2016年3月17日木曜日

船尾白幡遺跡 銙帯

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.307 船尾白幡遺跡 銙帯

船尾白幡遺跡の検討に入ります。

西根遺跡の検討をすることにより、船尾白幡遺跡の検討の視点を明瞭にできると考えたのですが、その試みは見事に的中したと考えています。

西根遺跡の検討から、鳴神山遺跡は丈部氏族が主導し、船尾白幡遺跡は大生部氏族が主導しているということが判りました。

印旛浦における2つの主要氏族が戸神川を挟んで競争的に開発をしていたという状況が判ったことから、船尾白幡遺跡の特徴と鳴神山遺跡の特徴を比べて、その違いを見つけることができるか、検討を進めます。

この記事では銙帯の出土状況を検討します。

銙帯は官人が着装するものですから、官人つまり律令国家の関与の指標になると考えます。

船尾白幡遺跡からは3点の銙帯が出土しています。その出土場所を示します。

船尾白幡遺跡の銙帯出土場所(8世紀後葉~9世紀初頭)

船尾白幡遺跡の銙帯出土場所(9世紀第3四半期)

船尾白幡遺跡も鳴神山遺跡と同じく8世紀に入り開発に着手し、8世紀後葉~9世紀初頭の蝦夷戦争準備期、蝦夷戦争期に律令国家による開発が進み、その後9世紀に入ると戦争による動員が解除され開発が大発展したと考えます。

官人つまり律令国家の関与を示す銙帯が8世紀後葉~9世紀初頭と9世紀第3四半期に出土していることことから、船尾白幡遺跡の開発に官人(律令国家)が深く関与していたことが判ります。

鳴神山遺跡の検討では、9世紀初頭の蝦夷戦争終結までの期間と9世紀の経済発展期では官人の役割が大いに異なっていたと考えましたが、船尾白幡遺跡でもそのような傾向がみられるか、今後検討します。

(鳴神山遺跡では蝦夷戦争終結までは官人(律令国家)が計画的かつ強制的にプロジェクトを進めたが、蝦夷戦争終結後はそのような上からのプロジェクトではなく、地元経済発展のプロジェクトが進み、在地勢力が官人(律令国家)の権威を利用して開発を進めたとイメージしました。)

蝦夷戦争終結前と後の2時点の銙帯出土場所がほぼ同じ場所です。

この銙帯出土場所が船尾白幡遺跡の政治の中枢部であったことが推察できます。

その場所から戸神川のミナトにすぐ降りられることからも、そこが集落中心部であったことが推察できます。

参考までに鳴神山遺跡の銙帯出土状況を示します。

参考 鳴神山遺跡の銙帯出土状況

鳴神山遺跡の銙帯出土場所は離れた場所にあり、それぞれ拠点的な場所であると考えました。

これらの銙帯出土場所が船尾白幡遺跡の銙帯出土場所のように、遺跡全体を統括するような中枢機能を有していたかどうかは不明です。

次に萱田遺跡群を含めて銙帯出土数を検討してみました。

萱田遺跡群と鳴神山遺跡・船尾白幡遺跡の銙帯出土数

萱田遺跡群と鳴神山遺跡・船尾白幡遺跡の竪穴住居100軒あたり銙帯出土数

「竪穴住居100軒あたり銙帯出土数」という指標は大ざっぱですが、その遺跡にどれだけ官人(律令国家)が関与したかということを表すと考えます。

白幡前遺跡・井戸向遺跡と船尾白幡遺跡の値が似通っていることは、同じような開発型遺跡であることから、その意味を首肯できます。

それに比べて鳴神山遺跡の値が低くなってます。この意味を次のように解釈します。

鳴神山遺跡の遺跡として発掘された場所が集落の現場に当たる場所(牧など現場)であり、集落の中枢部が含まれていないから、銙帯出土数が相対的に少ない。

北海道遺跡は現場的様相が強い遺跡であると検討しました。

権現後遺跡は土器生産工業団地という単機能集落であり、官人(律令国家)の関与が強く、他遺跡のような多機能(一般的居住、諸開発)集落でなかったため、「竪穴住居100軒あたり銙帯出土数」の値が大きくなっていると考えました。






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