2015年1月23日金曜日

花見川-平戸川筋の遺跡分布分析 その4 古墳をつくらない人々

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.46 花見川-平戸川筋の遺跡分布分析 その4 古墳をつくらない人々

1 古墳と古墳以外遺跡の分離
古墳時代遺跡を古墳及び横穴遺構出土遺跡と古墳以外の遺物・遺構出土遺跡に分離して、その関係を分析します。

「古墳及び横穴遺構出土遺跡(古墳時代遺跡)」と「古墳以外の遺物・遺構出土遺跡(古墳時代遺跡)」

●古墳時代遺跡分布の特徴
古墳時代遺跡は在地勢力の活動がそのまま反映した資料であると考えます。

つまり、国家政策による計画的な土地開発がまだ行われていない、自然発生的開発状況を示していると考えます。

2つの分布図を見ると、香取の海流域では印旛浦、平戸川をメインにして流入河川(神崎川、鈴身川、小竹川、桑納川、高津川、勝田川)を含めて河川・湖沼沿いに、つまり谷津沿いに多くの遺跡が分布しています。

東京湾流域でも花見川(及び犢橋川)、浜田川、小中台川の谷津沿いに遺跡が分布しています。

多くの遺跡が谷津沿いに分布することは、この時代の主な生業が谷津谷底における水田耕作であったためであると考えます。この遺跡分布図からは水田耕作以外の生業、例えば牧(牧場経営)などを想起することはできません。

2 古墳と古墳以外遺跡の関係分析
古墳及び横穴遺構出土遺跡は54箇所です。うち、横穴遺跡は「城山横穴」(千葉市稲毛区小中台町城山)1箇所です。

古墳以外の遺物・遺構出土遺跡は108遺跡です。

これを流域界別に見ると次のようなグラフになります。

流域別古墳、古墳以外遺跡数(古墳時代遺跡)

このグラフを見ると、東京湾流域の範囲では香取の海流域の範囲と比べて、古墳の数に対して古墳以外遺跡の割合が多くなっています。

1古墳当りの古墳以外遺跡数がいくつになるか計算すると次のようになります。

流域別 古墳以外遺跡数/古墳数(古墳時代遺跡)

つまり、東京湾流域では香取の海流域と比べて、1古墳に対応する古墳以外遺跡(≒集落遺跡)が多くなっているので。その理由が気になります。

その理由を調べるために、再度上記分布図を分析してみることにします。

次の図は古墳分布図(「古墳及び横穴遺構出土遺跡(古墳時代遺跡)」の略称、以下同じ)に、隣接する古墳をくくった古墳分布域を記入したものです。

(古墳分布域の設定は、ここでは厳密ではありません。後日QGISのバッファー生成機能を利用して厳密な検討を予定しています。)

古墳分布域を記入した古墳分布図

古墳分布域を古墳以外遺跡分布図(「古墳以外の遺物・遺構出土遺跡(古墳時代遺跡)」の略称、以下同じ)に投影(プロット)するとともに、古墳分布域から離れた遺跡を1つの域(古墳分布から離れた遺跡域)として記入してみました。

古墳分布域及び古墳から離れた遺跡域を投影・記入した古墳以外遺跡分布図

この図から、これまで気がつかなかった重要情報を見つけだすことができました。

東京湾流域では、古墳分布域と古墳分布から離れた遺跡域が海岸線に平行する2つのゾーンとして分離していることがわかります。

古墳分布域に所在する遺跡(古墳以外の遺跡≒集落遺跡)の多くは広い谷底を有する谷津沿いに分布しています。谷津谷底は水田耕作に適した場所です。

一方、古墳から離れた遺跡域に所在する遺跡(古墳以外の遺跡≒集落遺跡)の多くは狭い谷津沿いや谷津源流部に位置しています。谷津谷底の水田耕作には相対的に劣悪な場所です。

香取の海流域においても、東京湾流域程には明瞭ではありませんが、古墳分布域に所在する遺跡は水田耕作適地の谷津近傍に、古墳から離れた遺跡域に所在する遺跡は水田耕作には劣悪な谷津近傍に位置しています。

以上の検討から、古墳時代の東京湾流域では、水田耕作適地の近くで古墳を造って生活していた人々の遺跡(A遺跡とします)と水田耕作劣悪地で古墳をつくらないで生活していた人々の遺跡(B遺跡とします)があることがわかりました。

香取の海流域でもA遺跡とB遺跡があるのですが、東京湾流域と比べB遺跡の割合が少ないようです。

A遺跡は古墳をつくる人々の遺跡、B遺跡は古墳をつくらない人々の遺跡と考えることができます。

A遺跡を残した人々はこの地域を支配する人々、B遺跡を残した人々は被支配環境下にあった人々と考えます。

3 古墳分布域等の奈良・平安時代遺跡への投影
古墳分布域と古墳から離れた遺跡域を奈良時代・平安時代遺跡分布図に投影してみました。

古墳分布域と古墳から離れた遺跡域を投影した奈良時代・平安時代遺跡分布図

東京湾流域では古墳から離れた遺跡域に奈良・平安時代遺跡の分布が少なくなっています。

単純化していえば、古墳時代に被支配下にあった人びとが奈良・平安時代になると消えたというこです。

その理由の仮説は2015.01.22記事「花見川-平戸川筋の遺跡分布分析 その3 流域別に見た遺跡数変化」で次のように書いたことによると考えます。

ア 東京湾流域で奈良・平安時代になると遺跡数が減少する理由(仮説)
花見川河口津は軍港としての機能を有し、玄蕃所(治部省玄蕃寮の東国出先)がつくられ、蝦夷俘囚の収容所として機能した。従ってこの周辺一帯が特殊機密地域となり、周辺住民と俘囚との接触等を防ぐために、国家が一般住民の居住に制限を加えた。

香取の海流域でも古墳から離れた遺跡域では、周辺の開発が急ピッチで進んでいるにも関わらず、奈良・平安時代の遺跡数はあまり増えていません。古墳時代に被支配下に在った人びとの居住する区域は奈良・平安時代に開発が行われなかったようです。


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追記【重要】 2015.01.24
1 データミス
この記事を書いた後、「古墳及び横穴遺構出土遺跡(古墳時代遺跡)」と「古墳以外の遺物・遺構出土遺跡(古墳時代遺跡)」の振り分けデータに間違いがあることがわかりました。

間違いが7箇所にものぼるので画像は修正版と差し替える必要があります。

データ修正に伴い、検討内容に影響する部分の記述修正も必要になります。

2 的確性を欠く思考
同時に、古墳を伴わない遺跡が「被支配環境下にある人々」が残したという記述は飛躍しすぎていて、そのような認識だけで考えることは的確ではないと考えるようになりました。

特に、古墳を伴わない遺跡の内、谷津源頭部に存在する遺跡は、居住の場ではなく、別の重要な機能を有する遺跡であるかもしれないと気がつき出しました。

谷津源頭部に立地する遺跡のうち、子和清水遺跡(千葉市花見川区三角町)は古墳時代には儀式の場であり、供献用のミニチュア土器などが出土しています。

子和清水遺跡出土供献用ミニチュア土器
2011.09.19記事「子和清水遺跡の出土物閲覧6」参照

谷津源頭部に存在する古墳時代遺跡の意義として、「水田耕作の水源の場であり、豊作を祈願する重要な祭祀の場」というイメージで考えることが重要です。

古墳がつくられたゾーンと古墳がつくられなかったゾーンの違いが、何によるものか、思考を深めたいと思います。

3 古墳時代と奈良・平安時代の遺跡をつなぐ思考を深める必要性
古墳時代に古墳を伴わない遺跡分布地域は、奈良・平安時代になると開発から取り残されたり、廃れたという発想は当面自分の作業仮説として使っていこうと思います。

この発想(作業仮説)は様々な情報を結び合わせていく接着剤のような役割を果たす重要なものです。

しかし、背景となる情報が不足し、少し雑な印象を自分でも持ち始めているので、思考を深めて、もう少し洗練されたものにしていきたいと思います。


以上のような3つの理由により、この記事内容を別の新規記事として、近々全面書き換えします。

この記事は最初の思考がこういうものであったという1つの記録として、そのまま掲載します。

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【追記】 2015.04.06
この記事の書き換えに替えて、補完記事を掲載しましたのでお知らせします。
補完記事 2016.04.06記事「花見川流域古墳空白地帯の検討

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