2015年3月8日日曜日

花見川河口の古代住居址から馬骨出土の事実を知る

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.80 花見川河口の古代住居址から馬骨出土の事実を知る

上ノ台遺跡の検討を一旦打ち切り、幕張の砂丘(の乗る砂州)・花見川を挟んで上ノ台遺跡と向かい合う検見川台地上の直道遺跡・居寒台遺跡の検討をします。

直道遺跡・居寒台遺跡は一連の古代拠点集落の別の場所を指していると考えられています。この花見川河口拠点集落は「古墳時代後期~末期」-「奈良時代」-「平安時代」と時代の連続性が確認され、多数の掘立建物が検出されています。

古墳時代の拠点集落上ノ台遺跡が終焉し、奈良・平安時代に新拠点集落直道・居寒台遺跡が勃興したとイメージできます。

直道遺跡・居寒台遺跡の位置
(基図は迅速図、明治前期測量)

直道遺跡・居寒台遺跡を検討するために、千葉市立図書館WEBサイトで関連する発掘調査報告書等を検索すると全部で21件ヒットしました。その内主要なものを全て含む20件の資料の情報を入手しましたので、これから検討して行きます。

この記事では直道遺跡の住居址から馬骨が出土しているという事実を知りましたので、メモしておきます。

直道遺跡における馬骨出土の状況
「千葉市直道遺跡」(1995、財団法人千葉市文化財調査協会)から引用

説明
「この住居址で特筆すべき点は馬の骨が検出されたことである。骨の検出状況は、カマド付近を中心に住居の中央部に分布している。打ち割られたものが多く、部位がバラバラになっており、床面に密着しているもの、柱穴に落ち込んでいるもの、カマドを構築している砂質粘土の中から検出されたものなどがあり、住居を使わなくなって間もない時期に骨が残されたことを示している。また、床面の近くには焼土と灰の層があり、火熱を受けて炭化しているものも多かった。こうしたことから、食用にしたその残滓をこの住居跡に廃棄したものと考えられる。住居跡の覆土中にロームブロックを多く含む層があり、人為的に埋め戻している可能性がある。」「千葉市直道遺跡」(1995、財団法人千葉市文化財調査協会)

廃滅直後の住居址近くで人が馬を食し、その残滓をこの住居址に捨て、近くの土でその上を覆ったという状況のようです。

この付近は玄蕃所(俘囚収容所)があり軍事色が強い場所であったと考えてきています(※)が、馬骨が出土したことにより、検見川台地上で馬が使われていたことが証明されます。

この時代の馬は軍事を象徴する家畜ですから、馬骨出土は遺跡に想定される軍事的機能を傍証します。

具体的には、直道・居寒台遺跡が指す検見川台地拠点集落は単なる生活のための集落ではなく、公的軍事的機能を有する集団が居住する集落であることを傍証することになります。


2014.12.24記事「地名「検見川」は俘囚の検見(尋問)に由来する」参照
2014.12.24記事「花見川河口津付近の遺跡と地名」参照

……………………………………………………………………
動物遺体はリスト化されない不思議

上ノ台遺跡の住居址で牛骨出土があり、直道遺跡の住居址でも馬骨出土がありました。
何れの発掘調査報告書でも出土遺物は住居址単位に説明し、微細なものまで洩れなく住居址毎にリスト化しています。

その遺物リストには牛骨も馬骨も掲載されません。出土状況から牛骨や馬骨が「遺物」ではないと判断したからだと思います。

しかし、牛骨や馬骨が重要な考古資料であることは間違いありません。遺物リストに入れられないなら、別の出土物リストとか、考古資料リストなどをつくって掲載すればわかりやすくなります。

上ノ台遺跡の牛骨も、直道遺跡の馬骨もリスト化されていないために、結局のところ遺跡の状況を要約するときには漏れてしまっています。
そのために、その情報が重要であるにもかかわらず、報告書を事細かに調べる人以外には伝わらないことになります。

0 件のコメント:

コメントを投稿