2015年3月30日月曜日

奈良の都への供米のための水田開発

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.100 奈良の都への供米のための水田開発

1 花見川-平戸川筋における古墳時代と奈良・平安時代の遺跡分布
次の図は花見川-平戸川(現八千代市新川)筋における古墳時代遺跡分布(古墳を除く)と奈良・平安時代遺跡分布を並べた物です。

花見川-平戸川筋における古墳時代遺跡分布(古墳を除く)と奈良・平安時代遺跡分布

奈良・平安時代になると地域開発が活発化して遺跡分布が拡大している様子が顕著にわかります。

特に平戸川筋では地域開発が顕著です。

なぜ平戸川筋に地域開発が顕著であるのかという理由など、その詳しい検討は追って順次記事にする予定です。

この記事では花見川の河口付近(実際は現在の浜田川筋)に、奈良・平安時代になると遺跡が集中する様子について検討します。

2 花見川河口付近(浜田川筋)の奈良・平安時代遺跡分布

花見川河口付近(浜田川筋)の奈良・平安時代遺跡分布

遺跡は土師器が出土するので集落があったと考えられるのですが、発掘調査がおこなわれた場所は無く、遺物からどのような開発が行われたのかということはわかりません。

しかし、遺跡分布からは、古墳時代にはなかった集落が奈良時代になると集中して生まれるのですから、特定目的の地域開発が行われた場所であることは推察できます。

3 浜田川沿いの奈良時代地域開発の様子推察
谷津沿いに集落が分布することから谷津を開拓して水田を造成したことがもっとも考えられることです。

さて、この土地の小字が奈良熊、奈良熊外野となっていて、遺跡名称にもなっています。

さらに実籾田という小字もあります。直ぐ北は習志野市域となっていて実籾という地名が拡がっています。

これらの地名が奈良・平安時代の地域開発の様子を現在にまで伝承していると考えます。

奈良熊、実籾田などの小字分布
奈良熊、実籾田、奈良熊外野の位置は「絵にみる図でよむ千葉市図誌 下巻」(千葉市発行)による。

奈良熊(ナラクマ)は奈良供米(ナラクマイ)の転だと思います。

奈良は「奈良の都」です。「供米」は辞書では次のような用語です。

く‐まい【供米】
〖名〗 (「く」は「供」の呉音)
① 神仏にそなえる米。寺社に納める米。また、神仏にそなえたのち、下げてきた米。おくま。くま。くましね。
※大鏡(12C前)二「御堂には〈略〉供米三十石を定図におかれて、たゆることなし」
② 天皇の御膳飯。また、天子に供したのち、人々に与えられた御飯。
※随筆・甲子夜話(1821‐41)八一「これは御供米と云て、禁裏様へ正月三ケ日御備の御膳飯を洗干たるにて」
『精選版 日本語国語大辞典』 小学館

奈良熊=奈良供米は「奈良の都に納める米」という意味であり、この場所が中央直轄の開発地であったことを、地名が伝えています。

実籾田は御籾田であり、(奈良の都に納める)大切な籾米を生産する田という意味です。

奈良熊と実籾田(あるいは実籾)は一緒に捉えるべき地名です。その地名が奈良時代の地域開発の様子を現代に伝えています。

奈良熊外野(ナラクマソトノ)は奈良熊という開発地の本来地域の外という意味ですから、奈良熊と奈良熊外野の配置から奈良熊の本来開発地のおおよその位置が判るのかもしれません。

現代人の感覚からいえばあまりに狭小な谷津田を開発して、そこで生産した僅かな米を奈良の都に運んでいたのですから(あるいは奈良の都に運ぶという大スローガンの基に団結して開拓をおこなったのですから)、この付近の風景を知っている1人として感慨深いものがあります。

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