2017年11月20日月曜日

船尾白幡遺跡の養蚕、漆と麻、「帀」の意味と氏族 印西船穂郷の謎(6/11)

6 船尾白幡遺跡の養蚕、漆と麻、「帀」の意味と氏族

竪穴住居100軒あたり紡錘車出土数のグラフを見ると船尾白幡遺跡の数値が大きく、近隣遺跡と比べて養蚕が盛んであることが判ります。

この絵は出土鉄鎌を整理したものですが、桑枝切りなどの使われたと考えます。

養蚕を示す墨書土器「子」(コ=蚕)が掘立柱建物の柱穴から出土し、養蚕用掘立柱建物を建設する際の祭祀(地鎮祭)で埋められたものと考えられます。「小」(コ=蚕)とかかれた墨書土器も数多く出土しています。

「小」(コ=蚕)の書体をみると他遺跡の文字「小」とくらべて静かで、まるで蚕の幼虫が3頭ならんでいるようです。「小」は女性が書いた書体であると推察します。

船尾白幡遺跡が利用した戸神川から(西根遺跡から)人形・馬形が出土していて、馬と娘の婚姻譚を背景とした養蚕祈願をこれらの人形・馬形で行ったと考えます。

人形・馬形は戸神川流路跡から重なって出土していて、同じ小舟に乗せて流した祭祀の存在を知ることができます。

船尾白幡遺跡から漆に関わる墨書文字が多数出土しています。「息」(ソク=乾漆)が多くなっています。

船尾白幡遺跡からは「麻」の文字も出土します。
「息」(ソク=乾漆)と「麻」の出土から麻を材料とした乾漆が船尾白幡遺跡の特産であったことが忍ばれます。

「息」の文字
鳴神山遺跡では馬皮を材料にした漆皮(シッピ)が作られ、船尾白幡遺跡では麻を材料にした乾漆が作られ、同じ漆器生産でもそれぞれ特徴が対照できるので面白いことです。

船尾白幡遺跡は鳴神山遺跡より穂摘具の出土数が多く、水田耕作がある程度行われていたようです。

船尾白幡遺跡のメイン墨書文字は「帀」(アマ=天の則天文字)です。この文字はアマと読み天の大神、天神を意味すると考えます。天津神を表現していると考えます。
恐らく鳴神山遺跡の文字「大」「大加」を意識して「帀」(アマ=天の則天文字)を使ったのではないかと考えます。
リーダー氏族は「帀」も書いてある多文字墨書土器に出てくる壬生部(ミブベ)であると考えることができます。

鳴神山遺跡と船尾白幡遺跡のメイン墨書文字と解釈、リーダー氏族をまとめてみました。
戸神川を挟んだ台地で対峙する両集落がどのように協力・競争していたか興味が深まります。

つづく
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パワーポイントスライドを利用して次の11話を連載しています。
1 発掘調査報告書GIS学習 印西船穂郷の謎(1/11)
2 7~10世紀下総国の出来事 印西船穂郷の謎(2/11)
3 鳴神山遺跡と船尾白幡遺跡の概要 印西船穂郷の謎(3/11)
4 鳴神山遺跡の牧と漆、墨書文字「大」「大加」集団 印西船穂郷の謎(4/11)
5 小字「大野」の出自、「大」の意味と氏族、養蚕 印西船穂郷の謎(5/11)
6 船尾白幡遺跡の養蚕、漆と麻、「帀」の意味と氏族 印西船穂郷の謎(6/11)
7 鳴神山遺跡直線道路 印西船穂郷の謎(7/11)
8 鳴神山遺跡は典型古代牧遺跡 印西船穂郷の謎(8/11)
9 「鳴神山遺跡=大結馬牧」仮説 印西船穂郷の謎(9/11)
10 大結馬牧(仮説)の領域 印西船穂郷の謎(10/11)
11 古代開発集落が滅びた理由 印西船穂郷の謎(11/11)



2017年11月19日日曜日

加曽利貝塚国特別史跡指定記念シンポジウム

2017年11月18日に若葉文化ホールで加曽利貝塚国特別史跡指定記念シンポジウムが開催され参加してきました。
最近はこの手のイベントには全くといっていいほど参加したことが無かったので新鮮な印象を受けることができました。

イベント会場前

文化庁主任文化財調査官佐藤正知さんから「特別史跡とは」と題する講演がありました。
一言でいうと、加曽利貝塚は土地に関わる国宝であるとのこととして理解しました。

佐藤正知さん

京都大学大学院総合生存学館特定教授の泉拓良さんから「縄文時代について」と題する講演がありました。縄文時代と貝塚について世界を視野に、かつ後氷期の気候変動等との関連のなかでの詳しい説明がありました。

泉拓良さん

千葉市埋蔵文化財調査センター所長西野雅人さんから「加曽利貝塚の価値と魅力」と題する講演がありました。
加曽利貝塚の学術的価値として次の3点の詳しい説明がありました。
1 日本列島の貝塚は、日本の歴史、人類の歴史を語る上で欠くことができない
2 東京湾東岸の貝塚群は日本の貝塚のなかでも、とくに重要な価値を有している
3 加曽利貝塚は東京湾東岸の貝塚群を代表する存在
また、付加された価値として次の2点の詳しい説明がありました。
1 研究史的な価値
2 文化財の保護活用に関わる価値
さらに縄文人の生活や文化にかかわる発掘情報が現代社会ともつながっていることなど興味深い話がありました。
また講演途中に発掘現場とのテレビ実況中継によるやりとりがあり、市民参加や市民に対する説明の意義が浮き彫りになりました。

西野雅人さん

シンポジウム会場のおける発掘現場実況中継の様子

3人の講演のあと5人の出席者による討論があり加曽利加塚国特別史跡指定の意義や今後の市民参加による史跡活用方策について熱心な話となりました。
市長によるゆるキャラ「かそりーぬ」誕生秘話なども裏話としてだけではなく、加曽利貝塚特性理解として興味が湧きました。

討論の様子

このシンポジウムは千葉市としても力を入れて開催した様子が配布物から感じました。
配布物を入れる袋が特製であり、立派なパンフレット3冊、コースター、ボールペンなどが入っていました。

特製袋

パンフレット1

パンフレット2

パンフレット3

コースター、ボールペン

昭和時代で終わった加曽利貝塚の輝きが、国特別史跡指定をきっかけに再び輝きだし、まちづくりの目玉に育っていくことを行政や考古関係者が願っている様子が伝わってきました。

感想
自分の縄文時代学習にいろいろと好ましい刺激を受けました。
途中まで学習が進みましたが事情で中断している大膳野南貝塚の学習の再開をはやくしたくなりました。大膳野南貝塚の全貌を通しで理解すればそれを手ずるにして加曽利貝塚の意義などもより深く理解できるようになると思います。
西根遺跡出土「イナウ」についての記事をまとめ、その原資料提供者である千葉県に対する報告を急ぎたいと思います。シンポジウムで「アイヌ」「送り」「祭祀」などの言葉が飛び交う様子を聞いていて、西根遺跡「イナウ」出土の意義の大きさを密かに感じました。
講演説明情報のなかの出典のいくつかに興味が湧き、早速入手したと思います。

2017年11月18日土曜日

小字「大野」の出自、「大」の意味と氏族、養蚕 印西船穂郷の謎(5/11)

5 小字「大野」の出自、「大」の意味と氏族、養蚕

奈良時代において墨書文字「野」は上記八千代市上谷遺跡出土多文字墨書土器の例から牧の意味であることが明白です。

一方、鳴神山遺跡で墨書土器「大」「大加」が最も集中して出土する直線道路北側の小字が「大野」です。
「大」「大加」集団が運営していた牧であるから「大野」という地名がついたと思考できます。
牧集団出土物である墨書文字「大」「大加」を根拠に小字「大野」の出自を説明できる珍しい例であると言えます。
学術的な意義(価値)のある小字であると考えることができます。

墨書文字「大」「大加」の元来の読みはオオカミで意味は大神、大国玉神であると考えます。その根拠はリーダー層が書いたと考えられる多文字墨書土器に大国玉神、国玉神がでてくることから推論できます。
具体的固有名詞(大物主神、大国主神など)でイメージされていたのかもしれません。
「大」「大加」は国譲りの神様である国津神を表現しているものと考えて間違いないと思います。
「久弥良」(クビラ)つまり金毘羅を表している墨書文字もあります。
なお「大」とともに「王」が共伴出土する場合がいくつかありますから、元来の読み(意味)「オオカミ」が短縮されて「オオ」と読まれていた場合が多いと推察します。
鳴神山遺跡のリーダー氏族は多文字墨書土器に出てくる丈部(ハセツカベ)であると考えられます。

墨書文字「大」は下総国、上総国の広範な開発集落から出土します。丈部の分布も同じく広範であるので氏族としての丈部が墨書文字「大」を共有していて各地の開発集落で使っていたと考えられます。

養蚕の道具である紡錘車が鳴神山遺跡から出土しています。

同時に養蚕集団の祈願文字であると考える「依」(キヌ)も多数出土します

墨書文字「依」(キヌ)は掘立柱建物が集中する付近の竪穴住居から集中出土し、紡錘車の出土は掘立柱建物群を取り囲むように広範な竪穴住居から出土します。
この分布の様子から蚕飼育は掘立柱建物で集中しておこない、その世話を行っていた集団の祈願文字が「依」(キヌ)であり、繭から糸を紡ぐ作業は女性が自宅(竪穴住居)で行っていたものと考えることができます。蚕飼育と糸紡ぎは人間的空間的に分業されていたと見てとることができます。

つづく
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パワーポイントスライドを利用して次の11話を連載しています。
1 発掘調査報告書GIS学習 印西船穂郷の謎(1/11)
2 7~10世紀下総国の出来事 印西船穂郷の謎(2/11)
3 鳴神山遺跡と船尾白幡遺跡の概要 印西船穂郷の謎(3/11)
4 鳴神山遺跡の牧と漆、墨書文字「大」「大加」集団 印西船穂郷の謎(4/11)
5 小字「大野」の出自、「大」の意味と氏族、養蚕 印西船穂郷の謎(5/11)
6 船尾白幡遺跡の養蚕、漆と麻、「帀」の意味と氏族 印西船穂郷の謎(6/11)
7 鳴神山遺跡直線道路 印西船穂郷の謎(7/11)
8 鳴神山遺跡は典型古代牧遺跡 印西船穂郷の謎(8/11)
9 「鳴神山遺跡=大結馬牧」仮説 印西船穂郷の謎(9/11)
10 大結馬牧(仮説)の領域 印西船穂郷の謎(10/11)
11 古代開発集落が滅びた理由 印西船穂郷の謎(11/11)

参考 印西船穂郷の謎講演レジメ(pdf) 12M

2017年11月17日金曜日

鳴神山遺跡の牧と漆、墨書文字「大」「大加」集団 印西船穂郷の謎(4/11)

4 鳴神山遺跡の牧と漆、墨書文字「大」「大加」集団

鳴神山遺跡の牧関連遺物の出土状況を示しています。
馬骨出土祭祀跡井戸と牧関連墨書土器があります。
参考に船尾白幡遺跡をみると、船尾白幡遺跡がかかわる西根遺跡領域から馬歯などが出土していて、希薄ですが船尾白幡遺跡も牧に関連していることがわかります。

鳴神山遺跡の馬骨出土祭祀跡井戸の平面図・断面図を八千代市白幡前遺跡の類似土坑資料と同縮尺にして並べてみました。
下総では古墳時代から大切な馬を祭祀の生贄としてきましたが、鳴神山遺跡井戸、白幡前遺跡土坑ともに馬を生贄とした牧建設祈願祭祀の跡であると考えることができます。
白幡前遺跡では馬2頭と人1人が犠牲となり、高津馬牧建設祈願に関わる祭祀が行われたと考えます。鳴神山遺跡では馬を犠牲にした8世紀後半の牧建設祈願が行われたと考えます。鳴神山遺跡井戸、白幡前遺跡土坑の双方から東京湾産貝が出土し、祭祀に際して貝食が振舞われたことがわかります。

鳴神山遺跡の同じ竪穴住居から斃牛馬処理集団や漆を示す墨書土器が出土して、牧集団の存在と牧集団が皮を材料にした漆製品を作っていたことが判りました。
この墨書土器は「馬牛子皮身軆」と書いてあり「馬牛蚕皮肉骨」の意味であり、斃馬牛処理集団の祈願墨書土器であることが判明します。斃馬牛処理集団が存在するのですから、その場が牧であったことが証明されます。

この墨書土器は「馬牛子皮身軆」墨書土器と同じ竪穴住居から共伴出土しています。「七」=漆(シツ)、「知益」=汁液(シルエキ)と読めますから、斃馬牛処理集団が馬皮をつかって漆製品(漆皮)をつくっていたことが判ります。

「馬牛子皮身軆」墨書土器、「七 知益」墨書土器が出土した竪穴住居から多量の「大」「大加」墨書土器が共伴出土しています。この状況から「大」「大加」を共有する集団こそが牧集団であることがわかります。
この絵は「大」と書かれた墨書土器です。「大」と書かれた文字の部分が残るように土器を意図的に割っていることが判る例が多くあります。「大」は「大加」とくらべて墨書が多く、刻書が少なくなっています。
「大」をマイ土器に祈願文字として書いた集団がこの竪穴住居の穴の前でマイ土器を割り、投げ込んだと考えます。そのような祭祀が牧活動の組織性を強めるために行われたと感が増す。

「大加」はロゴマークになっています。また刻書が多くなっています。墨書が少なく刻書が多いことから「大加」集団は「大」集団より貧しい(墨にありつけない)集団で劣位な集団であったと考えます。
刻書「大加」に墨書「弓」が上書きされているものがかなりの数出土しています。相撲の弓取式は勝者に武器としての弓を与える儀式ですが、同じことが文字レベルで行われていたと推察します。つまりマイ土器「大加」を持っていたものが牧活動で功績を上げ、支配層から墨書「弓」を与えられたものと考えます。あるいは弓現物をもらい、その記念として墨書「弓」を書いてもらったのかもしれません。

牧集団「大」「大加」は武装していて刀子や鉄鏃が多数出土します。
この絵は刀子の例です。刀子は成人男性が1人1本持っていたのではないかと想像しています。

この絵は鉄鏃の例です。T字形、三角、Y字形など破壊力の大きな殺人専用の槍です。腕や足、首も一刺しで飛んだと思います。
鉄鏃は「大加」の出土する竪穴住居からの出土がほとんどないので上位集団である「大」集団だけが独占していたようだと推察します。鉄鏃は牧内支配のための威圧的武器だったように感じます。

鉄鏃と「大」の相関の高さは時代毎に分布面から確かめることができます。
逆に「大」「大加」出土竪穴住居から紡錘車などの道具類の出土は少なくなっています。

つづく
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パワーポイントスライドを利用して次の11話を連載しています。
1 発掘調査報告書GIS学習 印西船穂郷の謎(1/11)
2 7~10世紀下総国の出来事 印西船穂郷の謎(2/11)
3 鳴神山遺跡と船尾白幡遺跡の概要 印西船穂郷の謎(3/11)
4 鳴神山遺跡の牧と漆、墨書文字「大」「大加」集団 印西船穂郷の謎(4/11)
5 小字「大野」の出自、「大」の意味と氏族、養蚕 印西船穂郷の謎(5/11)
6 船尾白幡遺跡の養蚕、漆と麻、「帀」の意味と氏族 印西船穂郷の謎(6/11)
7 鳴神山遺跡直線道路 印西船穂郷の謎(7/11)
8 鳴神山遺跡は典型古代牧遺跡 印西船穂郷の謎(8/11)
9 「鳴神山遺跡=大結馬牧」仮説 印西船穂郷の謎(9/11)
10 大結馬牧(仮説)の領域 印西船穂郷の謎(10/11)
11 古代開発集落が滅びた理由 印西船穂郷の謎(11/11)



2017年11月16日木曜日

鳴神山遺跡と船尾白幡遺跡の概要 印西船穂郷の謎(3/11)

3 鳴神山遺跡と船尾白幡遺跡の概要

鳴神山遺跡と船尾白幡遺跡の位置を示しました。その間の戸神川谷津に西根遺跡があります。関係すると考える南西ヶ作遺跡と大塚前遺跡の位置も示しました。

鳴神山遺跡と船尾白幡遺跡の竪穴住居軒数、掘立柱建物棟数を近隣遺跡と比較して示しました。
この表をグラフにしてより直観的に観察してみます。

竪穴住居軒数のグラフです。
掘立柱建物は人が居住していた建物です。
鳴神山遺跡の竪穴住居軒数は千葉県開発集落でトップクラスです。鳴神山遺跡は船尾白幡遺跡の5倍ほどになります。
発掘区域の大小で竪穴住居軒数も変わるはずですから、古代集落規模の本当の比較にはなりませんが、参考になります。
なお数値は発掘した竪穴住居数であり、建て替え、廃絶、新築が繰り返された結果全部を含むので、ある時間断面をとると各遺跡ともより少ない竪穴住居が存在していたと考えられます。

掘立柱建物棟数のグラフです。
掘立柱建物の用途は養蚕小屋が多かったという印象を墨書土器などから強く受けています。倉庫や行政施設、寺院などの用途の建物も掘立柱建物です。
鳴神山遺跡と船尾白幡遺跡の棟数が近い数値で、鳴神山遺跡は竪穴住居軒数に比して掘立柱建物棟数が異常に少ない印象をうけます。この異常さを次のグラフで確認しました。

竪穴住居10軒あたり掘立柱建物棟数のグラフです。
鳴神山遺跡の数値が近隣遺跡のなかで最低クラスです。鳴神山遺跡は船尾白幡遺跡の1/5です。後のデータで示すように鳴神山遺跡は牧集落であるので、養蚕小屋や倉庫をあまり必要としない生活を送っていたので、このような極端な掘立柱建物の少なさになったのです。逆に掘立柱建物棟数の少なさが鳴神山遺跡が牧集落であることを物語ります。

このグラフは鳴神山遺跡竪穴住居の年代別推移グラフです。
年代を推定できる土器が出土した約半数の竪穴住居のグラフです。
因みに近隣遺跡のどこでも竪穴住居の約半数は廃絶後すぐ埋め立てられ遺物はほとんど無く、残り半数の竪穴住居から遺物が出土し、その中に多量の遺物が含まれているものがあるという似た状況があります。
8世紀第1四半期に鳴神山遺跡に竪穴住居が新たな開発集落として作られたと考えられます。
発掘調査報告書では7世紀2軒の竪穴住居と8世紀の竪穴住居との間に何らかの関連は見られないとしています。
その後竪穴住居数は増え、集落が発展します。下総国総合開発の時代に該当します。
蝦夷戦争時代には若干竪穴住居がへりますが、蝦夷戦争における「根こそぎ動員」の影響のようだとイメージしています。
蝦夷戦争が終わると竪穴住居数は急増して9世紀第2四半期にピークを迎えます。生産施設と労働力が存在し、かつ強制的供出がなくなったのですから拡大生産活動が可能になり、経済的に大発展したのだと思います。
その後雲行きが怪しくなり、9世紀第4四半期には急減し、10世紀には集落として消滅に近い状況になります。

このグラフは船尾白幡遺跡竪穴住居の年代別推移グラフです。
左の縦棒2本は50年間を右4本は25年間をイメージできますから、その平仄違いを考慮すると竪穴住居の推移パターンは鳴神山遺跡と似たものになります。
船尾白幡遺跡は9世紀第3四半期にピークを迎え、その後急減します。
8世紀初頭に集落がスタートして8世紀一杯着実に竪穴住居軒数を増やし、9世紀になると急増して第2、3四半期頃ピークを迎え、第4四半期に急減、10世紀初頭にはほとんど衰滅というパターンは下総台地古代開発集落に共通するようです。

年代別竪穴住居の分布をみるとこのグラフのようになります。
GISを使うと竪穴住居を年代別に分布図として捉えることができますから、全ての出土物情報もこのレベルで把握分析できます。
なお、8世紀の間だけ遺跡を2分するような線形で直線道路が存在し、9世紀になると直線道路は埋め立てられてしまいます。
掘立柱建物は出土物がほとんどないので年代が不明であり、図では一律にその分布を表示しています。

参考に竪穴住居からの遺物出土状況について私が理解したことを話します。
竪穴住居は深いもので1m程の穴になっていますが、その中に同じ墨書文字の土器破片が多数存在していたり、刀子・鉄鏃・紡錘車・鎌等が出土します。また火をもやした跡(焼土)も出土します。この状況から同じ墨書文字を共有する集団がこの穴の前で墨書土器を壊してその破片を穴に投げ込んだ祭祀を行ったと考えます。その祭祀では武器や道具も投げ込んだと考えます。
縄文時代西根遺跡ではダイナミックな土器破壊を伴う祭祀が浮き彫りになりましたが、そうした「土器破壊を伴う祭祀」という縄文時代風習が奈良時代にも続いていたことは興味深いことです。

つづく
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パワーポイントスライドを利用して次の11話を連載しています。
1 発掘調査報告書GIS学習 印西船穂郷の謎(1/11)
2 7~10世紀下総国の出来事 印西船穂郷の謎(2/11)
3 鳴神山遺跡と船尾白幡遺跡の概要 印西船穂郷の謎(3/11)
4 鳴神山遺跡の牧と漆、墨書文字「大」「大加」集団 印西船穂郷の謎(4/11)
5 小字「大野」の出自、「大」の意味と氏族、養蚕 印西船穂郷の謎(5/11)
6 船尾白幡遺跡の養蚕、漆と麻、「帀」の意味と氏族 印西船穂郷の謎(6/11)
7 鳴神山遺跡直線道路 印西船穂郷の謎(7/11)
8 鳴神山遺跡は典型古代牧遺跡 印西船穂郷の謎(8/11)
9 「鳴神山遺跡=大結馬牧」仮説 印西船穂郷の謎(9/11)
10 大結馬牧(仮説)の領域 印西船穂郷の謎(10/11)
11 古代開発集落が滅びた理由 印西船穂郷の謎(11/11)

参考 印西船穂郷の謎講演レジメ(pdf) 12M

2017年11月15日水曜日

7~10世紀下総国の出来事 印西船穂郷の謎(2/11)

2 7~10世紀下総国の出来事

鳴神山遺跡と船尾白幡遺跡を理解する背景知識が必要であると考え、7世紀から10世紀までの下総国の主な出来事を年表にまとめてみました。
646年大化の改新、663年白村江の敗北を経て国家の進出方向が東北に向かい、そのために鹿島神宮が重要な出撃拠点となったことを学習しました。
そして、8世紀前半から中頃にかけて下総国を東北進出巨大兵站基地にするために律令国家が開発ノウハウとパワーを投下したことを学習しました。
国府・国分寺の建設、東海道駅路の建設、馬牧・牛牧の建設、域内道路・舟運路・開発集落の建設が総合的にかつ有機的連携的に建設された様子は現代大規模開発と比べても見劣りしない構想力・企画力と巨大な建設パワーを感じることができ驚きます。
8世紀初頭に下総国兵站基地総合開発が始まったときから鳴神山遺跡と船尾白幡遺跡がスタートします。

蝦夷戦争の時代下総国から膨大な物資や資材が東北へ向かったことを学習しました。兵站基地として下総国はその役割を大いに果たしたことを学習しました。

9世紀初頭蝦夷戦争が終結すると下総国開発集落は一斉に大発展します。鳴神山遺跡、船尾白幡遺跡も例外ではありません。
私は、戦争終結により国営開発集落が地元氏族に構成員ごと無償で払い下げられたような印象を持ちます。

その後開発集落は9世紀中ごろをピークに衰退傾向が顕著になり、9世紀末から10世紀初めにはほとんどの開発集落が衰滅してしまいます。

8世紀前半から中頃、下総国総合開発が歴史的画期であったことをこのように文字でまとめました。
鹿島神宮(地理的位置は常陸国)に記紀神話が適用されて東北出撃基地としてイデオロギー的にも整備され、それと連動して兵站基地インフラが総合整備されました。

東海道駅路網のうち武蔵国から市川(国府所在)を経て東京湾沿いに千葉方面に向かう本路を建設し、それを軸にそこから準幹線道路・舟運路を整備し、さらにその交通ネットワークに牧を貼り付けるという構想は現代地域開発の思考と変わりありません。国土計画思考の原点が8世紀にあることがわかります。

この図は墨書土器の分布を表したものですが、墨書土器風習は開発集落における労務管理、教化活動の一環であったと考えられますから、開発集落の活発さを表現しているとも言えます。
神様に言葉を口から発して祈願しても、その瞬間に言葉は消えてしまいますが、祈願の内容が消えないで記録されるという「文字」を始めて知った人々の感動はとても大きなものであったと考えます。

下総国が国家的観点による兵站基地であったことが、「東北移民大作戦」に下総国が含まれていないことからも判ります。
下総国の地名が東北に無いことは下総国からの移民が少なかったからだと考えます。
下総国は兵站基地を建設し、そこで多量の食糧や物資・資材を生産することが求められ、多くの人員を必要としていたと考えます。俘囚や全国の浮浪人等を受け入れる場であり、人材を外に出す(移民を出す)場ではなかったと考えます。

年表作成に役立った図書です。「日本の神々11」は「こういうことが知りたかったんだ」と思わずつぶやいてしまった、私にとって有用な図書です。

つづく
……………………………………………………………………
パワーポイントスライドを利用して次の11話を連載しています。
1 発掘調査報告書GIS学習 印西船穂郷の謎(1/11)
2 7~10世紀下総国の出来事 印西船穂郷の謎(2/11)
3 鳴神山遺跡と船尾白幡遺跡の概要 印西船穂郷の謎(3/11)
4 鳴神山遺跡の牧と漆、墨書文字「大」「大加」集団 印西船穂郷の謎(4/11)
5 小字「大野」の出自、「大」の意味と氏族、養蚕 印西船穂郷の謎(5/11)
6 船尾白幡遺跡の養蚕、漆と麻、「帀」の意味と氏族 印西船穂郷の謎(6/11)
7 鳴神山遺跡直線道路 印西船穂郷の謎(7/11)
8 鳴神山遺跡は典型古代牧遺跡 印西船穂郷の謎(8/11)
9 「鳴神山遺跡=大結馬牧」仮説 印西船穂郷の謎(9/11)
10 大結馬牧(仮説)の領域 印西船穂郷の謎(10/11)
11 古代開発集落が滅びた理由 印西船穂郷の謎(11/11)

参考 印西船穂郷の謎講演レジメ(pdf) 12M