2015年12月16日水曜日

鳴神山遺跡の出土道路

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.247 鳴神山遺跡の出土道路

鳴神山遺跡出土道路の時期について訂正します。

鳴神山遺跡の直線道路と2本の環状溝についてこれまで古代道路遺構としてあつかい、これまで遺跡集落構造を形成するものとして扱ってきました。(2015.10.04記事「鳴神山遺跡の墨書土器分布検討 その1」)

その後発掘調査報告書(*)のコピーを入手して読んだところ、直線道路は奈良・平安時代の古代遺構であるが、環状溝は中近世遺構であることを理解しましたので訂正します。

*「千葉北部地区新市街地造成整備事業関連埋蔵文化財調査報告書Ⅱ-印西市鳴神山遺跡・白井谷奥遺跡-」(平成11年3月、千葉県企業庁・財団法人千葉県文化財センター)

これまでこのブログで鳴神山遺跡の出土道路と考えた遺構

鳴神山遺跡の直線道路(奈良・平安時代遺構)

鳴神山遺跡の環状の溝(中近世遺構)

集落構造を規定すると考えた道路遺構が後世の溝遺構であったという、検討上のお粗末です。

その言い訳を詳しくかいてもつまらないことですが、お粗末の原因は発掘調査報告書の閲覧がままならないことでした。(ブログ花見川流域を歩く番外編2015.10.26記事「情報入手に関する懸案事項解決と若干の後味の悪さ

古代遺跡である直線道路と集落構造との関係は改めて検討します。

またそもそもこのような台地上の東北東-西南西方向の直線道路の意義につい興味を持ちますので改めて検討します。

発掘調査報告書では直線道路幅は上端で2.0m~2.4m、下端で0.9m~1.1m、深さは0.5m~0.7mで、底面は硬化した面も確認できるので道路としています。

埋土中からは多量の遺物が出土しているが、出土レベルは底面からかなり高い位置にある。道路として機能を失った後多量の遺物を廃棄したもとのしています。

なお、深い溝になっているので、主な機能は道路ではなく牧施設である可能性もあるのではないかと疑います。

中近世遺構である環状溝は集落が終焉する10世紀半ばより後につくられたものであり、出土物は9世紀代のものが多いが、これは重複して削平された住居の時期に該当するとされています。また近世の燈明皿が出土していることから中近世以降近世に至る溝としています。

こちらの方は牧施設のようです。

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