2015年2月15日日曜日

上ノ台遺跡の遺構・遺物分布図の作成

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.65 上ノ台遺跡の遺構・遺物分布図の作成

1 上ノ台遺跡のイメージ構築
これまで上ノ台遺跡の重要な意味(古墳時代花見川・浜田川流域の中枢集落)について検討してきています。また上ノ台遺跡の膨大な発掘情報(報告書10数冊の情報)に接しました。この2つのことから、自分なりに上ノ台遺跡の生き生きしたイメージを構築したいという意欲が湧いてきました。

そこで、次の2点について検討することにします。

●上ノ台遺跡について構築したい自分なりのイメージ
ア 上ノ台遺跡(集落)の基本的特性…平べったくいえばどうして食っていたか、つまり生業は何かということ。
イ その「消滅」の原因と「消滅」と引き替えに新たに生み出されたもの


上ノ台遺跡(集落)の基本的特性について、発掘調査報告書では「土錘や貝出土から海とのかかわりは深いが、ほかの漁労具がないなどから漁業集落とは断定できない」という趣旨の結論になっています。35年前には集落特性の明確なイメージが形成されなかったということです。

一方、これまでに上ノ台遺跡が単なる東京湾岸海浜地帯に存在する1集落ではなく、花見川・浜田川流域の中枢集落であるということが既にイメージできています。

また発掘調査報告書をよく読むと、それなりに生業に関する情報を汲み取ることが出来そうです。

そこで、上ノ台遺跡の発掘情報を地図上で一つ一つ確認しながら検討し、遺跡(集落)の基本的特性について検討することにします。


上ノ台遺跡(集落)が古墳時代の終焉とともに消滅した原因について、35年前には考察がありません。

一方、このブログでは、律令国家の時代(奈良時代)になるとこの付近には東海道本路が通り、浮島駅家や官牧浮島牛牧が出来、また、東海道水運支路として花見川-平戸川水運路が、船越部に直線道路を設けて、開かれたことを検討してます。検見川台地には玄蕃所(俘囚収容施設)が開設されました。

そうした背景を考えると、上ノ台遺跡(集落)は単純に「消滅」したのではなく、集落に居を構えていた指導者とその配下住民は、国家中央が要請する交通拠点機能や官牧浮島牛牧、さらに玄蕃所の維持管理運営を司る近隣集落や拠点に発展的に移住したと考えることが自然です。
のんびりと台地上で牧歌的な生活を送れる時代は古墳時代に終わったのだと思います。


そこで、古墳時代上ノ台遺跡(集落)の基本特性と律令国家中央から要請される地域の基本機能(浮島駅家、浮島牛牧、花見川-平戸川水運、玄蕃所等)の間に生じる齟齬(食い違い)を検討します。

その齟齬にもとづいて、指導者とその配下住民が、上ノ台遺跡から砂丘上や近隣台地に活動拠点(居住地)を移した有様を合理的に説明できるようにしたいと考えています。

2 上ノ台遺跡の遺構遺物分布図の作成
上で述べた上ノ台遺跡について構築したい自分なりのイメージつくりの基礎資料とするために、上ノ台遺跡の遺構・遺物分布図を作り出しましたので、作業途中ですが、報告します。

次の図は上ノ台遺跡全体の4つの調査区を示した図です。

上ノ台遺跡全体の4つの調査区
「千葉・上ノ台遺跡 本文編」(1981、千葉市教育委員会)より引用


この調査区のうち、情報が揃っているD地区について遺構遺物分布図を作成することにします。

次の図は遺構遺物分布図の例です。

上ノ台遺跡D地区 遺構遺物確認のための分布図作成 例

発掘調査報告書には遺構・遺物の検出地点が詳しく掲載されていますので、できるだけ多数の項目について分布図を作成して、遺跡(集落)の生業等について検討するつもりです。

現在は上記分布図例に示したような項目について図化していますが、更に土錘出土住居、貝・魚類骨出土住居、鉄製品等出土住居、玉類等出土住居、須恵器出土住居等について図化し、D地区の地域構造をあぶり出し、それに基づいて集落の生業について考察する予定です。

遺構遺物分布図の検討は別記事で行います。

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