2015年3月2日月曜日

上ノ台遺跡と牛牧に関する仮想定

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.76 上ノ台遺跡と牛牧に関する仮想定

1 これまでの検討
・住居趾内から牛骨(上顎の歯9乃至10個、下顎の歯4個、脛骨切断品1個)が検出されています。この情報を遺跡発掘調査報告書刊行後35年経って知ったことが再発見的意義があると考えました。
2015.02.14記事「上ノ台遺跡から出土した古墳時代牛骨の重要意義

・この検出はこの遺跡で殺牛・祭神・魚酒が行われたことを示していると考えました。
・奈良時代に隣接砂丘が浮島牛牧であったと想定されることから、古墳時代においてもその始源牛牧がすでに存在したと考えました。
2015.02.24記事「上ノ台遺跡 軍需品としての牛、殺牛・祭神・魚酒」参照

・浮島牛牧が存在した傍証として、その場所の地名「幕張」が「牧墾(マキハリ)」の音転であるという思考を示しました。
2015.02.25記事「地名「幕張」の語源」参照

・浮島牛牧が存在した傍証として、牛出荷経路上にある地名「犢橋(コテハシ)」が「特牛階(コトイハシ)」の音転であるという思考を示しました。
2015.02.27記事「地名「犢橋(コテハシ)」の語源」参照

以上の検討から、上ノ台遺跡の稼げる生業の筆頭が牛牧畜であった可能性が高いと考えるようになりました。

しかし、上ノ台遺跡から住居趾内の牛骨以外の牛牧に関連する遺物・遺構は見つかっていません。また、上ノ台遺跡と牧の場所は隣接していますが、別空間です。
また上ノ台遺跡(集落)が単純な牛飼専業集団の遺跡でないことは明白です。

そこで、今後、上ノ台遺跡(集落)と牛牧と関係の認識を深めていくための仮想定をつくりました。
この仮想定を検証しながら絶えず修正を加えて、より合理的認識を得たいと思います。

2 上ノ台遺跡と牛牧に関する仮想定
古墳時代の上ノ台遺跡・牛牧想定場所・関連地物の位置関係を示します。

上ノ台遺跡・牛牧想定場所・関連地物の位置関係

上ノ台遺跡と牛牧に関する社会関係を次のように仮想定します。

上ノ台遺跡と牛牧に関する社会関係の仮想定

上ノ台遺跡(集落)のリーダーの下に流域圏各地域担当の他、機織グループ、石製模造品作製グループ、米・雑穀栽培グループ、鍛冶職人、牛牧グループが属すると考えます。
リーダー及び各グループの居住地は上ノ台遺跡です。
上ノ台遺跡(集落)リーダーは東鉄砲塚古墳群内の前方後円墳に対応すると考えます。

牛牧グループの下には現場作業を担当する牛飼技術集団が存在し、その集団は牛牧推定場所に居住していたと考えます。
牛飼技術集団は上ノ台遺跡(集落)からみると社会的に下位集団であり、その集団のリーダーは愛宕山古墳に対応すると想定します。
牛飼技術集団は西方からやってきた集団(※)であると考えます。渡来人集団である可能性があります。

牛牧推定場所には柵のある牧場、厩舎・管理施設、牛飼技術集団の住居が在ったと想定します。

これまで愛宕山古墳に対応する社会的に劣位な集団は漁業とか海運に関わる集団であると想定してきました。しかし漁業とか海運に関わる劣位集団の存在が遺跡情報から見られないことや牛牧が古墳時代に重要産業であり、外来技術であり、愛宕山古墳が牛牧推定場所に存在することから、これまでの考えを変更します。

このような仮想定した社会関係が合理的なものであるかどうか、今後検証して行きたいと思います。


※牛飼技術集団が外来集団であることの傍証として、地名「犢橋」の由来をあげることができると考えています。
「コテハシ」の「コテ」の意味を中近世の花見川流域の人々は判らないで、「焼きごて」の「コテ」と取り違えたようです。一方「コテ」という言葉は西日本でよく使われる(※※)ことばのようです。従って、牛牧の牛飼技術集団は西日本を経由して房総にやってきた可能性があります。

※※(大阪弁「おんうし、おんた、こて」の解説……雄牛、牡牛。「こて」は、古語「ことい」に由来し、近畿、出雲、九州の言い方。「おんうし」は近畿と四国での言い方で、「おんた」は近畿の言い方。南関東では「おすうし」、「おうし」は点在するのみ。北関東、甲信越、北北陸で「おとこうし」、奥羽で「おとこべこ」、房総で「やろううし」、丹波、播磨以西の中国四国で「ことい」、能登で「ごって」、北琉球で「くてぃ」「うーうし」、南琉球で「びきうし」と言う。)WEB情報「大阪弁」

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