2016年1月12日火曜日

鳴神山遺跡直線道路の発掘写真(古代自動運転道路)

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.266 鳴神山遺跡直線道路の発掘写真(古代自動運転道路)

鳴神山遺跡直線道路から思考を四方八方に広げて船橋市夏見の大結馬牧との関連や、果ては千葉市花見川区地名「犢橋(コテハシ)」の語源にまで至っています。

その肝心かなめの鳴神山遺跡直線道路の発掘写真はこれまで確認していませんでしたが、ようやく図書館で発掘写真のコピーを入手することができましたので紹介します。

鳴神山遺跡直線道路M004の発掘写真
「千葉北部地区新市街地造成整備事業関連埋蔵文化財調査報告書Ⅱ-印西市鳴神山遺跡・白井谷奥遺跡-」(平成11年3月、千葉県企業庁・財団法人千葉県文化財センター)から引用


白井谷奥遺跡直線道路029の発掘写真
(鳴神山遺跡直線道路M004の延長部)
「千葉ニュータウン埋蔵文化財調査報告書ⅩⅣ-印西市鳴神山遺跡Ⅲ・白井谷奥遺跡-」(平成12年3月、都市基盤整備公団千葉地域支社・財団法人千葉県文化財センター)から引用

硬化面の上に埋め土があり、その上に周辺竪穴住居から捨てられたと考えられる廃棄物(8世紀末~9世紀初頭)が堆積している状況が発掘調査報告書に記載されています。

自分自身の解釈として、この道路は牛馬の通行を優先して地面を掘って作られたと考えます。

道路を周辺の土地より掘った溝状の形状にすれば、牛馬に歩くべきルートを確実に知らせることができます。牛馬にいちいち指示しなくてすみます。

現代の道路構造が自動車優先であるように、古代の道路構造は牛馬優先であったということです。

古代にあって、牛は軍用トラック、馬は乗用車とか軍用ジープ、あるいは自走砲(騎馬)であったということです。

牛馬にいちいち歩く場所を指示しなくても、牛馬を追い立ていれば目的地につける道路ですから、この道路は古代の自動運転道路であったといえます。

これまでの検討で鳴神山遺跡直線道路は鳴神山遺跡で完結しているのではなく、東西隣の台地にも延伸していたいたことは戦後の空中写真からも確かめることができました。

従って、この道路の起終点ABは鳴神山遺跡にあるのではなく、もっと遠方にあります。具体的には起点Aの一つは船橋市夏見に在った大結馬牧、終点Bの一つは香取の海沿岸にあった牛馬を船に乗せ常陸国へ運ぶミナトであると考えました。
2016.01.07記事「大結馬牧と鳴神山遺跡に関する超仮説」参照

この直線道路から展開できる下総台地古代史ドラマは大きなものがあると考えました。

この直線道路に関して「千葉県の歴史 通史編 古代2」(千葉県発行)では次のように記述されています。

鳴神山遺跡直線道路に関する記述
「千葉県の歴史 通史編 古代2」(千葉県発行)から引用

この記述は道路意義に関して鳴神山遺跡内に視野を限定してしまっていて、物足りません。

この道路は現代風に言えば自動車専用道路とか高規格道路みたいなものと考えます。(軍用牛馬搬送専用道路と仮説しています。)

地先集落からみると、地域分断こそすれ集落内移動のためにどれだけ役立っていたか疑問が生まれます。

その証拠に、蝦夷戦争の動員が終わると同時に埋め立てられてしまい、その後集落が急成長します。(ピークは9世紀第2四半期)

集落の発展という意味では有用物ではなく、反対に阻害物であったと考えます。

道路が地域分断こそすれ、地先地域発展に役立たないという、現代における自動車専用道路とか高規格道路と地先地域との関係と同じ関係が古代にもあったと考えます。


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