2016年3月9日水曜日

西根遺跡 出土物から見る空間特性 その1

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.301 西根遺跡 出土物から見る空間特性 その1

西根遺跡の流路5(奈良時代後半~平安時代、8世紀第3四半期~10世紀)の出土物から、西根遺跡の空間特性を検討します。

次の図は石製品の出土状況です。

西根遺跡流路5(奈良時代後半~平安時代) 石製品の出土位置

紡錘車や砥石は集落内で使われたものが川で廃棄されたものと考えます。火打石は祭祀で使われたものかもしれません。

出土位置が上流部に偏っていることが特徴的です。

船尾白幡遺跡の住民が、戸神川がすぐ近くにあり、竪穴住居内で使っていた石製品を川で廃棄したものと考えます。

そのように考えると、中下流部で石製品(あるいは金属製など竪穴住居住居内で使用していた製品)が出土しないのは、中下流部を使っていた集団の竪穴住居が遠く離れていた可能性を感じ取ることができます。

次の図は獣骨等の出土状況です。

西根遺跡流路5(奈良時代後半~平安時代) 獣骨等の出土位置

偶蹄目骨片と馬歯が上流部から出土します。牛、馬を川辺で食った状況を想像することができます。

中下流部からは食った動物の骨は出土していませんから、中下流部を使っていた集団は牛や馬を食うという酒宴(祭祀)を川辺で行っていなかった可能性を感じ取ることができます。

牛や馬を食うという規模の大きな酒宴(祭祀)を行うにしては、この場所が集落から離れすぎていたのだと思います。

次の図は木製品の出土状況です。

西根遺跡流路5(奈良時代後半~平安時代) 木製品の出土位置

木製品は上流・中流・下流から多数出土します。

「馬形・人形流し」(疾病送り)に使われた馬形・人形が上流部から出土します。

上流部が船尾白幡遺跡住民の川辺特有の祭祀の場になっていたことが判ります。

木製品の中には大きな槽(ソウ、おけ)が出土していて、田舟であった可能性を発掘調査報告書では検討しています。

田舟という表現にすると、その用途が極めて狭く限定されてしまい、遺跡の意義の検討に差し障るような気がします。偏った先入観を持ってしまう可能性があります。

槽状の大きな木製品は、戸神川という小さな川で使うことができる、舟であった可能性が高いと思います。

出土した槽状木製品
「印西市西根遺跡 -県道船橋印西線埋蔵文化財調査報告書-」(平成17年3月、独立行政法人都市再生機構千葉地域支社千葉ニュータウン事業本部・財団法人千葉県文化財センター)から引用

恐らくこの舟には人は乗らないで、荷物だけを載せ、人が水面あるいは水際を歩いて曳いていたのだと思います。

水田耕作に使ったことを否定する気はありませんが、この小さな舟のメインの役割は戸神川筋における物資運搬であったと想像します。

曳き舟ならば戸神川谷津をどこまでも遡上できます。

なお、古墳時代前期の流路3から準構造船の部材(艫(トモ、船尾)か波除)が出土していますから、奈良時代にあっても、人が乗れる舟が戸神川を通航していた可能性はあります。

参考 出土した古墳時代前期の準構造船部材
「印西市西根遺跡 -県道船橋印西線埋蔵文化財調査報告書-」(平成17年3月、独立行政法人都市再生機構千葉地域支社千葉ニュータウン事業本部・財団法人千葉県文化財センター)から引用


次の図は、木製品の中の杭の出土位置です。

西根遺跡流路5(奈良時代後半~平安時代) 杭の出土位置

杭の出土位置は上流部です。

杭の用途として牫牱[杵](カシ、舟の係留杭)を想定できます。

なお、舟の係留杭といっても、水辺に打って固定されている杭というイメージだけでなく、常時は舟に積んでいて、係留するときに水辺に打つという錨のような利用方法も念頭におく必要があります。

杭の出土位置が上流部に限定されることから、この付近が船尾白幡遺跡のミナトであった可能性を感じ取ることができます。

槽の出土位置がこの上流部ミナト付近に無いのは、何らかの状況で舟が廃棄された(廃棄せざるを得なかった)状況とは洪水であった可能性が高いからだと考えます。

ミナトにつないでいた舟が洪水で流され、下流で水底に埋まってしまい、回収できなかった(発見できなかった)のだと思います。

次の記事で土器について検討します。


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