2015年9月17日木曜日

須恵器窯と土師器焼成遺構 その2

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.207 須恵器窯と土師器焼成遺構 その2

2015.09.16記事「須恵器窯と土師器焼成遺構 その1」で房総最大級の土器生産施設である南河原坂窯跡群ではヘラ書き土器が多くつくられ、一方規模の大きくない土師器生産施設である権現後遺跡ではヘラ書き土器が全くつくられていなかったというイメージを持つことができました。

こうしたイメージがそれでよいか、房総の須恵器釜、土師器窯全部の情報について調べてみました。

その結果を次に示します。

出土墨・刻土器におけるヘラ書き土器の割合(表)

出土墨・刻土器におけるヘラ書き土器の割合(グラフ)

須恵器窯跡についてみると、南河原坂窯跡群及び他の遺跡からの土器出土量が判らないので、つくられた土器に占めるヘラ書き土器の割合は判りませんが、情報のある遺跡8件のうち6件からヘラ書き土器が出土し、残る2件も「刻書」あるいは「線刻」「刻印」のものが多くなっていますから土器生産地で工人が生産した土器にヘラ書きあるいは線刻等を施したと考えられます。

つまり、須恵器釜についてみると、どの程度の割合で土器にヘラ書き(あるいは線刻)したかはわかりませんが、全部の遺跡でヘラ書き(あるいは線刻)が行われたと考えて間違いないと思います。

土師器窯についてついてみると、須恵器釜跡と同じく遺跡からの土器出土量が判らないので、つくられた土器に占めるヘラ書き土器の割合は判りません。

しかし、樋爪遺跡、駒形遺跡、権現後遺跡、妙見堂遺跡ではヘラ書き土器はゼロかあるいはほとんどありませんから、これらの遺跡では生産された土器にヘラ書きがほとんど行われなかった可能性が濃厚です。

一方、小谷遺跡、永吉台遺跡、城ノ台遺跡ではヘラ書き土器が一定の%を占めています。

ところが、土師器窯のある遺跡は窯施設だけの遺跡ではなく、それを含む集落全体の遺跡となっていますから、これらのヘラ書き土器が生産した土器にヘラ書きしたものか、それとも外から持ち込まれたものか一義的に判別できません。

しかしヘラ書き土器の出土墨・刻土器の総量に対しての割合が県全体の割合(6.8%)よりはるかに大きな値となっているので、その遺跡で生産した土器にその遺跡の工人がヘラ書きしたと考えることが合理的判断だと考えます。

この統計から土師器窯ではヘラ書きが全く行われなかった窯と行なわれた場合がある窯の2種類の存在が浮かびあがります。

結論として、房総では須恵器釜の全てでヘラ書きが行われていたと考えられ、土師器窯ではヘラ書きが行われた窯と行われなかった窯の2種類があると考えられます。

ヘラ書きした土器の作成土器総量に対する割合は不明ですが、千葉県出土墨・刻土器の総量に対するヘラ書き土器の割合が6.8%です。

そして墨・刻土器の土器総量に対する割合も不明ですが、墨書土器多出遺跡群である萱田遺跡群の例では24.5%です。
2015.08.25記事「萱田遺跡群の墨書土器率」参照

この数値を機械的に利用すると6.8%×24.5%=1.7%になります。

千葉県全体でみると、ヘラ書き土器の(つまり生産地で文字や印が書かれた土器の)割合は全土器に対して1.7%より小さな数値であったということが推定できます。

感想
権現後遺跡で生産された土器にヘラ書きが行われなかった理由として、その窯が白幡前遺跡によって開発された窯であり、白幡前遺跡は軍事・兵站基地であったことに関連すると考えます 。

つまり、権現後遺跡は軍需用品としての土器生産施設であり、発注者名をヘラ書きして製品のブランド価値を高めるとか、あるいは工人サイドの品質管理のために必要な目印(工人識別目印)をつけるなどの場面が入り込む余地のない窯であったと考えます。

恐らく品質はあまり問題にしないで、画一的土師器量産に励んだのだとおもいます。

このように考えると、鳴神山遺跡が遠くの南河原坂窯跡群から自分のロゴ入り土器を購入したという行為と、6㎞しか離れていない萱田遺跡群ではヘラ書き土器が全くつくられなかったという行為の間に大きな落差があることを感じます。鳴神山遺跡と萱田遺跡群との間には埋めがたい心理的溝があるように感じます。

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