2015年10月27日火曜日

参考メモ 古代氏族の印旛への到達経路

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.232 参考メモ 古代氏族の印旛への到達経路

2015.10.26記事「鳴神山遺跡と宗像神社の関係」で印旛の古墳時代の古代氏族に関連した検討をしました。

この時参考にした論文、小倉博「印旛沼の神社と古代氏族」(1994、印旛沼-自然と文化創刊号)に次のような記述がありました。

鳥見神社を祀った氏族について、「物部小事の子孫または一族が、太平洋から利根川を遡って印旛郡にも進出し、居住地に祖神を祀ったのが鳥見神社ではないだろうか。」と記述しています。

鳥見神社を祀った古代氏族の印旛到達経路として房総半島を大回りして利根川を遡ってきたという考えが述べられています。
他の3古代氏族の印旛到達経路に関しての記述はありません。

鳥見神社を祀った古代氏族の印旛到達経路として房総半島を大回りして利根川を遡ってきたという考えには賛同できませんので、メモしておきます。

航海技術や造船技術が限られていた古墳時代にあって、また中継点となる拠点がない最初の進出にあって房総半島を大回りして利根川を遡って印旛に到達するということは他の3氏族も含めて無かったと考えます。

古代氏族の印旛への2つの到達経路(想像)

印旛への到達は東京湾から東京湾と香取の海を結ぶ自然の地峡(船越)を経由したものであったと考えます。

古代氏族の印旛への到達経路(想像)
ここで船越という言葉は「船を担いで越す」のではなく、「船を乗りついで越す」という意味で使っています。

古代水運は水路-船越-水路-船越という繰り返しだったと考えます。

参考 これまでの検討紹介
2014.12.06記事「駅家と津と船越」参照

東京湾と香取の海の水運路を結ぶ3つの船越
都川-鹿島川船越は古墳時代以前と奈良時代では場所が変化したと考えています。

【検討】香取の海の水運網イメージ(奈良時代前~中期)

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