2017年9月20日水曜日

新津健「猪の文化史 考古編」学習

2017.09.18記事「西根遺跡 焼骨と破壊土器が混ざって出土する理由」で頭部のない体部だけの幼獣焼骨の意義について考察しましたが、焼骨の意義、頭部のない獣骨の意義について図書「新津健(2011):猪の文化史 考古編、雄山閣」を入手して学習しました。

図書「新津健(2011):猪の文化史 考古編、雄山閣」

この図書ではイノシシをメインテーマにして、焼骨の意義、頭部の無い獣骨(焼骨)の意義について民俗例をふくめて考察しています。

この図書では、私が知りたかった事項がそのまま考察検討されている部分が多くあり、私にとっての良書となりました。

祭祀では、イノシシの頭部が体部とは別に扱われることは一般的であり、頭部は祭壇に飾られることが普通であることを知り、自分のこれまでの想定を変更する必要性は生じないことを確認できました。

儀式における猪の扱いの流れ
図書「新津健(2011):猪の文化史 考古編、雄山閣」から引用

この図書から有益な情報をさらに汲み取るつもりです。

2017年9月18日月曜日

西根遺跡 焼骨と破壊土器が混ざって出土する理由

西根遺跡縄文時代の土器集中地点と焼骨分布が重なります。
さらに、土器のかけらの間に焼骨(とそれを焼いた木の燃えカス)が見られます。

破壊した土器のかけらと焼骨が混然一体となって出土する意味がおぼろげながら判ってきたような思考が生れています。
そのおぼろげな思考を忘れないうちに、今後の学習の参考とするために、下にメモしておきます。

1 トチの実アク抜きによる主食づくりの道具としての土器(加曽利B式土器 粗製土器)が壊れて使用に耐えなくなる。
2 それに代わる新しい土器をつくり、古い土器は廃用とする。
3 土器を更新することにより、道具(設備)の面から主食づくりの継続性が集落で担保できる。(食物調達に関する持続可能性)
4 堅果類による主食づくりのメドがついた秋~冬に収穫祭を行う。
5 収穫祭で廃用土器を送り、土器に感謝する。(土器送り…土器破壊)
6 狩猟民である縄文人は主食である堅果類の収穫祭を狩猟の祭(イノシシ、シカの共食と骨焼き行為)の中で(の一環として)行った。
[恐らく狩猟の祭(イノシシ祭などと呼ばれる縄文社会普遍の狩猟祭)に後から堅果類収穫祭が加わった。]
7 縄文時代後期の印旛浦周辺地域は下総地域における主要な狩場では決してないのでイノシシやシカの入手は困難であり、祭祀用の幼獣を特別に入手したり、飼育していたと想像する。
8 縄文社会の伝統である狩猟祭(イノシシ祭)の一環として堅果類収穫祭が位置づけられ、廃用土器の破壊(送り)が行われた。
9 飼育幼獣などを利用してイオマンテ類似行為により獣を共食し骨を焼きそれを散布する行為は縄文社会を営むために必須の祭であった。狩猟行為の実態が存在しない、あるいは虚弱な集落であっても、狩猟祭は必須であった。その必須狩猟祭の一環として(新たに主食化が成功した)堅果類の収穫祭を行った。

土器破片と焼骨が一体となって出土する意味とは、狩猟民としての精神性を示す狩猟祭(イノシシ祭)を冠として、主食である堅果類の収穫祭が行われたことを示していると考えます。

狩猟祭(イノシシ祭)では頭部を体部と切り離して祭壇に飾ったと考えます。
狩猟祭(イノシシ祭)について、今後学習を深めます。
体部の骨を焼く行為の意味については、送り行為の一環(火葬)であると想像しますが、今後学習を深めます。

狩猟祭としての焼骨行為は精神性(象徴性)が強いと考えますので、焼骨散布による修景機能(祭壇付近を白く染める)や土木機能(祭壇付近の地面を固める)は結果として生まれるサブ機能であったと考えます。

参考 西根遺跡出土焼骨
発掘調査報告書から引用

2017年9月17日日曜日

西根遺跡 焼骨出土状況の詳細とその考察

2017.09.16記事「西根遺跡 焼骨はどこで焼かれたか」で焼骨が西根遺跡空間で焼かれて生成され、その場に存置されたことがほぼ判りました。

この記事ではさらに発掘調査報告書掲載情報を詳細に分析して焼骨出土状況を把握・確認するとともに、その事実に基づいた考察を行います。

1 焼骨出土状況の詳細把握
発掘調査報告書の土層断面図記載から骨片が炭化物(焼けた木片)と常に一緒に出土していて、獣骨が西根遺跡空間で焼かれ、その場に存置されたことが明らかになりました。

この様子は発掘調査報告書文章記述では次のよう述べられています。
「集中地点の中には土器のほかに獣骨片や炭化物が多くみられる所もある。獣骨片は比較的小型の哺乳類が中心であり、細かく粉砕され、被熱しているものが大半である。」(16ページ)
「(第1集中地点)3Cグリッドには土器と土器の間に焼けた獣骨片が見られる
(第2集中地点)包含層内の1部には炭化物や骨片が見られる
(第3集中地点)小骨片も認められる。」(22ページ)
「獣骨・種子については、調査区の中で目立ったものを採取したものである。分布については、第1集中地点~第5集中地点までは土器の重量分布(第13図)と重なっている
獣骨(第183図)については、大型片は出土せず、焼けた細片が主体である。全体で1509.6gが出土し、小グリッドで出土大いには、第1集中地点の3C65グリッドで104.2g、第3集中地点の8D76グリッドの197.0g、第4集中地点の9C96グリッド188.0g、10C09グリッドの160.7gであり、いずれも200gを切っており、僅かな出土である。獣骨の種別等については第8章第2節を参照されたい。」(232ページ)
「縄文時代後期の堆積層から採取した遺存体は、いずれも短時間に強い熱を受けたと考えられ、色調は灰白色ないし灰黒色を呈し、変形や損傷が著しい。」(342ページ 理化学的分析)
「西根からは、腐食しにくく、腐肉食性の動物などからの食害を受けにくい遊離歯も回収できないことから、今回の焼骨の中に占める頭骨の頻度はそれほど高くないと見込まれる。」(345ページ 理化学的分析)
「獣骨は、第1集中地点~第5集中地点で検出しているが、どれもほとんど同じ状況で被熱痕が強く残り、イノシシやシカの幼獣の骨片が多いという事実があきらかとなった。これについては今後、他の遺跡との照合が必要である。」(422ページ)

上記の記述から、焼骨の出土は土器が密集するところに分布し、炭化物と骨片が混ざっていて土器と土器の間にみられ、どこも同じような状況であることが確認できます。

2 焼骨づくりに伴う活動の考察 
破壊した土器があるその場所で焼骨を作ったことが確認できるのですから、次のような活動を想定できます。
●廃用土器の破壊と焚火による焼骨生成が1回の活動(祭祀)で一緒に行われた。
この活動想定から次のような状況を想像できます。
●廃用土器と生きた幼獣(シカあるいはイノシシ)を持参して西根遺跡に丸木舟で集団がやってくる。
●祭壇(イナウ)を設置し、飾り弓を使ったイオマンテ類似祭祀が行われる。
●獣の頭骨は祭壇に飾り、体部は焼いて集団が食べる。
●残った骨は焼いて骨灰(焼骨)とする。
●焚火の近くで廃用土器を破壊する。
(私はこの活動を堅果類収穫祭の一環であり、印旛浦広域集落群共同の取り組みであり、手賀浦地域との交流の場であり、印旛浦と手賀浦を結ぶミナトの移動(廃絶)ともかかわると考えています。)

このように想像すると次の諸点で発掘情報と整合します。
1 土器片の間に炭化物と焼骨が混ざって出土する。
2 頭骨は祭壇に飾られて放置されるので腐り、土層中に残りにくい。
3 自生する灌木を利用して現場でつくる祭壇(イナウ)は包含土層中に残り、木質(自然木)として出土している。
4 集落から持参した製品としてのイナウは「杭」として出土している。イオマンテ類似祭祀で使った飾り弓は出土。
5 包含層上下の土層から多くの木質が出土していることから、縄文時代後期の戸神川谷津は灌木が豊富であったと考えることができる。従って祭壇(イナウ)づくりはもとより、獣を調理したり焼骨をつくるための焚火の材料には事欠かなかった。

3 焼骨づくりに関する検討項目の考察
焼骨づくりのイメージがより詳しく湧いてきましたので、焼骨づくりの意義に関する検討が新たな項目として抽出されました。
具体的には次の項目について今後検討を深める必要があります。

●動物を調理して食った後の骨を何故焼いて骨灰(焼骨)にしてその場に存置したのか?
土器破壊と骨灰(焼骨)づくり(その存置)は一体の祭祀活動であると考えます。
その祭祀の意味、土器を破壊する意味、骨を焼いて存置する意味について詳しく検討する必要が項目として浮かびあがりました。
具体的には、骨灰(焼骨)存置行為に祭場を白く修飾する風景機能や祭場を固めて破壊土器が動かないようする土木的機能を縄文人が期待していたのかなどについて検討したいと思います。

4 焼骨分布を指標にした検討項目の考察
焼骨と炭化物と土器片が混然一体となって出土する状況は、その場所が後世の流路で破壊されなかったことを物語っています。
仮にその場所が後世の旧流路と平面図上で重なっていても、断面図上では上下に離れていることを物語ります。
つまり、焼骨分布を指標として後世流路により攪乱を受けていない場所を抽出できることになります。
逆に土器が分布し焼骨は分布しない場所で、後世流路と重なる場所は攪乱をうけた場所である可能性が濃厚になります。焼骨や土器の一部が流出してしまったり、上流から土器が水流で運ばれてきた場所になります。
焼骨分布を指標として西根遺跡の詳細地形特性を明らかにすることができます。
今後詳しく空間分析します。

参考 土器分布図(ウススミ)、時代別流路分布図、獣骨分布図(グリッド)のオーバーレイ図 第3~第5集中地点付近

5 参考 感想
1で引用したとおり発掘調査報告書では焼骨について「これについては今後、他の遺跡との照合が必要である。」と述べています。
この記述は、言外に、焼骨に関してはこれ以上検討しないということを述べていると感じました。
発掘調査報告書における「集中地点の性格と意義」における次の結論的記述には焼骨が検討ファクタとしては含まれていないことが推察できます。
「…何を意味するのか具体的には不明である。現代の針供養とも一面では通じるような感を受けるが、穿った見方であろうか。」

土器集中地点の性格と意義を検討するためには破壊土器だけに着目するのではなく、焼骨も重大な検討成分として一緒に検討することが必須だと考えます。

類似他遺跡の検討結果を丹念に見直し、西根遺跡と比較して西根遺跡の意義を考察する必要性が大切であることは論を待ちません。
しかし、その前に西根遺跡内部の徹底した分析・考察が無ければ、類似遺跡情報ばかり集めても、それがどれだけ使えるか何の保証もありません。

2017年9月16日土曜日

西根遺跡 焼骨はどこで焼かれたか

2017.09.15記事「西根遺跡 焼骨の意味に関する検討」で焼骨が祭祀に関わっているだけでなく、アク抜き用添加剤という実用機能を有する材料である可能性についても検討する必要性をメモしました。

もし焼骨がアク抜き用添加剤として使われたもので、廃用土器と一緒に西根遺跡にもちこまれたものならば、焼骨は集落で作られたものであると考えることができます。

そこでもう一度詳しく発掘調査報告書を調べてみました。

次に断面図における包含層の記述を抜き出してみました。

断面図における包含層の記述抜き書き 1

断面図における包含層の記述抜き書き 2

断面図における包含層の記述抜き書き 3

骨片の記述は4カ所ありますが、そのうち3か所は「炭化物・骨片」となっていて炭化物(木片の焼け焦げ)と骨片は同時に出土することが西根遺跡では一般的であると考えられます。

「杭」の実物閲覧をした際に、「杭」と一緒に黒く焼け焦げた小木片が2-3点同封されていました。

「杭」に同封されている炭化物(木片の焼け焦げたもの 画面下の黒い小片)

骨片と焼け焦げた木片がいつも同時に出土するということは、骨片が出土した場所で骨が焼かれた可能性が濃厚であることを示していると考えることが合理的です。

なお、焼けた粘土塊も出土したと発掘調査報告書に記述があります。(場所不明、写真等の情報なし)

以上の情報から、西根遺跡では動物の骨を焼いて焼骨を作り、その場に存置した可能性が高まります。

焼骨が集落で作られ、土器とともに持ち込まれた可能性は低くなりました。

廃用土器の破壊と焼骨行為は同じ大きな活動の中の並列する小さな構成要素であるように感じられます。

さらに焼骨について検討をつづけます。

2017年9月15日金曜日

西根遺跡 焼骨の意味に関する検討

西根遺跡出土焼骨の意味について様々な可能性を検討することの必要性を感じるようになりましたので、今後の検討方向をメモしておきます。

1 焼骨出土状況
西根遺跡には7か所の土器集中地点がありますが、そのうち5カ所の土器集中地点の土器密集部に対応して焼骨(獣骨)が出土しています。


土器重量と焼骨出土の対応 例
土器重量は密集部(最大分位 赤)のみ表示
 
焼骨の量は全体で1.5㎏で、その特徴は発掘調査報告書で次のように記載されています。
1 短時間に強い熱を受けたと考えられ、色調は灰白色ないし灰黒色を呈し、変形や損傷が著しい。
2 動物相が単純である。(ほとんどがイノシシとシカ)
3 同定可能な遺存体の中に占める頭骨の割合が低い。
4 推定年齢の若い遺存体が相対的に多く同定された。

出土焼骨例 発掘調査報告書から引用

焼骨の意義について、発掘調査報告書ではつぎのように記述しています。
「当時、何らかの必要があって、若齢個体を含むイノシシおよびシカの骨を焼く習慣があった可能性は今後検討する必要がある。」

2 これまでの検討
このブログにおける西根遺跡焼骨検討(見立て)の概要は次のようなものです。
・飾り弓と焼骨が出土していて、かつ若い動物が多く、頭骨が少ない状況から、またイナウと仮説する丸木が出土していることから、イオマンテ類似祭祀が行われ、焼骨は獣肉食の跡であると考える。
(若い動物を飾り弓で射る(送る)祭祀を行い、殺した動物の頭はイナウに飾り、体部は祭祀参加者で食べ、残った骨は焼いて祭祀場中央部(土器密集部)に撒いたと空想しました。)

3 焼骨検討に関する問題意識を深めた学習
最近、焼骨に関する専門的検討文献として「西野雅人・服部智至(2016):横芝光町中台貝塚出土の動物遺体、千葉縄文研究6」を千葉市埋蔵文化財調査センター所長の西野雅人先生からいただき学習する機会を得ました。
この文献では焼骨の事例と用例について幅広く検討が行われていて、特に骨灰に関して縄文時代に活用でき得たものとして、壁や床の補強材・装飾・調湿、低地の地盤改良、肥料、灰汁抜き、獣皮処理(漬け込みで毛が抜けやすくなる)などがあるとしています。

また、次のような現代の利用例を挙げて、こうした参考情報を踏まえて骨灰について検討すべきであることが指摘されています。
骨灰(ハイドロキシアパタイト)の現代の利用例
医療:歯科治療、骨や筋肉の増強・炎症予防、人口骨、男女産み分け
食用:ベーキングパウダー、フルーツの糖度向上
工業・建築:内外装工事(防水・調湿)、研磨剤、陶磁器、重金属吸着
その他:肥料・飼料、酸性土壌中和
「西野雅人・服部智至(2016):横芝光町中台貝塚出土の動物遺体、千葉縄文研究6」から引用

焼骨とは水で洗って発掘した結果であり、焼骨の実体が骨灰であると考えると、この論文の視点つまり骨灰の物質特性に着目する視点から西根遺跡焼骨に関して検討を深める必要があります。

4 西根遺跡焼骨の意味に関する可能性
上記文献学習からインスピレーションを得て、次のような項目について検討を深めることとします。

ア 焼骨(骨灰)が動物の送りであると考える。
アイヌに灰塚があり、モノを燃やした灰も1個所に集め丁寧に送るという習俗があります。この習俗と同じで、イオマンテ類似活動の結果として食した獣の骨を灰になるまで焼いて一カ所に撒き、獣を送ったと考えます。(このブログのこれまでの見立て)

イ 焼骨(骨灰)散布により祭祀場を装飾する。
アとともに、骨灰散布により祭祀場を白く染めるという装飾効果があったかもしれません。

ウ 焼骨(骨灰)散布により祭祀場の地盤を固める。
ア、イととともに一緒にその効果を狙った可能性として、骨灰散布により祭祀場の地盤を固めて祭祀をしやすくした可能性が考えられます。

エ 焼骨がトチの実アク抜き用添加剤であった可能性
ア~イの発想と根本的に異なる焼骨(骨灰)機能の可能性として、トチの実アク抜き用添加剤であったことが考えられます。この思考はこれまで自分が見立てた遺跡意味とは大幅に異なるものです。

この可能性について次のようなイメージを持ちました。
「焼骨はトチの実アク抜き用添加剤」の可能性
●焼骨は大量骨灰の中に含まれていたと考える。
●発掘作業の水洗作業で大量灰は全て失われ、少量の焼骨のみが採取されたと考える。
●焼骨を含む骨灰は加曽利B式土器の中に入れられてトチの実等堅果類のアク抜き剤として使われた。つまり、骨灰はトチの実等を煮沸する時のアク抜き用添加剤であると考える。
骨灰の中に混じる焼骨の生焼け部分から骨髄エキスが出て、トチの実に味付けする効用も考えられる。
●アク抜き煮沸用加曽利B式土器が壊れて廃用になった時、土器底に貯まった(こびり付いた)骨灰は洗い流されることなく西根遺跡に持ち込まれた。
●土器は全て破壊されるので、土器内部の骨灰は土器周辺に飛び散り土器と一緒に堆積したような層相(骨灰が撒かれたような層相)がうまれる。
●トチの実アク抜き作業は集落で行われたので、アク抜き剤としての骨灰(焼骨)も当然ながら集落でつくられた。

この可能性をもし仮説として採用すると、これまでの自分の見立てとは大きく異なるので、自分の作ったストーリーに様々な不都合が生れます。

焼骨の根本意義を祭祀に置くかつまりア、イ、ウで考えるか、それとも主食生産用添加剤として見るかつまりエで考えるか、大きな岐路に立たされてしまいました。

この岐路を越えると、自説の正しさにますます自信を深めるか、自説を放棄する苦しみ(恥ずかしさ)と引き換えに新たな価値を社会に提供できるような仮説を構築できるかのどちらかが待っていると期待します。ワクワク、ドキドキです。

じっくり学習を深めて行くつもりです。

……………………………………………………………………
追記 2017.09.17
「焼骨はトチの実アク抜き用添加剤」の可能性についてワクワク、ドキドキしながら焼骨について検討をはじめたのですが、検討を始めたとたんにその可能性は無くなりました。
2017.09.16記事「西根遺跡 焼骨はどこで焼かれたか」参照

自説の正しさにますます自信を深める結果となりました。
2017.09.17記事「西根遺跡 焼骨出土状況の詳細とその考察」参照

自身の内部で密かに期待した(?)どんでん返しがなくなり、寂しい(?)気持ちもありますが、「添加剤説」が一種の触媒となって自分の思考を刺激し活性化させています。

自説の正しさに自信を深めることができたことは良いことです。

2017年9月4日月曜日

西根遺跡 古墳時代のみ戸神川に可動堰が作られた理由

2017.09.03記事「西根遺跡 弥生時代以降における縄文土器露出状況」の検討副産物を記事にします。

次の図は時代別流路の断面図を例示したものです。

時代別戸神川流路の深さ

流路2(古墳時代前期以前)と流路3(古墳時代前・中期)の深さが大きく、また断面自体も大きくなっています。
戸神川の浸食力が大きく、極端にいえば沖積低地が河岸段丘のようになっている様子がわかります。

時代前後の流路1(縄文時代)や流路4~6・7は極浅い流路となっています。

この現象はいわゆる「弥生の小海退」に対応する地象であると考えます。
このような戸神川浸食力増加時期があったため、その期間に水田耕作する人々は戸神川に可動堰を作ったと考えます。
戸神川の浸食力が衰え、流路の深さが浅くなれば、可動堰は必要なくなり、自然流下で水田に水を引くことができます。
古墳時代にのみ戸神川に可動堰がつくられた理由は「弥生の小海退」の影響によるものであると考えます。

参考 古墳時代(流路3)可動堰
「印西市西根遺跡-県道船橋印西線埋蔵文化財調査報告書-」(平成17年)から引用

2017年9月3日日曜日

西根遺跡 弥生時代以降における縄文土器露出状況

2017.09.01記事「西根遺跡と小字「西根」」で次の文章を書きました。

「古代人は西根遺跡空間付近で破壊縄文土器の圧倒的な露出風景を見ているでしょうから、その光景をみて「根の国」「黄泉の国」を想像したかもしれないと空想しています。」

古代人が戸神川光景を見て「根の国」を想像したかどうかは今は空想の段階です。
しかし、「古代人は西根遺跡空間付近で破壊縄文土器の圧倒的な露出風景を見ている」ことは確認できるので、GISにおける地図のオーバーレイによるデータを作成して確認してみました。

時代流路毎に見た縄文土器露出の可能性が高い場所

縄文土器分布図と時代毎流路を重ね合わせ、流路が縄文土器分布と重なった部分を抽出しました。断面図を参考に考察すると、流路2、流路3、現河川では抽出ケ所全てでほぼ確実に縄文土器が露出し、流路4、流路5、流路6では抽出した場所の多くのところで縄文土器露出が存在したと把握できます。

参考 西根遺跡の土器検出状況
「印西市西根遺跡-県道船橋印西線埋蔵文化財調査報告書-」(平成17年)から引用

2017年9月1日金曜日

西根遺跡と小字「西根」

印西市小字「西根(ニシネ)」の位置を確かめると次のようになります。

印西市小字「西根(ニシネ)」

この分布範囲と西根遺跡との位置関係をGISで確かめると次のようになります。

西根遺跡と小字「西根(ニシネ)」

さて西根の語源はどのようなものでしょうか?
私は西根遺跡の学習の中で次のような仮説を1回メモしました。

1 西根の語源 仮説1
……………………………………………………………………
戸神川沖積地の左岸サイドに「西根」があります。
西根の東側は船尾白幡遺跡の中心拠点(Dゾーン)が控えています。
また西根遺跡から多数の出土物がみつかり、西根遺跡付近が船尾白幡遺跡のミナトであり、祭祀の場であることもわかってきています。
このような情報から、小字「西根」の意味を次のように想像します。
船尾白幡遺跡が新規開発地として建設された時、その西側に位置する戸神川低地は開発地(集落)と外部を結ぶ重要なミナトであり、そのミナトを通じて船尾白幡遺跡は外部とつながっていました。
つまり船尾白幡遺跡からみると、地先の戸神川低地は西側に伸びる根のような存在であったと考えます。
船尾白幡遺跡からみて地先戸神川低地は自らの根元の部分に当たると考えて、「西根」という地名が生まれたと考えます。

参考 印西町字界図(昭和63年印刷)平成13年4月印西市復刻
……………………………………………………………………
参考
ね【根】
1 〖名〗
二 物の基礎となり、それを形づくる根本となる部分。ねもと。つけね。
① 生えているものの下部。毛、歯などの生えているもとの部分。
*万葉(8C後)四・五六二「いとま無く人の眉(まよ)根(ね)をいたづらに掻かしめつつもあはぬ妹かも」
*あきらめ(1911)〈田村俊子〉七「頭髪の根が痛くって仕様がないよ」
② 立っているものが、地に接する部分。ふもと。すそ。
*書紀(720)神代上(兼方本訓)「譬ば海(うな)の上(うへ)に浮(うか)べる雪の根(ネ)係所(かかること)無(な)きが猶し」
*真景累ケ淵(1869頃)〈三遊亭円朝〉五一「手水鉢(てうづばち)の根に金が埋めて有るから」
『精選版 日本国語大辞典』 小学館から引用
……………………………………………………………………

2 西根の語源 仮説2
西根遺跡の学習を深めるなかで奈良・平安時代の水辺祭祀だけでなく、縄文時代こそ最も活発な水辺祭祀が行われていたことを学習しました。
そして縄文時代水辺祭祀がその後の弥生・古墳・奈良平安時代に少なからず影響を与えたようだという印象を持つにいたりました。
このような学習進行のなかで、西根の語源を次のように仮説します。

西は印西の西と同じで印旛浦の西側という意味です。
根は「つけね」「ふもと」「すそ」という意味合いであり、西根は印旛浦の西にある「付け根」という意味合いになると考えます。
西根遺跡の空間が古代人にとって遠い昔から(原始時代から)伝わってきた祭祀空間であることから、つまり印旛浦の西にある信仰上の拠点空間であることから、西根という地名が生まれたと考えます。

なお、根が「根の国」(ニライカナイ)と関係するのかどうか、さらに検討していくつもりです。
古代人は西根遺跡空間付近で破壊縄文土器の圧倒的な露出風景を見ているでしょうから、その光景をみて「根の国」「黄泉の国」を想像したかもしれないと空想しています。

西根という地名はおそらく古墳時代か奈良平安時代につくられたと想像します。

2017年8月31日木曜日

西根遺跡と印西市小字「中峠(ナカビョウ)」

印西市船尾に中峠(ナカビョウ)という小字が開発前にありました。

印西市小字「中峠(ナカビョウ)」

下総と上総に多い、峠・票・俵などと書いてビョウ、ヒョウ、ビヨ、ヒヨと読ませる地名について柳田國男が検討していることは有名であり、地境の標が起源で目印の立木であり、標は注連縄のシメと同じであると論じています。

印西市船尾の中峠(ナカビョウ)は集落と集落の境の峠(分水界)を連想させるような地勢ではありません。

印西市船尾の小字中峠(ナカビョウ)と西根遺跡との位置関係をみると次のようになります。

西根遺跡と小字「中峠(ナカビョウ)」

私は西根遺跡に祭壇としての立木(生木ではない白木、イナウ、注連縄のある棒)が縄文時代から中近世まで存在していて、古代かあるいは中近世のある時代に地名「中峠(ナカビョウ)」がつけられたのではないかと空想しています。

西根遺跡にはいつの時代にも戸神川谷津を境するような標(イナウ、注連縄のある棒)があり、空間を境していたと空想します。
その標(イナウ、注連縄のある棒)を管理するような集落があった場所が小字「中峠(ナカビョウ)」です。

2017年8月30日水曜日

聖地空間としての西根遺跡 土器塚学習9

1 西根遺跡は低地水場堅果類加工場に関連するか?
西根遺跡は、縄文時代後期技術革新としての低地水場堅果類加工場に関連する現象であるとする見立てがあります。
……………………………………………………………………
こうした技術革新を反映する現象の一つとして、低地の水場における堅果類の加工場の出現を考えることができる。
印旛沼沿岸では印西市西根遺跡、霞ケ浦沿岸では陣屋敷低地遺跡などのムラから離れた低地からの粗製土器の大量出土例などがこれに関連する現象と考えられる。」「阿部芳郎(2002):遺跡群と生業活動からみた縄文後期の地域社会、縄文社会を探る(学生社)」から引用
……………………………………………………………………
この見立てを検証するために低地水場堅果類加工場の例を赤山陣屋跡遺跡を例に、いくつかの資料により学習してみました。

赤山トチの実加工場復元図
「縄文社会を探る」(学生社)から引用

赤山トチの実加工場関連遺跡
「縄文社会を探る」(学生社)から引用

赤山陣屋跡遺跡の例では湧水を利用した谷頭低地の加工場そのものからの土器多量出土はないようです。
多量出土しているのは加工場を利用した台地集落遺跡からのようです。

この学習で、低地加工場ができて主食増産が可能になった様子はよくわかりますが、それにより低地で土器が多量に出土する条件はみつかりませんでした。

低地加工場ができればその近辺低地で土器が多量に出現する条件が生まれるという考えは専門家の説にも関わらずその根拠を探せません。
さらに万が一根拠があるにしても西根遺跡では低地加工場が出土していないばかりか、その条件も希薄ですから、西根遺跡は低地加工場とは無関係の遺跡であると考えます。
2017.08.25記事「低地水場の堅果類加工場 土器塚学習5」参照

西根遺跡は土器送り場プロパーの遺跡であり、一種の聖地空間であったと想像します。
台地集落の土器塚とは別に、水辺空間を利用した低地の祭祀遺構としての土器塚(といっても塚は形成されないで平面展開する土器集積)という新たな類型を想定する必要があるのだと思います。

水田耕作と無関係の縄文時代においても、ある条件下の水辺空間(景観)を神聖視する思考があった可能性について興味を持ちます。

「縄文社会を探る」(学生社)を読むと寿能泥炭層遺跡(さいたま市)など西根遺跡と同じ出自かもしれないと感じる低地遺跡の名前が多く出てきていて、発掘調査報告書を入手して読んでみたくなりました。

2017年8月29日火曜日

土器破壊(土器送り)のポジティブさ 西根遺跡のポジティブさ 土器塚学習8

土器塚学習を進めてきて、自分の考えが大いに変化しました。

精細な土器塚観察を行っている阿部芳郎さんの諸論文を読んで、土器塚、西根遺跡土器集中がトチの実など主食堅果類の収穫祭の跡であると気が付きました(仮説しました)。
学習した諸論文にはそのような仮説は全く書いてないのですが、自分が気が付いた(仮説した)ということです。

この仮説を持つことにより、土器破壊(土器送り)のポジティブさ、西根遺跡のポジティブさを強く感じるようになったのでメモしておきます。

土器破壊という土器送り(壊れた土器、持ち主がいなくなった土器を破壊することにより土器の精霊を土器から解放する行為)はこれまでネガティブな印象で捉えていました。

土器破壊という縄文時代土器送りの影響が現代まで伝わっている民俗の一つに、自宅から出棺する際の茶碗割りがあります。葬送とも結びついた民俗であり、自分にとってはネガティブな印象の知識になります。

土器破壊(土器送り)が行われる場所は、必ずそれにふさわしい空間そのものを送る場所でもあります。なにもない野原で土器送りをすることはあり得ません。
廃絶炉穴における土器送り、廃絶竪穴住居における土器送り、廃絶ミナトにおける土器送りなどの対応が必ず存在することが必然です。
このようにこれまで思考してきました。

ところが土器送り(土器破壊)が収穫祭の一環で行われた祭祀行為であると気が付くと、同じ事象が全てポジティブに捉えられるようになります。

廃用土器を破壊して土器の精霊を解放する行為があるならば、必ずやその背後に既にその廃用土器の代わりの新品土器が存在していることを意味します。廃用土器より大きくて高機能な土器に違いありません。
つまり土器破壊とはその土器以上の高品質土器の可能性のある新品土器が既につくられていて稼働していることを物語っています。
土器破壊とは「土器が破壊されてむなしい」というネガティブな連想ではなく、「新品土器が用意された」というポジティブな連想で捉えるべきものであるのです。

土器破壊(土器送り)が行われる廃絶施設(空間)についても同じことが言えます。
土器破壊(土器送り)が行われた廃絶炉穴は、別に新設炉穴が建設されたから古い炉穴を廃絶し、その祭祀として土器破壊(土器送り)をしたのです。
壊れた土器が出土する炉穴の背後には新設炉穴の活用と新品土器による食物加工調理活動が実在するのです。
廃絶竪穴住居における破壊土器出土も同じです。その出土情報から(故人に関連する新家族の)新竪穴住居と新品土器を使った主食加工調理活動の実在を読み取ることができるのです。
廃絶ミナトにおける破壊土器出土も(つまり西根遺跡も)、その出土情報から新設ミナトの活用と新品土器による堅果類主食化活動の実在を読み取ることができるのです。

捉えた事象は同じも、ネガティブな印象で語るのと、ポジティブな印象で語るのでは、ほとんど正反対の仮説になります。

西根遺跡(縄文時代)学習用作業仮説として「ミナト施設送りとしての土器送り・イオマンテ」を書いてきましたが、この表題をポジティブに説明し直すと、「廃絶ミナト送りとしての土器送りによる新ミナト設置のお祝いと収穫祭」ということになります。

西根遺跡は新たにミナトが設定された(生まれた)お祝いを兼ねた収穫祭が本質ですが、表面は廃絶ミナト送りや土器送りです。

西根遺跡の土器出土状況
「印西市西根遺跡-県道船橋印西線埋蔵文化財調査報告書-」(平成17年)から引用
この破壊土器と同じ数の新品土器が集落で既に使われていた

2017年8月28日月曜日

集落外縁帯に1集落1カ所立地する土器塚の意味 土器塚学習7

図書「千葉県の歴史 資料編 考古4 (遺跡・遺構・遺物)」(千葉県発行)の「土器塚」の項の学習の一環として文献「阿部芳郎(2012):縄文後期の集落と土器塚-「遠部台型土器塚」の形成と加曽利B式期の地域社会-、人類史と時間情報~「過去」の形成過程と先史考古学~(雄山閣)」を学習しました。

人類史と時間情報~「過去」の形成過程と先史考古学~(雄山閣) 箱

土器塚と西根遺跡の出自を考える上で多くの知識とヒントを得ることができましたのでメモしておきます。

1 集落外縁帯に1集落1カ所立地する土器塚
この文献では1新貝塚と「米沢村の土器塚」、2佐倉市遠部台遺跡の土器塚、3江原台遺跡(曲輪ノ内貝塚)の土器塚、4吉見台遺跡の土器塚、5井野長割遺跡の土器塚について事例を検討しています。

印旛沼南岸の後晩期集落
「阿部芳郎(2012):縄文後期の集落と土器塚-「遠部台型土器塚」の形成と加曽利B式期の地域社会-、人類史と時間情報~「過去」の形成過程と先史考古学~(雄山閣)」から引用

そして、次のような興味ある分析を行っています。
土器塚が谷奥型環状遺丘集落を構成する単位と目されるマウンドに付随して形成された井野長割遺跡を代表例として、遠部台型土器塚のすべてが環状構造の外縁帯に付随するようにして、1集落に1ヵ所のみが形成されるという規範は、土器塚を遺跡形成との関わりで考える際に見事に一致している重要な事実である。筆者はこれらのマウンドは、継続的な居住活動の累積の結果に形成された居住集団の単位的な生活痕跡の累積と考えている(阿部ほか2004)。したがって、土器塚の形成は集落構成員のなかでも、とくに限定された居住集団によって維持管理されていたものと考えたい。甲野勇がかつて想定した「土器作りのムラ」とも関係するが、土器という容器製作を統制する特定集団の存在を、土器塚に近接した遺丘を形成した集団が担った可能性を指摘したいのである。
「阿部芳郎(2012):縄文後期の集落と土器塚-「遠部台型土器塚」の形成と加曽利B式期の地域社会-、人類史と時間情報~「過去」の形成過程と先史考古学~(雄山閣)」から引用

1集落1カ所の土器塚分布から、土器塚を維持管理したのが土器づくりに関わる集落内特定集団であると考察しています。
私は集落リーダー家族(集団)がアク抜き技術ソフトとそれに使う土器づくりハードを担っていたと学習してきましたから、上記考察は学習結果とよく整合します。
2017.08.27記事「土器破壊の意味…収穫祭 土器塚学習6」参照

さて、この図書では何故土器塚が作られたのか、土器塚とはそもそも何者であるのか、一切説明がありません。
考古論文・資料を読んでいていつもぶつかる不思議にこの図書でもぶつかりました。
著者にそのイメージが無いはずはありませんが、不確かなことを書くことは科学ではないということだと思います。

私は上記記事で、土器破壊は主食確保を祝う収穫祭における丁寧な道具送りであると考えました。
土器塚が収穫祭の跡を示す遺構であるとすれば、それが集落1カ所に限定されその主催者が集落リーダー家族であることは当然です。

さて、私が次に興味を持つのは集落外延帯に土器塚が立地するという特性ですので、交通との関係から次項で検討します。

2 集落外縁帯立地と交通との関係
土器塚がどこでも集落外縁帯に立地している意味はこの図書では記述されていません。
また、土器塚が道路と深いつながりがあることも述べられていません。
しかし、大きな意味がその位置と道路存在に隠されていると考えます。

2-1 遠部台遺跡土器塚の集落立地位置と道路
以前の記事で遠部台遺跡土器塚が交通と深いかかわりがることを考察しました。

「図10 遠部台遺跡地形測量図(阿部他2000b)」書き込み図
原図は「阿部芳郎(2002):縄文土器の集中保有化現象と遺跡形成に関する研究、明治大学人文科学研究所紀要 第50冊1-34」から引用
2017.08.24記事「印旛沼舟運と土器塚 土器塚学習4」参照

さらに、「千葉県の歴史 資料編 考古4 (遺跡・遺構・遺物)」(千葉県発行)の「土器塚」の項(執筆者 阿部芳郎)には、この遠部台遺跡土器塚の下部から道路遺構(東西方向)が出土した旨記述があります。この土器塚が印旛沼へ抜ける道路を含む交通の要衝(交差点?)に存在していたことは確実です。そしてその位置が集落外縁帯です。

2-2 井野長割遺跡土器塚の集落立地位置と道路
井野長割遺跡土器塚も集落外縁帯に立地し、道路(交差点?)に面しています。

井野長割遺跡の立地と土器塚の位置
「阿部芳郎(2012):縄文後期の集落と土器塚-「遠部台型土器塚」の形成と加曽利B式期の地域社会-、人類史と時間情報~「過去」の形成過程と先史考古学~(雄山閣)」から引用

交差点から西へ向かう道路は他の資料をみると近くのより規模の大きな谷津方面へ向かっていて、印旛沼と結んでいる可能性があります。

2-3 土器塚が集落外縁帯の道路(交差点?)に立地する意味
土器塚とはそもそも土器を使った主食確保を祝う収穫祭における廃用土器の丁寧な道具送り跡であると考えます。
この考えから次のような意味を仮説します。

ア 集落外縁帯立地の意味
集落集団、あるいは近隣分家集落を含めた集団だけの収穫祭ならば、その場所を集落の外縁にもってくことは考えづらいことです。マウンドや竪穴住居のあるゾーンの内側に存在することが合理的です。
大膳野南貝塚の学習では集落の共同作業場などは竪穴住居ゾーンの内側にありました。
生業作業は内側で行うけれども、収穫祭の場所を竪穴住居ゾーンの外側に持っていくことの理由は、その祭祀が集落集団だけのものではないからだと思います。
家族の健康を祈願するような祭祀は竪穴住居でおこなわれたと考えますが、収穫祭は集団だけのものではなかったと考えます。

イ 道路(交差点?)立地の意味
道路(交差点?)立地の意味は集落外縁帯立地よりもより直接に、収穫祭祭祀が集団以外の外者と深く関係していることを物語っていると考えます。

ウ 収穫祭が贈与関係に基づく祭祀であるとする仮説
次のように仮説します。
縄文時代収穫祭は集落集団(近隣分家集団も含めて)だけでそれを祝うことはあまりにも利己的であり到底許されなかったのだと思います。
近隣や遠方からさまざまな贈与を集落は得て存立していたと考えます。東京湾の貝、村田川流域付近で獲れる獣肉、…翡翠、…。
そうした贈与関係のなかで行う収穫祭では近隣や遠方から多くの人を招いて、いわば公開された祭祀を行ったのだと仮説します。
堅果類主食が1年分賄えるお祝いを近隣・遠方の贈与関係者を招いて行い、宴会を行い、イオマンテを行い、帰りには沢山のお土産を招待者にもたせたと想像します。
そのお祭りの一環として廃用土器を壊して土器送りしたと考えます。
このように仮説すると、祭祀会場は集落内部ではなく集落近くの広い会場で、交通の便のよいところになります。

2017年8月27日日曜日

土器破壊の意味…収穫祭 土器塚学習6

図書「千葉県の歴史 資料編 考古4 (遺跡・遺構・遺物)」(千葉県発行)の「土器塚」の項の学習の一環として文献「阿部芳郎(2002):遺跡群と生業活動からみた縄文後期の地域社会、縄文社会を探る(学生社)」を学習しました。

1 粗製土器はアク抜きなどの食料加工道具
その中で粗製土器は食料加工の道具であることを学びました。
2017.08.25記事「低地水場の堅果類加工場 土器塚学習5」参照

これまで粗製土器で煮炊きをしていたことは漠然と知っていましたが、この図書で粗製土器が「下ごしらえ用」の土器であることに意識が向き、著者が編集している図書「考古学の挑戦」(岩波ジュニア新書)や「千葉県の歴史 通史編 原始・古代1」(千葉県)などの関連する部分を読んでみました。

考古学の挑戦(岩波ジュニア新書)

これらの図書を読んで加曽利B式土器が集落人口を養う主食を賄うための堅果類アク抜き装置であることを知りました。
トチの実をはじめ各種ドングリをそれぞれの方法でアクを抜くときの重要なステップにおける煮沸用容器が加曽利B式土器です。
「秋に一斉に実を落とす堅果類を一度に加工して、大量にアク抜きなどの下ごしらえを行なうという集約的な食料加工」(阿部芳郎、縄文社会を探る)で使われたのが加曽利B式土器で、そのうちおおきなものは70リットルにもなります。

西根遺跡出土大型粗製加曽利B式土器(容量69.7リットル)千葉県教育委員会所蔵
・第4集中地点
・壺A3
・口径35.7㎝、底径8.8㎝、器高74.1㎝、重量12.2㎏、容量69.7l
・残存度90%
・被熱、底面外面下端が摩滅

2 粗製土器破壊の意味…収穫祭
1の学習をしていて、突然自分の思考が変化しました。得た各種知識を自分なりに統合した瞬間があったということです。
思考の変化は一挙に全体的に生まれたのですが、それを文章にすると長くなるでしょうから、箇条書きにして記録します。

・粗製土器を使ってトチの実など堅果類をアク抜きして食料をつくることは、それで主食を生み出すのだから、縄文人が生きてゆきさらに繁栄するためには最重要活動であった。
・トチの実などの収穫はやさしいことであったが、アク抜き技術は当時のハイテク技術であり、専門的活動であった。
・アク抜き技術というハイテク技術(ソフト技術)は粗製土器づくり(ハード技術)と結びついた専門的な技術であった。
・収穫した多量のトチの実などのアク抜きによる食糧化は労働集約的であり、一族郎党が集団で取り組んだ。(狭い意味での集落を越えて広域的な労働作業だった。)
・アク抜き技術(ソフトと土器づくり)と一時的労働集約活動を担ったのは一族郎党のリーダー(頭領)であった。主要集落のリーダーがそれに該当する。
・夏から秋にかけて多量のトチの実などを収穫し、粗製土器をつかって新実によるおいしい食糧を食べられるようになった段階で、縄文人は収穫祭を行った。
・収穫祭では壊れた粗製土器にそれまでの効用を感謝してそれを破壊し土器の精霊を解放した(土器を送った)。
・破壊した土器は祭場近くに積み上げた。(土器塚)
・収穫祭ではご馳走の獣肉などもふるまわれた。(獣骨出土…西根遺跡)
・収穫祭会場や土器塚には祭壇(イナウ)が設けられていた。(イナウ出土…西根遺跡)
・収穫祭は一族郎党リーダーが取り仕切り、一族郎党が参加した。(主要集落で収穫祭が行われ、周辺集落からも参加した)

このように考えると土器塚や西根遺跡の土器集中の意味を自分なりに合理的に捉えることができます。
土器塚や西根遺跡土器集中は収穫祭の跡であったという思考です。
粗製土器が食糧増産ハイテク技術の一環であることから特別視され、壊れたものは丁寧に破壊された(送られた)という思考です。

土器塚や西根遺跡土器集中における破壊された土器片現物の背後には、それに代わる既に稼働している新品粗製土器の存在を見る(透視する)ことができます。新品粗製土器で多量のトチの実などをアク抜きして食料増産している集落の姿も見る(透視する)ことができます。

破壊された土器片の大量出土が主食確保収穫祭の跡であると考えると、土器塚の解釈は土器塚が集落にあるのでそれで出来そうです。
一方、西根遺跡では集落から離れているのでその解釈は単純ではありません。
西根遺跡ではこれまでミナト廃絶祭祀、翡翠入手と関連付けて考えてきていますが、土器破壊が収穫祭-ミナト廃絶-翡翠入手というストーリーになるか、じっくり検討します。

土器塚はローカルな収穫祭跡、西根遺跡は印旛浦広域の収穫祭跡という収穫祭の階層性も検討視野に入ります。


2017年8月25日金曜日

低地水場の堅果類加工場 土器塚学習5

図書「千葉県の歴史 資料編 考古4 (遺跡・遺構・遺物)」(千葉県発行)の「土器塚」の項の学習の一環として文献「阿部芳郎(2002):遺跡群と生業活動からみた縄文後期の地域社会、縄文社会を探る(学生社)」を学習しました。

縄文社会を探る(学生社)

1 粗製土器は食料加工の道具
この文献を読んで西根遺跡の意義を考える上で大いに参考になった多くの事柄の内1点は粗製土器が食料加工の道具だったという点です。
わたしは粗製土器とよばれる大形の煮沸容器の主な用途は、かれらの主食であるドングリなどの堅果類を一度に集中して煮沸加工する「下ごしらえ用」の土器であったと考えている(阿部1996)。粗製土器が生まれ、そして大量に消費された加曽利B式期には、主食の加工作業にかかわる一大変革が起こった。それは秋に一斉に実を落とす堅果類を一度に加工して、大量にアク抜きなどの下ごしらえを行なうという集約的な食料加工が、道具づくりの次元にまで反映したことを示すのである。
「阿部芳郎(2002):遺跡群と生業活動からみた縄文後期の地域社会、縄文社会を探る(学生社)」から引用
この文献から縄文時代後期(加曽利B式土器期頃)の社会の様子が詳しく伝わってきます。

2 低地水場の堅果類加工場
同時にこの文献では西根遺跡などを低地水場の堅果類加工場と関連付けています。
上記引用文に続いて次のように記述しています。
こうした技術革新を反映する現象の一つとして、低地の水場における堅果類の加工場の出現を考えることができる。
印旛沼沿岸では印西市西根遺跡、霞ケ浦沿岸では陣屋敷低地遺跡などのムラから離れた低地からの粗製土器の大量出土例などがこれに関連する現象と考えられる。この新たな道具とそれを用いる食物加工システムが、海のない地域での群集的なムラの成り立ちを支えたのである。もちろんそれ以前の時期にも、この地域が無人の地であったというわけではなく、中期以来の人々の生活がつづいたという点を重要な事実として認めつつも、関東西南部地域などでは遺跡数の極端な減少が起こるこの時期に、その存続と更なる遺跡数の増加をこうした技術革新が支えたのである。そして土器塚の形成をもう一つの具体的な証拠と考えることはできないだろうか。
「阿部芳郎(2002):遺跡群と生業活動からみた縄文後期の地域社会、縄文社会を探る(学生社)」から引用 太字は引用者

西根遺跡そのものからは堅果類加工場を想起させる遺構は出土していません。
従って、著者は西根遺跡そのものではないが、同じ谷津のどこか近くに堅果類加工場があり、そこにおける生産活動で廃用になった土器を西根遺跡で廃棄したと推察しているようです。

素人の一市民がその分野の専門学者の見立てに異議を唱えるのもいかがなものかとは思いますが、西根遺跡が低地堅果類加工場と関連しているとの説は悪筋であると考えますので、その理由をメモしておきます。

ア 水場施設に不向きな地勢
西根遺跡の土器集中地点は300年間の間の海退に伴い、上流から下流に向かって直線距離約190m移動していますが、この間の流路にアク抜き遺構などは見つかっていません。
またこの付近はその時々の海の河口近くに位置しますから「流水」で晒すような活動には不向きです。
当時の地勢からみて戸神川谷津のどこかに水場堅果類加工場があるという想定は困難です。

イ 専門加工場利用土器とは考えられない種類の多様性
土器種類が多様であり、水場堅果類加工場で行われたある程度専門的な煮沸加工行為で使われた規格性のある土器という印象をもつことは困難であると考えます。
集落内で日常的に使われた土器が全て持ち込まれたという印象を受けます。
特に漆パレットとして使われた土器も出土しますから、煮沸加工場から持ち込まれたというよりも日常生活が営まれた集落から西根遺跡に持ち込まれたと想定できます。

ウ 母集落との地理的位置関係が極めて不自然
仮に戸神川谷津に水場加工施設があったとすると、その施設を作った母集落はどこかにあるはずです。
その母集落を両岸台地にある鳴神山遺跡や船尾白幡遺跡に見つけることは、遺跡規模から想定できません。想定できるのは印旛沼対岸の佐山貝塚や神野貝塚などになります。
印旛沼南岸の集落が印旛沼を渡ってわざわざ北岸の戸神川谷津に生業施設としての水場堅果類加工場を求めることは地理的位置関係として大変不自然です。あり得ないと考えられます。

以上の理由から西根遺跡は水場加工施設とは関係しない遺跡であると考えます。

3 参考 陣屋敷低湿地遺跡
上記引用文に西根遺跡とともに水場加工施設と関連する遺跡として霞ヶ浦沿岸の陣屋敷低湿地遺跡が出てきます。
この遺跡の報告書は全国遺跡報告総覧でダウンロードできます。

全国遺跡報告総覧のトップページ

ダウンロードした陣屋敷低湿地遺跡発掘調査報告書

この報告書をざっと読むと、この遺跡からも水場加工施設は出土していません。
一方この遺跡の置かれた場所と遺跡様子が西根遺跡と酷似します。
縄文海進で谷津の奥まで浸入した海が退いていった後の谷底に、数か所の焚き火の跡とともに、縄文時代後期(約3500年前)の土器が大量に捨てられていました。非常に特異な遺跡であり、出土した土器は「粗製土器」とよばれる簡素な土器で、しかも全て破片で出土し、石器等の他の生活道具はほとんど出土しませんでした。
広報「みほ」2012.04から引用

陣屋敷低湿地遺跡も縄文時代霞ヶ浦水上交通と関係したミナト廃絶に関わる祭祀遺跡かもしれません。
「阿部芳郎(2002):遺跡群と生業活動からみた縄文後期の地域社会、縄文社会を探る(学生社)」がいう「低地の水場における堅果類の加工場の出現」と関連付けるイメージは持てませんでした。

2017年8月24日木曜日

印旛沼舟運と土器塚 土器塚学習4

図書「千葉県の歴史 資料編 考古4 (遺跡・遺構・遺物)」(千葉県発行)の「土器塚」の項の学習の一環として文献「阿部芳郎(2002):縄文土器の集中保有化現象と遺跡形成に関する研究、明治大学人文科学研究所紀要 第50冊1-34」を学習しています。
この文献で興味を持った点は2点あり、1点は土器の砕片化と集積ブロックに関する現場実証的検討です。この興味は2017.08.23記事「土器破壊行為と運搬投棄 土器塚学習3」で書きました。
もう1点は土器塚の空間的位置関係です。
土器塚の集落空間内位置関係に関する考察はこの論文では行われていなようです。しかし、掲載されている図面からかなり明白な情報が読み取れるので興味を持ちました。

1 遠部台遺跡土器塚と交通
論文に掲載されている「図10 遠部台遺跡地形測量図(阿部他2000b)」をみると土器塚が台地から印旛沼に続く小谷津に位置していることがわかります。
この小谷津は付近の地形から判断して台地集落と印旛沼を結ぶ主要道路であったことは付近に印旛沼と台地を結ぶ地形が他にないので確実です。

そこで、中学で習った幾何学補助線のような観点から台地と印旛沼を結ぶ道路を「図10 遠部台遺跡地形測量図(阿部他2000b)」に書き込むと次のようになります。

「図10 遠部台遺跡地形測量図(阿部他2000b)」書き込み図
原図は「阿部芳郎(2002):縄文土器の集中保有化現象と遺跡形成に関する研究、明治大学人文科学研究所紀要 第50冊1-34」から引用

この図を見ると、土器塚が台地集落の端の印旛沼に降りる出口(印旛沼から集落にやってきた時の集落入口)に位置していることが読み取れます。

土器塚は印旛沼舟運と何らかの関わりがあると考えることが、何も考えないよりも合理的な思考であると考えます。

土器塚(が象徴する土器破壊祭祀)は交通(印旛沼舟運)と関わっていて、広域コミュニケーションネットワークの中で存在していたことがしのばれます。

なお、西根遺跡でイメージした「現代風に考えれば神社みたいなもの」というイメージを遠部台遺跡土器塚にあてはめてみると、違和感は生まれません。

西根遺跡にかんする空想では、西根遺跡が手賀沼方面交通との関わりが明白ですから、手賀沼のさらに先の東北や北陸との関係まで夢想しましたが、遠部台遺跡土器塚ではどのような空想・夢想が可能であるか興味が深まります。

2 参考 戦前の台地道路
25000分の1旧版地形図に調査地点位置図を重ねると次のようになります。

旧版地形図と遠部台遺跡における調査地点位置図のオーバーレイ

このオーバーレイ図をみると思考補助線として書き込んだ縄文時代道路と同じ場所で戦前の道路(点線)が台地から印旛沼低地に降りている(低地から台地に上っている)ことが確認できます。
縄文時代から現代までこの場所は台地と印旛沼を結ぶポイントだったのです。

2017年8月23日水曜日

土器破壊行為と運搬投棄 土器塚学習3

1 文献「阿部芳郎(2002):縄文土器の集中保有化現象と遺跡形成に関する研究」の学習
図書「千葉県の歴史 資料編 考古4 (遺跡・遺構・遺物)」(千葉県発行)の「土器塚」の項とそこに掲載されている参考文献を使って土器塚の学習を始めています。

参考文献の多くが千葉県内図書館には収蔵されていないので、うまく都合がついたこともありて国会図書館で資料を閲覧しました。
参考文献リストには掲載されていないのですが、「阿部芳郎(2002):縄文土器の集中保有化現象と遺跡形成に関する研究」をみつけ、学習しました。著者は図書の「土器塚」の項執筆者ですから、より新しい情報を入手できたと思います。
この論文では遠部台遺跡について精査しています。
この論文学習により有益なヒントを2つ得ることができましたので、以下メモします。

2 土器破壊行為と運搬投棄
論文では土器塚の土器集積について詳しく検討していて、私は次の2つの観察に基づく概念に興味をいだきました。
2-1 土器の砕片化
最初に縄文土器は人為的に砕片化されている場合が多いことを述べています。

・土器が道具としての機能を消失するにいたる、使用あるいは保管の途上における土器の破損を一次破損と仮に定義する。
・多くの遺跡から発見される縄文土器は、その大半が二次的な破損の結果であることを示唆している。
・縄文土器の多くが小さな破片となって、さらにその破片にいたる経過には、自然的な要因によるよりも、多分に人為的な要因による破片化の過程が関与している場合がある。これを砕片化と呼ぶ。

2-2 集積ブロック
遠部台遺跡土器塚の観察から集積ブロックという概念を導いています。

・夥しい土器層の内部は、個々の土器片の傾きや集中の度合いからみると、土器層は、大人が一抱えほどの量のまとまりから成り立つことで、これを仮に集積ブロックと呼んだ。それらは、さらに水平に数枚の土器片を重ねたまとまりや、垂直に数枚の土器片を立てたものなど、いくつかの違いを認めることができることである。

集積ブロックの説明写真
「阿部芳郎(2002):縄文土器の集中保有化現象と遺跡形成に関する研究」から引用

3 考察
3-1 遠部台遺跡と西根遺跡の違い
大人が一抱え程度の集積ブロックから遠部台土器塚が構成されていることが論文の記述から分かります。
大変興味ある概念です。
土器が人為的に破壊されて土器塚に集積ブロックを単位として持ち込まれたという様子がわかりました。
そして、西根遺跡における土器集中は発掘調査報告書の記述や写真等からこのような集積ブロックではないと直観できます。
西根遺跡の土器復元率の方が遠部台土器塚よりはるかに良いようです。

3-2 遠部台遺跡と西根遺跡の違い理由 利用できる空間の余裕
遠部台遺跡土器塚と西根遺跡土器集中域の違いから土器破壊の様子が色々と考察できる可能性があります。
次のような想定をメモしておきます。

・遠部台遺跡土器塚
既にその場所に土器塚があるので、土器塚脇で土器を壊し、一抱えした土器破片を土器塚に人力で持ち込み(運搬)、適当な場所に投げた(投棄)。運搬といってもたかだか数メートルだったのかもしれません。

・西根遺跡
姿を残す廃用土器を丸木舟で持ち込み、持ち込んだ場所で破壊した。破壊した土器片を散ばらせるようなことはしたけれども、それ以上に移動させることはないので復元すると復元率がとてもよい。
水中に投げた土器(流路底から出土する土器)の復元率は特に良い。
西根遺跡では塚という固定空間は意識されていないで平面的に順次土器が破壊され配置された。
西根遺跡で塚が形成されなかった理由は広い空間を自由に利用できるので、わざわざ塚に破壊土器片を押し込める必要がないことが主要因だと思います。塚を作るような無駄な労力は避けたのだと思います。
また湿地で足場が悪く、土器を壊す場所(硬く乾いている地面)を継続確保できないことも理由に加わるかもしれませんが本質ではないと思います。

・遠部台遺跡土器塚(再思考)
西根遺跡で土器塚が作られなかった理由を踏まえて遠部台遺跡土器塚について再思考すると次のような思考にたどり着きます。
遠部台遺跡土器塚は集落域内部であり、広い空間を破壊土器置き場(広義祭祀の場)として利用できません。集落土地利用がそれを許しません。土器破壊の場(狭義祭祀の場)で生まれた土器片は(しかたなく)一カ所にうず高く積んだのだと思います。
その積んだ様子を阿部芳郎さんが集積ブロックとして観察されたということです。

・塚の意味
このように思考してくると土器塚というテーマでは、塚という形状には出発点においては本質的なものはなく、土器破壊という行為(祭祀行為)にこそ本質をみることができます。

まとめると次のようになります。
・遠部台遺跡土器塚…土器破壊行為(祭祀そのもの)は土器塚の近くで、結果生まれた土器破片は土器塚に運搬し投棄する。
・西根遺跡…土器破壊行為(祭祀そのもの)がそのまま残る。(土器破片の運搬はない。破壊行為の一環として土器破片を周辺にばらまいたようなことはあったと想像します。)

つづく


2017年8月22日火曜日

西根遺跡 土器と一緒に出土する木の様子

西根遺跡発掘調査報告書口絵カラー写真に土器とともに木が出土している様子が映っていることが判りましたので、メモしておきます。

西根遺跡発掘調査報告書口絵カラー写真 第1集中地点 流路1内土器検出状況

刻印や削り跡からイナウであると想定している丸木(発掘調査報告書では「杭」)に関する発掘調査写真を千葉県教育庁で許可を得て閲覧させていただいたのですが、丸木出土グリッド(4C09)の写真の一つが報告書口絵カラー写真であることから、この写真に木が映っていることを知りました。

口絵写真の木の大きさはイナウ想定丸木と同じような太さ形状をしているようですが、割れ口(切り口)の形状がイナウ想定丸木とは違うようにも見えます。口絵写真の木がイナウ想定丸木であるかどうか、閲覧写真を入手してから精査したいと思います。

口絵写真の木がイナウ想定丸木であればその出土状況を確かめることができたことになりますし、そうでなければ、類似丸木が別にあったことになり検討価値がある新たな情報を入手できたことになります。


2017年8月21日月曜日

カワラケについて 土器塚学習2

図書「千葉県の歴史 資料編 考古4 (遺跡・遺構・遺物)」(千葉県発行)の「土器塚」の項とそこに掲載されている参考文献を使って土器塚の学習を始めます。
この記事では用語「カワラケ」について派生した興味をメモしておきます。

1 土器塚の呼び名
図書では「「土器塚」という名称の由来」という項目があり、「土器塚(どきづか)という用語は江戸時代にまでさかのぼり、「江戸名所図会」には「土器塚」の名称を見ることができる。ただし、当時は「かわらけづか」とよばれていたらしい。」という趣旨の記述があります。
自分には基礎知識がないので、一応調べてみました。

江戸名所図会の駒場野の近くに土器塚(かわらけづか)という項目があり次のような記述があります。

「新訂江戸名所図会 巻之三天璣之部」における土器塚(かわらけづか)記述
「新訂江戸名所図会 巻之三天璣之部」(ちくま学芸文庫)から引用

参考 「新訂江戸名所図会 巻之三天璣之部」駒場野
「新訂江戸名所図会 巻之三天璣之部」(ちくま学芸文庫)から引用

調べるとこの土器塚(かわらけづか)は現在東京都目黒区遺跡№53土器塚遺跡(かわらけづかいせき)として埋蔵文化財登録されています。目黒区ホームページでは「発掘調査によって、弥生時代後期(約2千年前)の竪穴住居跡竪穴住居址48軒と、集落を囲む環濠かんごうの一部が発見され、弥生時代に特徴的な環濠集落であったことが判明しました。」と書かれています。
カワラケ(土器)が沢山出土する塚なのでカワラケヅカ(土器塚)と呼ばれ、カワラケ(土器)の最初の研究対象になったものと考えます。

カワラケヅカ(土器塚)はカイヅカ(貝塚)と横並びになるような名詞であり、カワラケ(土器)が塚のようになっている場所(カワラケが沢山ある場所)という意味であると理解します。
駒場野のカワラケヅカ(土器塚)は一般名詞から地名(固有名詞)に変化したものだと理解します。

一般名称としてのカワラケヅカ(土器塚)という呼び名が、現在なぜドキヅカ(土器塚)と呼ばれるように変化したのか、図書には説明がありません。しかし、土器塚の呼び名は西根遺跡をめぐる問題意識とは直接関係しないことが明白になりました。

以下は関連して派生した興味メモです。

2 カワラケに関する派生興味
2-1 カワラケの語源
カワラケの辞書説明は次のようになります。
……………………………………………………………………
かわら‐け かはら‥【土器】
〖名〗 (食器として用いる瓦笥(かわらけ)の意)
① 釉(うわぐすり)をかけないで焼いた陶器。素焼きの陶器。古くは食器として用いたが、のち、行灯(あんどん)の油ざらなどに用いられた。
*延喜式(927)四「九月神甞祭〈略〉土器(かわらけ)四千五百口」
*枕(10C終)一三二「聰明(そうめ)とて、上にも宮にも、あやしきもののかたなど、かはらけに盛りてまゐらす」
② 素焼きの杯。酒を飲む器。
*伊勢物語(10C前)六〇「女あるじにかはらけとらせよ。さらずは飲まじ」
*源氏(1001‐14頃)賢木「中将、御かはらけまゐり給ふ」
③ (杯を、人にすすめたり、人から受けたりするところから) 酒盛り。酒宴。
*宇津保(970‐999頃)祭の使「御かはらけ始まり、御箸下りぬる程に」
④ 女性が年ごろになっても、陰部に毛がはえないのをいう俗語。また、その女性。
*俳諧・鷹筑波(1638)一「けのなひ物をかはらけといふ その比(ころ)はうねめの年や十二三〈不竹〉」
『精選版 日本国語大辞典』 小学館 から引用
……………………………………………………………………
カワラケは瓦笥であると説明されていますが、瓦笥(カワラケ)の語源にかかわる説明はありません。
私は「モノノケ」などと同じ語法であり、瓦(カワラ)+気(ケ)と解釈し「瓦の気配」のような印象の言葉であると考えます。
地表に露出した「煎餅のように押しつぶされた」縄文・弥生時代土器の様子をみて「瓦のようだ」という趣旨の感想を持ったことが語源ではないかと推測します。
カワラケは古墳時代人が縄文・弥生土器露出露頭の観察から生まれた言葉に違いないと考えるので興味を持ちます。
ドキ(土器)、ハニ、ハネ、ハジ、スエなど土器に関する言葉はいろいろありますがこれらの正統用語とは別に、「縄文・弥生時代の土器が地表に露出しているところがどこでも沢山あった風景なので、その風景観察の感想から生まれた用語」としてカワラケを考えると興味が湧きます。

カワラケという言葉には古代人の土器露出露頭観察の感想が含まれていると考えます。

2-2 千葉県における地名カワラケ、ドキの確認
私家版千葉県小字データベース(千葉県地名大辞典 角川 小字一覧の電子データベース版)を検索すると「カワラケ」4件、「ドキ」5件がヒットしました。

千葉県の小字カワラケ4件

千葉県の小字ドキ5件

これらの地名が土器露出露頭の存在を意味するのか、それとも瓦や須恵器・土師器の窯と関連するものであるのか興味が湧きます。いつか検討したいと思います。

関連参考 2016.05.18記事「古代窯業地名スエ・ハジ及びハニ・ハネの千葉県検索結果

2-3 カワラケ投げ
……………………………………………………………………
かわらけ‐なげ かはらけ‥【土器投】
〖名〗 山の上などの高い所から土器を遠くへ投げて、風に舞うさまを見て楽しむ遊び。京都の高雄山や愛宕山、江戸の飛鳥山などで、花見の時に多く行なわれた。
*俳諧・誹諧発句帳(1633)冬「紅葉ちるはかはらけなげか高尾山〈幸和〉」
『精選版 日本国語大辞典』 小学館から引用
……………………………………………………………………
以前から次のような遠大な仮説を持っていますのでメモしておきます。

西根遺跡土器集中地点の土器は全てその場で意図的に破壊されています。
機能喪失土器(廃用土器)を破壊することによって土器に込められている精霊を解き放ち、土器送りを完遂したのだと考えます。
そのような縄文時代の習俗がその後の時代にも伝わり、そのうち零落した姿になってしまったものとして酒席余興酒杯投げがあると仮説します。
酒席余興のカワラケ投げの起源は縄文時代土器送り祭祀にあると仮説します。

2017年8月19日土曜日

イナウ学習 北原次郎太「アイヌの祭具 イナウの研究」(北海道大学出版、2014)

イナウに関する付け焼刃学習の第8回目です。
切りが無いのでこの付け焼刃シリーズ学習はとりあえず今回を終回にします。

近々、縄文時代後期イナウ現物そのものであると想定している西根遺跡出土丸木の未公開出土写真を閲覧する機会がありますので、その閲覧の後、付け焼刃ではない腰を落ち着かせた(広義祭具学習の一環としての)イナウ学習に取り組みたいと考えています。
(資料現物は既に閲覧していますが、薬剤とともに透明ビニール袋に入れて保存処理されていますので、観察に限界がありました。)

この記事では北原次郎太「アイヌの祭具 イナウの研究」(北海道大学出版、2014)におけるイナウの意義記述について学習します。

1 イナウの機能
北原次郎太「アイヌの祭具 イナウの研究」(北海道大学出版、2014)ではイナウの機能を次のように記述しています。
イナウの主な働きとして、神への捧げ物、メッセンジャー、守護神の3つが挙げられる。しばしば言われる依り代としての働きはない。上でのべたように、樺太では魔祓いの用途にも用いる。どのような形状のイナウでも、幾通りかの使い方があり得るし、多くのイナウは捧げ物とメッセンジャーの役割を兼ねている。

この図書では贈与物、伝令者、守護神について事例を含めて詳しく検討して「イナウ独自の働きはやはり贈与物であって、言伝の役割は、副次的なものであるように思える。」と結論的に述べています。

2 イナウと機能共通の別素材比較対象
北原次郎太「アイヌの祭具 イナウの研究」(北海道大学出版、2014)ではイナウと機能共通の別素材比較対象について次のように記述しています。
イナウについて考える上で、周囲の民族との比較検討は必須だが、このように多義的で形も素材も様々なイナウのどこに焦点を当てるかによって、その対象も変わってくる。ウイルタ、ニヴフ、ウリチ、そして本州の削り掛けのように素材・形状とも類似するものに加え、前述したような他の素材との併用、または代替使用に注目すれば「機能・使用形態が類似するもの」という枠組みで比較対象を探すことも可能である。例えばサバ文化では、馬のタテガミと絹糸を撚り合わせたものを「salama」と呼び、剥幣のように用いる。馬乳酒祭という行事において立てられる装飾的な柱に張り巡らし、あるいは遠隔地へ移動する際、移動路の側に立っている特別な木にsalamaをしばって垂らし、旅行中の安全を祈る。これらはいずれも神々への贈与を意図して行われるのだという。ここに、剥幣との共通点が見えている。また、カムチャッカでは、ハマニンニクの茎を木偶に巻きつけて用いる。これも素材は異なるが、意図・使用形態という点からいえば、剥幣との比較対象に入れるべき文化である。
このように、見方によって、比較研究の対象地域は大きく広がる。従来は、木製であること、削りかけを持つことがイナウの本質のとしてとらえられたために、比較対象といえば本州の削りかけが主であった。しかし、上記の様に贈与物として用いられる多様なものの1つの形態として木の削りかけをとらえれば、視野は一変する。

このブログで柳田國男の考えに立脚して検討している「イナウとヌサ・ぼんでんとの関連性」などとも親和する記述です。

参考 イナウ・ぬさ(幣帛)・ぼんでん(梵天)の関係(想像)

3 イナウの発展 「具象から抽象へ」か「抽象から具象へ」か
北原次郎太「アイヌの祭具 イナウの研究」(北海道大学出版、2014)では先行研究を吟味しながらイナウが偶像など具象から抽象に発展してきたのか、あるいは逆に抽象から一部にみられるような具象(人面など)に発展しているのか論じています。
著者は具象から抽象に変化したとする説を「考古遺物などを含めたより広い視野に立ち、新旧の造形物を関連付けようとしている」として支持しています。

西根遺跡出土丸木がイナウであるとする学術認定があれば、イナウの発展は著者が考えるような「具象から抽象へ」ではなく「抽象から抽象へ」が本質であり、派生物としては「抽象から具象へ」もあるということになりそうです。

4 石器によるイナウ作成
北原次郎太「アイヌの祭具 イナウの研究」(北海道大学出版、2014)では石器によるイナウ作成について次のように1言だけ触れています。
「…知里も言っているように、黒曜石の剥片を利用して削りかけを作ることも可能であるし、…」
この記述からアイヌイナウ研究では縄文時代出土遺物はもとより鉄器導入以前出土遺物としてのイナウの存在は知られていないことが判ります。

西根遺跡出土イナウの意義は大きなものがあります。
2017.07.05記事「西根遺跡出土縄文時代丸木はイナウ」参照
……………………………………………………………………
北原次郎太「アイヌの祭具 イナウの研究」(北海道大学出版、2014)

2017年8月18日金曜日

土器を壊すことにより土器を送る 縄文時代西根遺跡と土器塚

土器塚学習に入る前に、西根遺跡で強く仮説している「土器破壊」についてまとめておきます。
西根遺跡も周辺土器塚も土器破壊によって土器を送っていたと考えます。

1 西根遺跡出土土器の割れ方
2017.07.12記事「西根遺跡の土器壊れ方観察」、2017.07.13記事「西根遺跡の土器の壊れ方観察2」で書いたとおり西根遺跡出土土器で観察したものは破片の様子から全て人為的に壊していると結論づけることができます。

観察例

観察例

上記記事では、一部が欠けたりして使えなくなった機能喪失土器(まだバラバラになっていない土器の姿を残している廃用土器)が西根遺跡にもちこまれて、破壊されたと考えて、次のような考察を行いました。

5点の土器は残存度の割りに土器破片が小さく、土器破片に元の姿を想起させるような大判のものがありません。
この壊れ方から、全てほぼ完形に近い土器を人為的に破壊して元の形が思い出せないようにしたものであると考えます。
元の姿に決して戻れないレベルまで壊すことによって、土器送りを行ったものと考えます。
西根遺跡の土器は全てほぼ完形に近い姿で持ち込まれ、祭祀の場で人為的に徹底して壊されたと考えます。
・西根遺跡の土器は残存度の高いものが多いことから、完形に近い姿で持ち込まれたと考えます。
・西根遺跡の土器の壊れ方が進んでいること(細片になっていること)と破片出土状況(破片が散逸していない状況)から自然的要因(流水や地象)による破壊は考える必要がないと考えます。

3つの土器ともに土器の完形姿を残すような大型片はなく、破片の集合から元の形を想起することが困難です。
このように、完形姿に近い土器を出土場所で徹底的に壊した理由は土器が何らかの機能を残して再利用される可能性を完全に排除する意思が働いたからだと考えられます。
土器の残片の中にカーブした部分や輪や凹んだ部分が残れば、モノを入れたり、モノを覆ったりする機能が残ってしまいます。リサイクル品としての機能が残ってしまいます。
それでは土器を完全に送ることができないという心理が働いたのだと思います。
土器を完全に送るため、自分の心と齟齬が生れない丁寧な送りをするために、土器を徹底して壊したのだと考えます。

2 西根遺跡の「土器片大きさと土器密集度の逆相関」
西根遺跡では土器が密集する場所(大型土器が多く、獣骨が分布する祭祀中心地)ほど土器片の大きさが小さくなっています。
2017.06.25記事「西根遺跡に持ち込まれた土器は全て破壊されたか」参照

1m×1mグリッドあたり土器重量と1破片あたり重量

祭祀が熱心に行われた場所ほど土器破壊が熱心だったことがデータとして明らかになりました。

(注 発掘時における土器破壊の可能性
上記データがあまりにもドラスティックなので、発掘現場をしらないため私は重機の影響等の存在を疑い関係者にお伺いしたところ、発掘では重機は使用せず、発掘作業で土器が破壊されたような状況は無いと教えていただきました。)

3 アイヌ「物神の霊送り」と土器破壊の通底性
北原次郎太「アイヌの祭具 イナウの研究」(北海道大学出版会)ではアイヌ儀礼における「物神の霊送り」でつぎのように記述しています。
その他の細々とした道具類も、使用に耐えなくなる、あるいは役割を終えると霊送りを行う。その際、どこかに傷をつけることで、霊魂が抜け出して神界へ戻ることができるという。
アイヌのこのような思考と西根遺跡土器破壊で想定した思考は原始時代に遡る思考という点で通底していると考えます。

4 土器を壊すことにより土器を送る
上記1、2のデータと3の情報から西根遺跡の土器は全て現場で破壊されたものと考えます。
土器塚も同じ状況であると想定して土器塚学習を始めます。

……………………………………………………………………
5 参考 西根遺跡発掘調査報告書における土器破壊記述
西根遺跡発掘調査報告書ではつぎのような記述があります。
「ただし、打ち欠いて廃棄している例が若干みられ、…」

次の2つの理由からこのような控えめな記述になったと考えます。
1 現場発掘担当者、土器復元担当者、報告書執筆担当者が異なることによる
現場発掘担当者、土器復元担当者、報告書執筆担当者が同一人であれば土器が全て人為的に破壊された可能性を感じると思います。
2 流水営力イメージの誤解
報告書執筆担当者が縄文時代後期の戸神川地形環境(海の河口部)についての情報を所持していれば、流水営力による土器破壊や移動は極めて限定されることから、土器の人為的破壊に意識が向いたと考えます。
発掘関係者は現在戸神川の流水を誤ってそのままイメージしてしまうととともに、その流水営力についてもあまりにも過大に想像してしまったのだと考えます。

2017年8月16日水曜日

土器塚学習の開始

西根遺跡に類似する土器多出遺跡として「土器塚」と呼ばれている遺跡が下総にありますが、たまたまパラパラめくっていた図書「千葉県の歴史 資料編 考古4 (遺跡・遺構・遺物)」(千葉県発行)に「土器塚」という項目が独立してありました。

「土器塚」の最初のページ 「千葉県の歴史 資料編 考古4 (遺跡・遺構・遺物)」(千葉県発行)から引用

ざっと読むと、西根遺跡の特徴と瓜二つの特徴がいくつも出てきていますので、これをテキストにして、また参考文献を入手して短期集中学習をすることにします。

西根遺跡が土器塚の1類型であることは間違いないと考えます。

なお、文中や参考文献に戦前からの考古学者として和島誠一という名前が出てきます。和島誠一先生は私が大学で講義を受けたことがあり(*)、そうした親しみを憶える過去体験の記憶がよみがえったことも学習意欲を増進させます。

*2013.08.10記事「縄文土器を拾う」参照

この記事では参考文献を取り寄せる前の感想を記録しておきます。
参考文献を読む前と読んだ後の自分の思考の変化がどうなるか興味があります。
今考えている自分の思考(見立て)が参考文献研究成果摂取によって大幅改変することになるのか、それとも反対に自分の見立ての蓋然性の高さに自信を深めるのか、その双方・中間か。いずれのコースを歩むにしても自分の学習は深まるに違いないと期待しています。

1 土器塚の分布
図書には利根川沿岸1カ所と印旛沼流域6カ所の土器塚が紹介されています。

印旛沼付近の土器塚と西根遺跡

2 土器塚の特徴
図書では次のように土器塚研究をまとめています。
・形成時期が後期前半の堀之内2式から加曽利B3式期に限られる。
・土器塚は本来の縄文時代遺構である。
・分布が利根川下流から下総台地中央部に集中している。
・土器塚を残す遺跡は集落祉であると考えられる。しかも継続期間の長い大きな遺跡である点で共通している。
・詳しい調査が十分なされていないので土器塚の構造の違いはあるかもしれない。
・土器塚の形成年代や立地などの共通性を重視すると、縄文後期社会、わけても加曽利B式期を特徴付ける現象である可能性が高い。

3 西根遺跡との共通性と非共通性に関する感想
この論説の中にでてくる個別土器塚の特徴と西根遺跡とのあいだに次のような共通性を感じました。
●土器形式
加曽利B式土器がメインであるという点で土器塚と西根遺跡に時期と共通性があります。
●土器の精製・粗製別
粗製土器がメインであるという点で土器塚と西根遺跡に共通性があります。
●完形土器の欠如
復元すると完形土器がないという状況が土器塚と西根遺跡に共通します。(とりわけ重要な共通性であると考えます。土器塚も西根遺跡も機能喪失土器だけが出土していることになります。)
●出土状況の類似性
「煎餅を踏み潰したようにギッシリ詰まっている」状況が土器塚と西根遺跡で同じです。
●石器出土が少ない
土器塚も西根遺跡も石器出土が土器と比して極端に少ないようです。

また、土器塚と西根遺跡は次のような非共通性があります。
●立地地形
土器塚は全て台地上で西根遺跡は低地です。
●集落空間との関係性
土器塚は集落空間との関係性が(おそらく距離が近いので)明瞭であるようです。
西根遺跡は集落空間に付属するような遺跡ではありません。(西根遺跡は土器を丸木舟で運んできているので、検討無しに集落との関係を直接的に把握できません。なお、西根遺跡は特定1つの集落に対応するものではなく、近隣印旛沼南岸の集落群に対応する広域後背地を有する遺跡であると想像しています。)

4 学習の視点
次のような疑問を参考文献にぶつけながら学習を進めて、土器塚と西根遺跡の特性に迫りたいと思います。
・土器塚出土物の中に西根遺跡における祭祀関連出土物(イナウ、飾り弓、獣骨)と対応するような出土物があるのか。
・土器が意図的に壊されているか。(おそらく土器塚と西根遺跡は機能喪失土器を破壊する行為が祭祀のメインであったと考えます。)
・交通環境の中で土器塚をみるとどのような眺め(思考・想定)が生まれるか。
・祭祀・交流・イベントなどの機能を有する「現代でいえば神社みたいなもの」として土器塚をイメージすると、どのような不都合、好都合が考えられるか。
・施設空間廃絶祭祀が土器塚のベースにある(原点である)と考えられるか。(図書の記述を読むと、土坑の廃絶や道路交差点空間の付け替えなどがきっかけで土器塚が始まったといえるかどうか興味津々です。)
・土器塚相互の間に祭祀ネットワークなどの関連性を想定出来うるか。西根遺跡と土器塚の間に何らかの関連性を想定出来うるか。

2017年8月15日火曜日

交通環境の中でみた西根遺跡

2017.08.14記事「縄文海進海面の鳥瞰による考察 印旛浦-手賀浦」で西根遺跡の本質にかかわるイメージを検討(思考、想像)しました。
縄文海進という一見して自然科学的な事象の鳥観図をみながら、それから刺激を受けて思考していることは西根遺跡が「神社」みたいなものだという考古に関することですから、その記事を読んでいただいた方には記事の真意を理解していただけなかったかもしれません。
縄文海進鳥瞰図から刺激を受けて、私が考えたことは縄文時代交通です。
そこで、交通環境からみた西根遺跡についてまとめて、2017.08.14記事の追補とします。

交通環境から西根遺跡をみるとつぎのようになります。

交通環境の中でみた西根遺跡

土器集中地点(西根遺跡)の様子を次のように想定します。
●ミナト直近陸路に位置する
●多数のイナウ祭壇の存在が推定される
●イオマンテ類似祭祀・イベントの場であったことが推定される
●手賀浦経由でやってくる東北・北陸縄文人との交流の場であったかもしれない

……………………………………………………………………
参考 2014.10.01記事「縄文交通路パターン作業仮説 追補」収録図版

千葉県北部の縄文時代交通路パターン仮説(ar2014093002)
基図は地形段彩図

縄文時代交通路の台地越部に関する空想

2017年8月14日月曜日

縄文海進海面の鳥瞰による考察 印旛浦-手賀浦

印旛浦-手賀浦付近の縄文海進クライマックス期海面(縄文時代早期海面)をGoogle earth proをつかって鳥瞰してみました。

縄文海進海面の鳥瞰 印旛浦から手賀浦方向
Google earth proを活用

縄文海進海面の鳥瞰 印旛浦から手賀浦方向
Google earth proを活用

縄文海進海面の鳥瞰 手賀浦から印旛浦方向
Google earth proを活用

縄文海進海面の鳥瞰 手賀浦から印旛浦方向
Google earth proを活用

戸神川谷津と手賀浦から伸びる谷津が近接していて縄文時代早期にこのルートが印旛浦と手賀浦を結ぶ主要水運路であったことが判ります。

その後海面低下により縄文時代後期(加曽利B式土器期)の戸神川谷津では西根遺跡より下流にまで海面が後退(海退)しました。
この間の約3000年間の間に戸神川谷津は印旛浦と手賀浦を結ぶ陸路(船越)として使われていたと考えます。

西根遺跡付近の縄文時代早期海面(上)と後期海面(下)

これらの図を眺めながら次の考察をしました。

●西根遺跡土器集中地点はミナト(戸神川が流入する印旛浦海面付近)から陸路手賀浦に向かう通路(あるいは手賀浦から陸路印旛浦に向かう通路)に存在します。
つまり交通する人々にその存在を主張している施設であると考えることができます。

●西根遺跡からイナウが出土していて、土器集中地点には多数のイナウが建てられていたことが想定できます。アイヌのヌササンと呼ばれるような祭壇が列状に沢山あったことが想定できます。
つまり土器集中地点の風景は地面に土器の破片が堆積しているだけでなく、谷津谷底という平坦な場所に立体的祭壇風景が存在していたと想定します。

●西根遺跡から飾り弓が出土するとともに土器集中地点の中心部から多量の獣骨が出土しています。これから、土器集中地点は獣肉食を伴うイオマンテのような祭祀の場であったことが想定できます。つまりイベントの場、お祭りの場であったのです。

●以上の想定から西根遺跡は手賀浦方面からやって来る人々と印旛浦の人々が交流を深めるための祭祀が行われた場(お祭り・イベントが行われた場)であると想定します。

●手賀浦方面からやってくる人々とは手賀浦付近居住縄文人だけでなく、縄文時代後期日本列島文化の中心であった東北や北陸の人々が含まれていたと考えます。

●土器集中地点とは現代風に考えれば神社そのものです。

……………………………………………………………………
●上記鳥観図はGoogle earth proの地形情報に地図を被せて立体表示しています。ところが、Google earth proの地形情報は現代開発後の、「今の今」の地形ですから本来地形ではありません。またGoogle earth proの地形精度は良くありません。
そこで、旧版2万5千分の1地形図コンターから地形を直接的に立体モデルとして作成して、それに地図を被せれば訴求力のある画面をつくることができると考えます。
それが技術的に出来そうなので、時間が生れれば取り組みたいと考えます。
ブログ「花見川流域を歩く番外編」2017.08.06記事「古地図の立体モデル化ができそう」参照