2015年10月25日日曜日

墨書文字「久弥良」と金毘羅信仰

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.230 墨書文字「久弥良」と金毘羅信仰

墨書文字「久弥良」について幾つかの推論を検討します。

1 推論1 墨書文字「久弥良」は金毘羅信仰集団の祈願語である
「久」「久弥」は「久弥良」の略称形であり、「久弥良」はクビラと読み宮毘羅・倶毘羅であり金毘羅(こんぴら)であると考えました。
2015.10.14記事「鳴神山遺跡の墨書文字「久弥良」はクビラ(金毘羅)と推定する」参照

「久弥良」(クビラ(金比羅))を祈願語とするということは、その集団が金比羅信仰を持っていた集団であると考えます。

金比羅信仰をwebで調べると金比羅信仰の由来時期は大宝年間(701年~704年)にあるようです。
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参考
金比羅権現
由来
象頭山松尾寺の縁起によれば、大宝年間に修験道の役小角(神変大菩薩)が象頭山に登った際に天竺毘比羅霊鷲山(象頭山)に住する護法善神金毘羅(宮比羅、クンビーラ)の神験に遭ったのが開山の由来との伝承から、これが象頭山金毘羅大権現になったとされる。象頭山金毘羅大権現は、不動明王を本地仏とした。
クンビーラ(マカラ)は元来、ガンジス川に棲む鰐を神格化した水神で、日本では蛇型とされる。クンビーラ(マカラ)はガンジス川を司る女神ガンガーのヴァーハナ(乗り物)でもあることから、金毘羅権現は海上交通の守り神として信仰されてきた。特に舟乗りから信仰され、一般に大きな港を見下ろす山の上で金毘羅宮、金毘羅権現社が全国各地に建てられ、金毘羅権現は祀られていた。
Wikipediaから引用
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金比羅信仰の始まりが8世紀初頭であるとすることが正しいとすると、墨書土器「久」「久弥」「久弥良」との時間的関係が気になります。

そこで、墨書土器「久」「久弥」「久弥良」が出土した遺構の年代を調べてみました。

「久」「久弥」「久弥良」出土遺構の年代

「久」「久弥」「久弥良」出土遺構の年代はほとんどが9世紀第1四半期あるいは第2四半期から始まり、第3四半期あるいは第4四半期までのものです。

この結果から、金毘羅信仰が始まってから約100年後に下総国印旛郡の鳴神山遺跡に金毘羅信仰が伝わったと仮定することが可能です。

白幡前遺跡では則天文字(一の下に生を書いた文字など)が墨書土器文字として出土しています。則天文字は武則天が皇位に就いていた15年間(690年 - 705年)に使われたものでその起源が明確な文字です。

中国で7世紀末から8世紀初めに初めて使われ出した則天文字が、8世紀中葉頃~9世紀の白幡前遺跡遺構から出土するという情報伝播速度を参考にすると、金比羅信仰が四国で始まってから100年後に下総に伝播するということは何ら不思議なことではないと考えることができます。

則天文字といい金毘羅信仰といい、最新文化情報は数十年あれば国際的、国内的に隅々にまで伝播して流行したに相違ありません。

最新流行の生れたて金毘羅信仰が鳴神山遺跡に伝わり根付いたと考えます。

2 推論2 墨書文字「久弥良」集団の使命は水上輸送活動であった
金比羅信仰は水上交通従事者の信仰です。

このブログでは花見川-平戸川(新川)筋が東海道水運支路であるという仮説を持っていますが、金毘羅信仰がこの東海道水運支路沿いに存在するということは、双方の仮説の確からしさを高めます。

花見川-平戸川(新川)筋が東海道水運支路であり、つまり印旛浦が東海道水運支路であり、蝦夷戦争の重要な軍事水運路であったため、そこに多数の水運関係者が配置されていて、その水運関係者の間で生まれたばかりの金毘羅信仰が流行したと考えることができます。

鳴神山遺跡出土文字の出土点数第2位が「久」「久弥」「久弥良」です。
つまり「久」「久弥」「久弥良」を共通祈願語とする集団が鳴神山遺跡では集団の大きさからみて序列第2位です。(ちなみに、序列第1位は「大」「大加」集団です。)

「久」「久弥」「久弥良」の分布は次のようになり鳴神山遺跡に広く分布します。

文字「久」「久弥」「久弥良」出土分布図

この「久」「久弥」「久弥良」集団が水運(蝦夷戦争の軍事水運)を使命としていたと考えます。

当初は「久」「久弥」「久弥良」集団を水鳥猟集団ではないかと考えましたが、その可能性はゼロとなりました。

遺跡の北側にも分布が拡がっています。この理由に強く興味を持ちます。

印旛浦から支谷津を通ってさらに船越を越え利根川(手賀沼)に抜ける輸送に従事した関係者の可能性を感じるからです。

その輸送はどれだけ水運であったかは不明ですが、たとえほとんどが陸運であったとしても、広義の水運関係者(輸送関係者)であり、金毘羅信仰を持っていて当然です。

3 推論3 墨書文字「久弥良」の金比羅信仰が現代にまで続いている

さて、別件興味で「印旛沼 自然と文化 創刊号」(1994.11、財団法人印旛沼環境基金)をペラペラめくっていると、次の論文が目に止まりました。

「印旛沼漁猟と金比羅信仰」(榎本正三)

近世から現代にかけての印旛沼及び周辺地域の金毘羅信仰について詳しく記述しています。

印旛沼に金毘羅信仰があることをはじめて知りました。

この論文に掲載されている金比羅信仰の場所を次に示します。

下利根川流域地方の金比羅信仰のあかし(含印旛沼)
榎本正三著「印旛沼漁猟と金比羅信仰」(1994.11、印旛沼自然と文化創刊号、財団法人印旛沼環境基金)から引用、加筆

近世以降の金比羅信仰は舟運関係者を中心に漁民や水上生活者から絶対的な信仰を集めて、現代に至っているとされています。

現代に続く舟運関係者をメインとする印旛沼金毘羅信仰の始源は鳴神山遺跡の墨書土器「久」「久弥」「久弥良」集団の金毘羅信仰にある可能性が濃厚です。

近世の利根川水系水運の幹線水運路から外れた印旛浦に金毘羅信仰が分布していること自体が、その歴史が近世以前に遡ることを暗示しています。

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