2016年2月9日火曜日

鳴神山遺跡 土器分布重心の移動

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.285 鳴神山遺跡 土器分布重心の移動

2016.02.08記事「鳴神山遺跡 土器の検討」でサンプル調査(183竪穴住居)における土器出土数について検討しました。

その検討で8世紀第2四半期と8世紀第3四半期の土器出土分布を比較すると、直線道路南側において直線道路沿いに土器出土分布が新たに広がるという特徴を把握できました。

このブログでは直線道路が東京湾岸の大結馬牧(延喜式記載)等と「香取の海」岸を結ぶ、主に牛馬を陸奥国方面へ搬送する軍事道路であると想定しています。

そこで、8世紀第2四半期の土器出土分布は直線道路がまだできていない(あるいは十分に機能していない)状況を示していて、8世紀第3四半期の土器出土分布は直線道路が完成していて、機能していて、その道路沿いに竪穴住居群が新たに立地したと考えました。

8世紀第2四半期と第3四半期の土器出土分布

土器出土イメージ図を見れば一目瞭然の変化ですが、この記事では土器分布重心を求め、その移動状況を図化してみました。

鳴神山遺跡 直線道路南側竪穴住居出土土器分布の年代別重心移動

確かに土器分布の重心が直線道路に向かって前進していることを確かめることができました。

土器が沢山出土する竪穴住居は(その竪穴住居あるいはその場所をごみ溜めとして利用した近隣竪穴住居の)豊かな生活を象徴していて、従って集落の中で政治力・権力がある竪穴住居であると考えます。

つまり、竪穴住居出土土器分布の重心を測定するということは、政治権力の強さで重み付けした竪穴住居分布重心をもとめていることにほかなりません。

直線道路南側では8世紀第2四半期から第3四半期にかけて、政治権力の強さで重み付けした竪穴住居分布重心(つまり土器分布重心)が顕著に直線道路側に移動しているので、直線道路の影響が集落構造に影響を与えたことを確認できます。

今後、直線道路と鳴神山遺跡の関わりを示す物証(遺物)を発掘調査報告書の中から探したいと思います。

なお、直線道路南側における単純な竪穴住居分布重心の時代移動を次に示します。

鳴神山遺跡 直線道路南側竪穴住居分布の年代別重心移動




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