2015年12月30日水曜日

鳴神山遺跡直線道路検討メモ

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.257 鳴神山遺跡直線道路検討メモ

鳴神山遺跡出土直線道路遺構が遺跡内だけの遺構ではなく、直線状に東と西に延伸していることが、自分なりに確かめることができましたので、その道路意義について、これまで考えた事柄をメモしておきます。

自分で古代道路の兆候を確かめた範囲を地図にプロットすると次のようになります。

鳴神山遺跡出土直線道路遺構及びその延伸線上に観察できる線形模様

地形を考慮しない直線性から、この道路は在地勢力がつくったローカルな実用道路ではなく、律令国家がその威信を民衆や在地勢力に見せつけるために作ったものと考えます。

律令国家がこの道路をつくった理由は、蝦夷戦争で下総国の物資・兵員を動員して、効率的に陸奥国に届けることが急務であったためであると考えます。

蝦夷戦争という国家的一大事において、舟運による物資搬送だけでなく、専用陸路を設ける必要があったと考えます。

一般物資と違い軍馬、特牛の搬送は主に陸路で行う必要があり、その効率化のために専用陸路が設けられたものと考えます。

この道路の始点を次のように想定します。

直線道路始点のイメージ(牛馬搬送)

直線道路は主に大結馬牧、高津馬牧、浮島牛牧の牛馬搬送のために作られたとイメージします。

直線道路の印旛浦渡河地点は白井市谷田と八千代市小池を結んだ地点だったと考えます。

直線道路の印旛浦渡河地点イメージ

この渡河地点は近世絵図にも描かれています。おそらく古代にあってはここに土橋を設けて舟を利用することなく渡河できる場所だったと想像します。ここより東には橋はなかったと想像します。

参考 下総国印旛沼御普請堀割絵図
八千代市立郷土博物館提供

参考 下総国印旛沼御普請堀割絵図拡大図

白丸で囲んだところに、現在の白井市谷田と八千代市小池を結ぶ橋がみえます。

下流の神崎には大きな橋が架かっているのがみえますが、古代にはこの橋はなかったと想像します。

直線道路の終点は次のようにイメージします。

直線道路終点のイメージ

直線道路を牛馬搬送専用道路のようにイメージしますので、香取の海を渡るためのミナトは牛馬専用のものがあり、恐らく搬送船も牛馬専用船があったであろうと空想します。

香取の海を渡る前に牛馬に休息をとらせたり、天気を待ったりする必要がありますから、ミナト機能には広大な牧場が必須です。

また牛馬を航送するのに、その航路は短く、かつ単純なものであることがもとめられます。

そのような観点から、直線道路終点はBではなく、Aであると考えました。

以上の検討をまとめると次のようになります。

蝦夷戦争時代の陸奥国への牛馬搬送イメージ

鳴神山遺跡出土直線道路の意義についてイメージを深めることができました。

この直線道路と鳴神山遺跡の他の遺構がどのように絡むのか、続けて検討します。

直線道路とそれがど真ん中を貫通する鳴神山遺跡集落はどのような関係にあるのか?

興味が深まります。


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