2015年4月18日土曜日

八千代市萱田地区遺跡 軍事兵站・輸送基地発展の様子(想定)

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.112 八千代市萱田地区遺跡 軍事兵站・輸送基地発展の様子(想定)

1 萱田地区の「竪穴住居消長から見たゾーンの活動活発時期区分」図の作成
「八千代市白幡前遺跡-萱田地区埋蔵文化財調査報告書Ⅴ-本文編」(1991、住宅都市整備公団首都圏都市開発本部・財団法人千葉県文化財センター)に萱田地区遺跡の竪穴住居消長図が掲載されています。
その情報は2015.04.17記事「八千代市白幡前遺跡 竪穴住居消長を指標とした活動活発時期イメージ」で紹介し、遺跡ゾーンについてその活動が活発であった時期を前半期(主に8世紀代をイメージ)と後半期(主に9世紀代をイメージ)のものに2分して捉えました。

その情報情報に基づいて萱田地区の「竪穴住居消長から見たゾーンの活動活発時期区分」図を作成しました。

竪穴住居消長から見たゾーンの活動活発時期区分

この図を見ると発掘調査行政における区分はともあれ、白幡前遺跡と井戸向遺跡が寺谷津を取り囲む一体の遺跡(集落)であることに気がつきました。また権現後遺跡と北海道遺跡やヲサル遺跡も同じように須久茂谷津を取り囲む一体の遺跡(集落)であると考えることができます。

2 萱田地区奈良・平安時代遺跡と地形との関係
この付近の地形段彩図とその特徴を次に示します。

標高8~15mの河岸段丘と谷津出口

この図で谷津出口とは平戸川(新川)谷底(海かそれに近い流れのある低湿地)において流れの影になる場所であり、船着場として最適な場所になります。

また、標高8~15mの河岸段丘はその船着場に面していて、谷底からの比高が少ない平坦地です。ですから、水運と関係する活動を行う場所としては最適な場所です。

この図と1で作成した「竪穴住居消長から見たゾーンの活動活発時期区分」図をオーバーレイして次の図を作成しました。

萱田地区奈良・平安時代遺跡と地形との関係

遺跡ゾーンの発展時期と地形との関係が浮き彫りになります。
この図を検討基礎図として使い、次の考察をしました。

3 白幡前遺跡-井戸向遺跡地区の軍事兵站・輸送基地発展の様子(想定)
白幡前遺跡と井戸向遺跡を一体の地区として捉えることと、遺跡ゾーンの活動活発時期と地形との関係を考慮して、次に白幡前遺跡-井戸向遺跡地区の軍事兵站・輸送基地発展の様子を想定してみました。

白幡前遺跡-井戸向遺跡地区の軍事兵站・輸送基地発展の様子(想定)

白幡前遺跡(集落)の様子(イメージ)がさらに具体的になりました。

イメージが具体的になればなるほど発掘調査報告書の個別情報や「千葉県の歴史」各巻記載事項との整合をチェックせざるを得なくなります。

そのチェックの中で、自分のつくったイメージを修正発展させていきます。

場合によっては専門家の思考の不備に気がつくこともあります。(例 白幡前遺跡を一般農業集落としてイメージすることなど)

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