の交通網と古墳時代遺跡密度図のオーバーレイ 1

ア ヒートマップ
古墳時代遺跡密度図から顕著な特徴と読み取ることができます。
・上総国に赤色地域が東京湾岸から内陸に向かって広く分布している。
・下総国には香取の海沿岸に赤色地域が狭い範囲で分布している。
・常陸国には赤色地域は分布していない。白色地域のみ分布している。
・安房国には狭い範囲のみ白色地域が分布している。
国別に地域開発の程度が極端に違うことが読み取れます。

イ 交通網図
駅路網は奈良時代前~中期(「千葉県の歴史」(千葉県)の第Ⅰ期)を、水運網はその駅路網から推定できるものを記入してあります。

ウ オーバーレイ検討
・国家意思としての蝦夷戦争をしていない古墳時代では、総武・常総地域と西方との交通を考えると、総武・常総地域のターミナルは上総国であると考えて間違いないと思います。

・古墳時代にあっては、総武・常総地域の中で上総国が特段に地域開発が進んでいるのですから、当初(奈良時代前~中期)の駅路網のメインルートが三浦半島から浦賀水道を渡るルートであったことは地理空間的にみて直感できます。西方と上総国を、武蔵国府を回るルートでつなぐことはあまりにも遠回りになり、考えつくことすらできなかったと思います。

・古墳時代には上総国から下総国、常陸国の方向に人々の植民活動が進行していったと考えられます。その時代に使われた道路は奈良時代の駅家名称を使うと、大前→藤瀦→島穴→大倉→河曲→鳥取→山方→真敷→板来→さらに北へ、或いは山方で分岐し、山方→荒海→榎浦→さらに北へというルートだったと考えます。河曲→浮島→井上というルートは使われることがほとんどないルートであったと考えます。

・水運網は古墳時代も奈良平安時代もあまり大きな変化がなかったと考えます。

3 奈良時代前~中期の交通網と古墳時代遺跡密度図のオーバーレイ 2

奈良時代前~中期の交通網と古墳時代遺跡密度図のオーバーレイ 2

ア ヒートマップ
・上総国の赤色地域が東京湾岸から河川上流に向かって延びています。このことから、地域開発が村田川、養老川、小櫃川、小糸川の谷津に沿って進んでいったことがわかります。同時に赤色地域の部分が内陸水運可能地域であったことを示している可能性があります。

・下総国府の場所が青色地域であり、地域開発がほとんどされていません。この事実から古墳時代の下総国領域の支配拠点はこの場所には存在していなかったことがわかります。(この場所が総武・常総地域支配の戦略的要衝であったことから、律令国家がその成立時頃に下総国府をこの場所に計画的に設置したと考えます。)

イ オーバーレイ検討
・古墳時代の河曲-浮島-井上を結ぶ湾岸地域は地域開発とはかかわりが少なく、河曲-浮島-井上ルートの交通は少なかったと考えます。

4 奈良時代前~中期の交通網と古墳時代遺跡密度図のオーバーレイ 3

奈良時代前~中期の交通網と古墳時代遺跡密度図のオーバーレイ 3

ア ヒートマップ
・下総国の赤色地域は奈良時代以降の赤色地域とは異なっているようです。二つの赤色地域は香取の海および印旛浦のそれぞれを「押さえる」ような要衝の地であり、軍事的要衝の地域開発が古墳時代には先行したことがわかります。

・常陸国府の場所より白色が濃い場所が近くにあり、常陸国府の設置も下総国府と同じように計画性を感じます。既存の拠点との結びやすさと鹿島神宮への連絡性を考慮して新たに設置したと考えます。

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