2016年9月10日土曜日

上谷池の竪穴住居と土坑の検討

上谷遺跡の標高25m等高線で囲まれた閉じた凹地を上谷池と仮称しています。

上谷池の底部分から縄文時代住居跡4軒が出てきたので、この場所のどこかに水場があったことを想定してます。

2016.09.08記事「上谷遺跡の縄文時代住居跡と水場」参照

この上谷池ほとりの奈良・平安時代竪穴住居から馬具が出土しています。

その情報から、上谷池付近が牧の一部であったと予想し、それを示すような情報を集めようとしています。

上谷池には奈良・平安時代遺構として2軒の竪穴住居と7つの土坑が存在します。

その遺構について検討してみます。

上谷池付近遺構(2016.09.11訂正)

1 A182竪穴住居と土坑7つについて

A182竪穴住居と6つの土坑が近接してまとまって分布していて、また少し離れた場所に土坑D183が存在し、それらは全体として近隣遺構から離れた場所にあります。

ですからA182竪穴住居と7つの土坑は関連性を持っている可能性が考えられます。

次の2つの解釈をメモしておきます。

1-1 竪穴住居と土坑が牧関連施設であるとする考え

地形の検討から土坑密集地付近は化石谷流下方向の末端部で、最も水湿な環境であると考えられます。

その湿地に浅い土坑を堀り、湧水を貯め、放牧している馬にその水を飲ませたと考えます。

竪穴住居はその馬水飲み施設の管理人家族の住居(管理施設)であったと考えます。

D183土坑は管理人用の井戸であったと考えます。

1-2 竪穴住居と土坑は上谷池で耕作が行われていたことを示すとする考え

上谷池は水場であると考えますが、A182竪穴住居と7つの土坑が密集することからこの付近が水面とか湿地というより、乾いた陸地であったと考えます。

土坑D181は他の土坑と異なり深い穴となっていることから、井戸であったと考えます。

つまり、A182は耕作を生業とする家族の住居であったと考えます。


以上2つの解釈について、現時点では次の点から1-1の方が有力であると考えます。

ア 地形の検討から上谷池では北側ほど水湿環境になると考えられます。従って、この場所は水に関わる機能を有する場であると考えます。

イ 1軒の竪穴住居と7つの土坑のセットが、通常の「農家」としては不自然です。その場所が微高地で周辺で畑作等を行ったと考えると、複数の竪穴住居が存在しているはずです。

 
A182竪穴住居から出土した遺物は土師器坏(内外面赤彩)1、須恵器坏2、土師器甕1、土師器甑1で、墨書はありません。

この付近の竪穴住居から赤彩土器が出土するので、その意義について、今後別途検討します。

2 A179竪穴住居について

A179竪穴住居は孤立して存在しています。周辺に土坑すらありません。

A179竪穴住居から次の遺物が出土しています。

土器出土15点、うち墨書土器「人」×2、「大井」、「竹」×2、赤彩土器、内黒土器

竪穴住居が存在するのですから、その場が完全なる水面でなかったことはその通りだと考えます。

しかし、低湿地に1軒だけ孤立して存在する竪穴住居に意味があると考えます。

現時点では空想の域をでませんが、次のような推測をメモしておきます。

ア 「大井」はこの場所が水場(それも大きな水場)であったことと関係するのではないか。
この竪穴住居が大きな水場と強く関係していた可能性を感じます。

イ 内黒土器の存在は俘囚の存在と関連するのではないか。

ウ 「人」は俘囚と関連する墨書文字ではないか。

今後他の情報も含めて上谷池付近の遺構・遺物から牧に関する情報を得ることができるか、検討を深めます。

0 件のコメント:

コメントを投稿