2015年3月20日金曜日

銙帯出土遺跡分布と東海道

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.92 銙帯出土遺跡分布と東海道

偶然、これまで馬具と思っていたバックルが銙帯(かたい)という製品であることを知りました。(2015.03.09記事「検見川台地から銙帯具出土を知る」参照)

銙帯は奈良時代官人の服制にかかわる製品です。官人がその官位(つまり権力)を象徴・誇示する重要な装飾物です。

小学生の頃、風呂屋の白黒テレビ(一般家庭にテレビは無かった)で力道山がルーテーズに空手チョップを浴びせる様子を見て感情的興奮を覚えました。
そして、勝利した力道山が得意げに立派なチャンピョンベルトを腰に巻いて手を振っていました。

その格闘技で使われるチャンピョンベルトの文化的始源をたどると、古代遺跡から出土する銙帯に行きつくことを理解しました。

閑話休題、「千葉県の歴史 資料編 考古4(遺跡・遺構・遺物)」(千葉県発行)に銙帯出土遺跡位置図が掲載されています。

この位置図を見て、思わず知的興奮を覚えましたので、その理由を記録しておきます。

銙帯出土遺跡位置図
「千葉県の歴史 資料編 考古4(遺跡・遺構・遺物)」(千葉県発行)

「千葉県の歴史 資料編 考古4(遺跡・遺構・遺物)」(千葉県発行)では次のような説明をしています。
千葉県においては、117遺跡から260点以上の銙帯が出土している。この数値は、全国的にみてもかなり多いといえる。関東地方は、畿内に次いで銙帯の出土点数が多い地域であるが、そのなかにおいても千葉県での出土点数は多いものである。また、関東地方のほかの都県と異なり、一般の集落跡からの出土がほとんどである点も特徴といえる。特に、8世紀後半からの大規模な開発によって、すがたを現した集落からの出土が目立って多い。地域的には、やはり大規模な発掘調査が実施された印旛沼の南から東にかけての地域、千葉市の南部地域、山武郡南部地域に集中している。

このマップを見て、九十九里平野に面する(つまり太平洋に面する)遺跡は別にして、それ以外の遺跡は全て東海道駅路網及び東海道水運支路(仮説)沿いであることを直感的に理解しました。

その直感的理解を図解すると次のようになります。

銙帯出土遺跡と東海道駅路網・東海道水運支路(仮説)

銙帯が出土するということはそこに官人が居住していたということであり、その官人は単純な地域支配ということではなく、律令国家の戦略に基づいて計画的に配置されて業務遂行に邁進していたと考えられます。

官人たちが邁進した業務とは牛や馬の生産を含む軍需物資生産とそのための地域開発、西日本から陸奥国に向かう兵員に対する物資補給と輸送、陸奥国から帰還する将兵や送られてくる俘囚に対する補給と輸送、俘囚の検見、戦利品の輸送分配などいずれも蝦夷戦争の兵站(Military Logistics)にかかわる業務がメインであったと推測できます。

下総国は蝦夷戦争の最大の兵站基地であり、官人はその最先端で業務遂行していたと考えます。

このように考えると、銙帯出土遺跡は蝦夷戦争下にある奈良時代官人配置拠点を意味していて、その拠点が全て東海道駅路網と東海道水運支路(仮説)沿いであることは当然のことであるといえます。

また、逆に発想すれば、銙帯出土遺跡はそれを結ぶ幹線交通路存在を示唆することになります。

平戸川(現八千代市新川)沿いに出土する多数の銙帯はそれだけ多数の官人が国家的戦略業務に携わっていたことを示しますが、その場所は必ず東京湾沿い東海道駅路と結ばれなければなりません。
そのルートは平戸川-花見川ルート以外に考えられませんから、東海道水運支路(仮説)の確からしさが銙帯出土遺跡位置図によって強まります。


なお、銙帯出土遺跡位置図から別の興味深い発想が生れましたので、次の記事でメモします。

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