2014年12月27日土曜日

花見川区柏井町に存在する古代交通施設似の地物

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.34 花見川区柏井町に存在する古代交通施設似の地物

花見川区柏井町に古代交通施設似の地物があります。

1軒の名門名主旧家の屋敷で、築地塀・空堀等を備え、台地斜面を利用して眺望や軍事的要素を備えています。

この名門旧家は近世印旛沼堀割普請で地元を代表する商人として活躍し、その後小金牧の牧士(もくし)も出しています。

この屋敷は天保期印旛沼堀割普請が始まる前にすでに存在していたことが、資料により確かめることができます。

2012.10.13記事「「天保13年試掘時の北柏井村堀割筋略図」の1万分の1地形図投影」の私領屋敷Aの対応参照

現在の地物の状況は次の通りです。

現在の屋敷敷地位置

現在の屋敷位置の3d表示

屋敷裏の空堀
屋敷裏に空堀を備えているということ自体が、いくら名門百姓といっても尋常ならざることです。

屋敷の台地側から見た花見川の様子(柏井橋工事前撮影)

現在の樹木を全部取り払って考えると、屋敷の台地側からはこの付近の眺望がとても優れ、花見川の河床(印旛沼堀割普請以前の自然地形としての河床)、支谷津を挟んで北側に広がる緩斜面状の河岸段丘が丸見えです。

この屋敷は軍事的備えをし(背後台地と空堀で仕切る)、駅楼機能(眺望機能)を有する古代駅家施設で、その意義が忘れられていて、かつほとんどそのまま残存しているのではないかと考えたくなります。

旧家屋敷が駅家であったと想像する考え

旧家屋敷の古代イメージ

近世になってから、いくら羽振りがよくても百姓にこのような屋敷をつくれる条件は無いと考えます。

それ以前からこの屋敷が在ったから、近世にお上からお咎めなしで存在できたのだと思います。

ですから、中世か古代にこの施設ができ、その意義が忘れられ、近世に至ったと考えます。

中世にこのような施設ができる可能性についての知識は残念ながら持ち合わせていませんが、中世になると陸上の道が発達するとともに、海面の低下により花見川のような小さな河川では水運の条件が劣悪化したと考えます。

ですから、水運と陸運をこの場所でつなぐ施設が中世になってからできたとは考えにくいと思います。

古代に、律令国家が成立した当初、全国に広幅員幹線直線道路を国家の権威を示すために建設した時に、その一環として、この場所に東海道水運支路の駅家が造られたと考えます。そう考える以外にこの築地で囲まれた台地付屋敷の起原を考えることは困難であると思います。

現存する旧家屋敷の外構が古代の駅家そのものであるとすると、それは驚くべき発見です。

古墳が現代まで残るように、築地という土木構造物が残ったのです。しかも、生活で使われながら残ったということは大変稀であると思います。

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