2015年9月10日木曜日

鳴神山遺跡の時期

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.202 鳴神山遺跡の時期

鳴神山遺跡の主な竪穴住居の時期資料が発掘調査報告書に掲載されていますので紹介します。

主な古墳時代後期から奈良・平安時代竪穴住居年代
鳴神山遺跡の主な竪穴住居の時期資料が「千葉北部地区新市街地造成整備事業関連埋蔵文化財調査報告書Ⅱ-印西市鳴神山遺跡・白井谷奥遺跡-」(平成11年3月、千葉県企業庁・財団法人千葉県文化財センター)から引用

この表をグラフにすると次のようになります。

鳴神山遺跡 主な竪穴住居の年代

鳴神山遺跡は8世紀から始まり、9世紀第2四半期をピークに9世紀一杯でほぼ終焉している様子がわかります。

この遺跡消長は萱田遺跡群消長と似ています。

萱田遺跡群の竪穴住居消長

鳴神山遺跡が展開した期間つまり8世紀から9世紀は萱田遺跡群では0期から7期に該当し、遺跡(集落)展開期間がほぼ一致します。

鳴神山遺跡が竪穴住居数ピークとなる9世紀第2四半期は萱田遺跡群では4b期頃で、萱田遺跡群盛期の終わり頃に該当します。

鳴神山遺跡及び萱田遺跡群ともにその遺跡消長は、律令国家の蝦夷戦争政策と強く関連していると考えています。

感想
鳴神山遺跡、萱田遺跡群及び恐らく下総国のこの時代の多くの墨書土器多出遺跡(あるいは銙帯出土遺跡)は、ことばは悪いですが、「戦争特需」で栄えた集落であると考えています。

「戦争特需」で栄えたが故に、蝦夷戦争が終息して律令国家の国家政策の重点が陸奥国から離れると、軍事・兵站基地としての意義を失い、鳴神山遺跡や萱田遺跡群は終焉してしまいます。


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