2015年3月13日金曜日

検見川台地の鍛冶遺物出土を知る

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.85 検見川台地の鍛冶遺物出土を知る

検見川台地の居寒台遺跡(D区)から鉄滓が出土していたという発掘事実を知りましたので、メモしておきます。

●居寒台遺跡(D区)の鉄滓出土に関する発掘調査報告書の記述
「(1号住居跡の出土遺物の項)西側上層から集中して、シオフキガイを主体とする貝ブロックや馬の歯片が出土した。遺物の総点数は多かったが、いずれも細片のため掲載点数は少ない。不掲載遺物は土師器1054点(内暗文土器6点、赤彩土器18点)、須恵器77点、軽石12点、不明鉄製品1点、鉄滓2点、陶磁器6点、貝(シオフキガイとハマグリが最も多く、他にはアサリ・スガイ・ウミニナ・イボウミニナ)である。」
「(まとめの項)1号住居跡は下層から主に7世紀後半から8世紀初頭、上・中層から主に8世紀前半の土器が出土し、若干の時間差が見られる。これは埋没する過程で8世紀前半の土器が周辺から流れ込んだと考えられ、遺構年代には7世紀後半から8世紀初頭の年代観が与えられる。」(「千葉県千葉市居寒台遺跡-共同住宅建設に伴う埋蔵文化財調査-」(1997、居寒台遺跡発掘調査団)

(なお、鉄滓(や馬の歯片)は遺物観察表やスケッチ・写真等に掲載されていないので、上の文章記述に気がつかなければ、見落としてしまいます。)

古墳時代末期の住居址が奈良時代にゴミ捨て場(ミニ貝塚)となり、そのゴミの中に鉄滓が捨てられたということが読み取れます。

鉄滓2点が出土したのですから、この付近に、奈良時代に鍛冶遺構があったと想定できます。検見川台地古代拠点集落の素性を知る上で貴重な情報です。

鉄滓出土住居址の位置

鉄滓出土住居址を取り巻く状況について、これまで検討してきた情報を重ねて、推論を進めると次のような検討図となります。

鉄滓出土認識を契機とした検討図(空想図)

鉄滓出土認識を契機とした検討図(空想図)
基図は旧版1万分の1地形図(大正6年測量)

情報が増える度に、空想レベルではありますが、徐々に検見川台地の古代拠点集落のイメージのピントが合ってきているような印象を受けます。

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千葉市を含む範囲について、(私がたまたま見つけた)鍛冶遺構を悉皆的に調査したと考えられる次の文献のリストには、居寒台遺跡出土の鉄滓は記載されていません。居寒台遺跡は、恐らく見落とされている(気がつかなかった)遺跡であると考えます。

●千葉市を含む範囲の鍛冶遺構悉皆調査リストの掲載文献
丸井敬司(2005)「房総地方の妙見信仰と製鉄・鍛冶について」([千葉市立郷土博物館]研究紀要 第11号)
「古墳時代中期の房総-中期的要素の波及とその評価-」(平成24年、研究紀要27、財団法人千葉県教育振興財団)

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