2016年9月17日土曜日

上谷池の土坑 馬の水飲み

2016.09.10記事「上谷池の竪穴住居と土坑の検討」で上谷池に孤立的に分布する土坑を馬の水飲み、竪穴住居をその管理施設と想定しました。

この記事はその想定を詳しく検討します。

1 上谷池付近の遺構

上記記事では次の遺構分布図を作成しました。

上谷池付近遺構

この地図の基図を発掘調査報告書の基図に変換してみました。

上谷池付近遺構
基図は「千葉県八千代市上谷遺跡 (仮称)八千代市カルチャータウン開発事業関連埋蔵文化財調査報告書Ⅱ -第3分冊-」(2004、大成建設株式会社・八千代市遺跡調査会)による

上谷池の地形が都市計画基本図より詳細にわかります。

この詳細な地形を手ずるにして検討を進めます。

注)この記事で使う扱うA182竪穴住居、D183土坑が発掘調査報告書地図における表記番号と異なっています。これは発掘調査報告書地図に過誤があるためです。

基図印刷番号A188(誤)→A182(正)、D185(誤)→D183(正)


2 縄文時代遺構分布から見た水陸分布

縄文時代遺構をこの地形情報とオーバーレイさせて観察すると、作業上、次のような水陸境界がイメージできます。

作業A 縄文時代遺構から想定する水陸境界イメージ

等高線23.2mと23.0mの間付近に水陸境界をイメージできます。

3 A182竪穴住居とD183土坑からみた水陸境界イメージ

3-1 A182竪穴住居の特性

A182竪穴住居は牧の水管理施設であると考えました。

その様子が特異な形状からうかがわれます。

A182竪穴住居の煙道部の特異な形状

竪穴住居ではその方形より煙道部が若干出っ張っていることが普通です。

ところがA182では極端に出っ張っています。

発掘調査報告書では「煙道部は壁を奥行あるように細長く掘り込んだものであった。」と記載されています。

このような特異な形状は上谷遺跡の他の竪穴住居には見られません。

この形状はこの場所が池の底にあるということから次のように考えざるを得ません。

A182竪穴住居の煙道部特異形状の解釈

A182竪穴住居はその廻りに土手を築いて浸水を防いでいたと考えることができます。

このこのとから次のことが判ります。

1 わざわざ土手を築いて竪穴住居を作ることから、この竪穴住居が通常の居住のためのものではなく、水管理などの目的のある施設であることが判ります。

2 土手を築く必要があることから、この場所が水陸境界付近であったことが判ります。

3-2 D183土坑の意義


D183土坑

WEBで土坑出土例を検索すると、D183土坑と類似形状で、底に板で桝をつくり、水ダメとしたものがいくつか見つかりました。

D183土坑は古代の井戸形状として一般的なものであるようです。

D183土坑の井戸利用状況を次のようにイメージしました。

D183土坑が井戸として使われていた頃のイメージ

D183土坑は人用の立派な井戸ですから、この場が水面であったことはないと考えることができます。

3-3 A182竪穴住居とD183土坑からみた水陸境界イメージ

A182竪穴住居は等高線23.2m直上にあり、この場は浸水する可能性があることから、いわば水陸境界の最前線であると考えます。

D183土坑は等高線23.4m近くにあり、この場は水面からは離れていたと考えます。

このような考えからA182竪穴住居とD183土坑からみた水陸境界を次のように作業上イメージしました。

作業B A182竪穴住居とD183土坑から想定する水陸境界イメージ

4 奈良・平安時代水面(湿地)イメージ

上記作業Aと作業Bを重ね合わせると次のような水面(湿地)イメージを得ることができます。

作業ABによる奈良・平安時代水面(湿地)イメージ

等高線でいえば23.1mくらいより低い場所には縄文時代遺構および奈良・平安時代竪穴住居が存在しないので、水面あるいはそれに近い湿地であったと考えます。

実際の状況は雨が降れば水面が広がり、干天が続けば水が干上がるという不安定な水場であったと想像します。

安定した水場ではないので、その管理施設としてのA182竪穴住居が作られたと考えます。

5 水場付近土坑の意義

水場付近の6つの土坑について、次のように考えました。

上谷池水部付近の土坑

水面あるいは湿地と考えた空間に存在する土坑(D160、D172、D173)は馬の水飲み施設の可能性が高い土坑であると考えます。

特にD160は水溜そのものであると考えます。

水面が存在している場合はその場所に、水面が干上がってしまって湿地だけになった時には、これらの土坑に溜まった水に馬を誘導していたと考えます。

馬のために水溜土坑を作る必要があったことから、水場が不安定であったことが判ります。

同時に、その不安定な水場の状況に対して、専用管理施設をつくり、管理人が常時水管理していたのですから、牧が上谷遺跡集落の生業として重要なものであったことがわかります。

等高線23.2mより高い位置にある土坑3つは馬の水飲み施設である可能性とそうではない可能性の双方を検討する必要があると考えます。

D174は断面、平面形状から杭跡の可能性もあります。


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