2015年7月30日木曜日

萱田遺跡群の鉄製品出土物 その3 鎌と穂摘具

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.177 萱田遺跡群の鉄製品出土物 その3 鎌と穂摘具

萱田遺跡群出土の鎌と穂摘具について検討します。

1 鎌
出土した鎌の例を示します。

白幡前遺跡出土鎌の例

萱田遺跡群の鎌出土状況を次に示します。

萱田遺跡群の鎌出土状況

竪穴住居10軒あたり鎌出土数を分布図にすると次のようになります。

竪穴住居10軒あたり鎌出土数

最も特徴的なことは権現後遺跡のⅠ、Ⅱ、Ⅲゾーンの値が高く、実際の出土数も7、6、4とゾーン別では他のゾーンにぬきんでています。

権現後遺跡は古代の土器生産工業団地であったと考えますので、鎌は土器焼成坑で燃やす草木を刈り取る道具であったことがほぼ確実に推察できます。
2015.07.05記事「八千代市権現後遺跡は古代の土器生産工業団地」参照

鎌出土数及び竪穴住居10軒あたり鎌出土数は農業主体と考えた北海道遺跡より、軍事兵站・輸送基地の中心地である白幡前遺跡の方が大きな値を示します。この理由について次のように考えます。

奈良時代の軍事兵站・輸送基地では基地要員(基地内に居住する住民)の食料や衣服等が官から完全に支給されていたということは無かったと考えます。多かれ少なかれ自給自足的な生活の側面があったと考えます。

一定量の生活物資の支給はあったとしてもそれだけでは生活が成り立たないので基地要員の家族は家庭菜園的な農地を持ち雑穀や野菜などを栽培して生活の糧にしていたと考えます。

そして基地要員の家族は(白幡前遺跡に住む家族は)農業中心のプロジェクトに従事する家族(北海道遺跡に住む家族)より裕福であり、鉄製の農具や道具を手に入れることが出来たのだと思います。

農業中心のプロジェクトに従事する集団は、いわばブルーカラーであり、俘囚や奴婢や社会階層の低い人が多く含まれていたと考えます。その人々は貧しく、鉄製の農具や道具を手に入れることが困難であったのだと思います。

農業開発プロジェクト自体は官が主導し、支配層は権力を持っていて、ハマグリを食することもあったのですが、その下で働く人々はただただ肉体労働を提供するだけだったのだと思います。

鉄の農具や道具は農業開発地域に集中して、そこでの農業開発の効率を高めればよいようなものですが、実際はそうした社会全体の効率性をマネージするような行政とか政治は虚弱だったのだと思います。

2 穂摘具

次に穂摘具の例を示します。

白幡前遺跡出土穂摘具の例

穂摘具はイネや雑穀等の穂だけを摘み取る収穫用の道具です。

萱田遺跡群の穂摘具出土状況を次に示します。

萱田遺跡群の穂摘具出土状況

竪穴住居10軒あたり穂摘具出土数を分布図にすると次のようになります。

竪穴住居10軒あたり穂摘具出土数

権現後遺跡で穂摘具出土がゼロであり、この遺跡が土器生産に特化していた程度が高かったことを物語っています。
土器生産のための工程が官人技術者の指導で行われたと考えます。粘土掘り、粘土の水簸、焼成のための燃料刈取り乾燥蓄積、轆轤による土器づくり、焼成など。
燃料刈取りのための鎌は多出しているけれど、穂摘具がゼロであるということは、土器づくりに従事した人々は家庭菜園みたいな自給自足的生活の側面が弱く、官からの支給で生活のほとんどを賄っていたことが考えられます。

白幡前遺跡、井戸向遺跡、北海道遺跡の穂摘具出土状況を見ると、鎌の出土状況と同じように裕福の程度が反映した出土状況になっていて、その道具を本来は一番必要とする人々のゾーンには少ないという逆転現象が見られます。

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