2016年6月8日水曜日

市原条里制遺跡と地名の検討

2016.06.06記事「地名「~条」の検討」で、「~条」地名は直接的に条里制遺跡と関係する地名ではないことを明らかにしました。

その記事で、発掘調査が行われた市原条里制遺跡の例を引用しましたが、その中に詳しい小字分布図がありましたので、条里地割に関する地名例として、検討・学習してみました。

なお、各種資料を詳しく調べましたが、市原条里制遺跡付近の地名(大字・小字等)には「条」という文字が含まれるものが無いことを再確認しました。

1 条里地割と大字との関係

次に市原条里制遺跡付近の地図情報を掲載します。

市原条里制遺跡付近の地図情報

迅速図では条里地割部分に地名の記載がありません。村名が条里地割南東の台地と北西の砂洲上にみえます。

現代の町丁・字等名称の分布をみると、条里地割部分は迅速図の村の地先毎に分割されているように見えます。

つまり、条里地割部分の行政(所領)境界は周辺集落によって分割されているように見えます。

この関係が耕地整理されるまえの、条里地割が現存していたときにも同じことがいえるのか、確認してみました。

次の図は小字分布図に大字を書き込んで、迅速図と対照できるようにした図面です。

市原条里制遺跡付近の大字分布

迅速図では台地縁に、北側から市原村、郡本村、藤井村、加茂村が並んでいますが、その地先低地の条里地割の土地が市原村、郡本村、藤井村、賀茂村の領域になっています。

海に近い砂洲のある五所金杉村、西野谷村、君塚村付近はその通りの領域になっています。

この情報から広域に建設された条里地割に特有の名称(地名)が与えられていないことと、条里地割が周辺の村の地先毎に分割されて使われているということです。

この事実から、条里地割が特定為政者の土地所有・支配・地域限定開発ではなく、農業耕作や徴税等の効率化に関わる技術的仕組み、インフラ建設であるということが浮き彫りになります。

この場所が国府のおひざ元であるということを斟酌すれば、上総国レベルでの古代耕地整理事業であるとイメージします。

水利条件の改善や徴税の効率化を目的に、このような大事業が計画的に実施されたことに強く興味が湧きます。

2 条里地割と地名に関する学習

条里地割に関して「千葉県の歴史 通史編 中世」(千葉県発行)の次の記述を学習しました。

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上総国府と市原条里制遺跡

内房線五井駅の東側の台地上には、市原市郡本周辺の上総国府推定地、上総国分寺跡など、古代上総国の中枢部の痕跡が残されている。

その台地と市原市五井・八幡宿の市街地が立地する海岸砂丘列(海岸部の微高地)との聞の沖積低地には、昭和四十年代に基盤整備事業が行われるまで条里地割の痕跡が広範囲に存在していた。

ここには「一ノ坪」「ニノ坪」「三條町」「一~三ノ町」「柳ノ坪」といった条里の坪地割に関連する地名が確認でき、千葉県内でも最も典型的な条里地割の例として知られている場所でもある。

また、「番匠給」「梶(鍛冶)給」「時シ(土器師)免」などの地名が残されている。

これらの地名は、一三七二(応安五)年の「市原八幡五月会馬野郡四村配分帳」に上総国衙の技術者として現れる「番匠」「鍛冶」「土器師」に対応しており、この条里地割の水田は、国衙機構と密接な関係にある水田であったことが推定でき、さらに、十三世紀前半頃の上総国国検史料である「隆覚書状」に記された「八幡水田」「国分水田」も、この範囲に存在していてと考えてよいだろう。

「千葉県の歴史 通史編 中世」(千葉県発行)から引用
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3 条里地割と小字との関係

条里地割の小字名を詳細に観察すると、古代耕作環境が判りましたのでメモしておきます。

「市原・郡本地区条里地割りおよび字名」(「千葉県の歴史 通史編 中世」(千葉県発行))をみると、数詞がつく小字が空間的に連続するものが3つ確認できます。

次の3つです。

・「一ノ坪」「二ノ坪」「三條町」「四ノ瀬」
・「一ノ町」「二ノ町」「三ノ町」
・「一ノ堀合」「二ノ堀合」「三ノ堀合」「四ノ堀合」

「市原・郡本地区条里地割りおよび字名」(「千葉県の歴史 通史編 中世」(千葉県発行)から引用)

この数詞のついた地名について「千葉県の歴史 通史編 古代2」(千葉県発行)では図面を付けて、次のように説明しています。

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条里内の坪の配列

市原市のととのった水田区画と一ノ坪・ニノ坪などの小字名は、古代の条里制と坪並の痕跡と考えて、市原条里制遺跡と名づけられた。

古代の小家族は、この一町=1坪前後の広さの口分田を耕して生計を立てていたのである。

「千葉県の歴史 通史編 古代2」(千葉県発行)から引用

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さて、平行式か千鳥式かは別にして、このような坪配列番号が上記「一ノ坪」「二ノ坪」「三條町」「四ノ瀬」などであるとはどうしても考えられません。

その理由は、「一ノ坪」「二ノ坪」「三條町」「四ノ瀬」、「一ノ町」「二ノ町」「三ノ町」など3つとか、4つまでしか番号が現れないことです。

1・2・3・・・と続いて、多数の坪の配列番号を表現しているとは、長年月のうちに多くの最初の地名が失われたとしても、考え難く感じます。

また、一方では「坪」と使い、一方では「町」を使っていて、計画的に建設されたインフラの坪の単位名称がすぐ隣で異なるということも強い違和感を感じます。

このような疑問を持って、「一ノ町」「二ノ町」「三ノ町」の南(図面左)を見ると、「柳ノ坪」「柳ヶ坪」が並んでいます。

「一ノ坪」「一ノ町」と「柳ノ坪」「柳ヶ坪」が同じライン上に並んでいます。

そのラインは台地縁の最初の本来坪(余りの区画ではない正式区画)ラインです。

それに気が付くと、「一ノ坪」「一ノ町」「柳ノ坪」「柳ヶ坪」が同じ意味を持っていることに気が付きました。

柳には次のような意味があります。

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やなぎ 【柳】

民俗・象徴
日本

また苗代に稲種をまいた後に,柳を田の神の依代〘よりしろ〙として水口にさして祭る風も広く見られ,古く《万葉集》にも〈青楊の枝伐りおろし斎種〘ゆだね〙蒔き……〉とうたわれている。

『平凡社 改訂新版 世界大百科事典』 日立ソリューションズ から引用

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つまり「柳ノ坪」「柳ヶ坪」とはその場所を苗代として、柳をさして祭った場所という意味です。

「一ノ坪」「一ノ町」も同じ意味です。

「一ノ坪」「二ノ坪」「三條町」「四ノ瀬」、「一ノ町」「二ノ町」「三ノ町」という連番は苗代から順次水が流れていく坪の順番を示していると考えます。

「一ノ坪」「二ノ坪」「三條町」「四ノ瀬」、「一ノ町」「二ノ町」「三ノ町」などは条里地割の配列番号を示しているのではなく、灌漑水のメイン流向を示していると考えます。

その考えを次の図にまとめました。

市原条里制遺跡付近の小字名から推察する古代耕作環境

図面右の「一ノ坪」「二ノ坪」「三條町」「四ノ瀬」は市原村の苗代と灌漑水の流れを示しています。

「一ノ町」「二ノ町」「三ノ町」は郡本村の苗代と灌漑水の流れを示しています。

「柳ノ坪」、「柳ヶ坪」はそれぞれ柳本村・藤井村、加茂村の苗代を示しています。

それぞれの苗代坪は近くの水源谷津にピタリと対応しています。

なお、「高田」「姥田」「開発田」「扇田」の言葉の意味から、その付近は微高地であると考えます。

その微高地の北側に「一ノ堀合」「二ノ堀合」「三ノ堀合」「四ノ堀合」があります。

その付近の地割は乱れていますから砂洲の環境にあり、水を引くのに堀を掘ったのでそのような坪の名称になったと考えます。

同時に水の流れの方向は「一ノ堀合」→「四ノ堀合」ということになります。


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