2017年3月31日金曜日

大膳野南貝塚 縄文時代前期後葉竪穴住居と土坑

大膳野南貝塚の陥し穴と炉穴(早期後半頃)の学習に区切りをつけ、縄文時代前期後葉の竪穴住居と土坑の学習に移動します。

出土土器から判明する前期後葉の竪穴住居は16軒、土坑は113基です。

発掘調査報告書では「住居の分布範囲がやや散漫ではあるが、環状を呈する集落と考えられ、住居と土坑が場所を区別して構築されたものと推定される。また、遺構から検出された土器は、諸磯b式ないしは浮島Ⅰ~Ⅲ式期にほぼ限定されることから、短期間に営まれた集落祉と考えられる。」と記述されています。

竪穴住居と土坑の分布は次の通りです。

大膳野南貝塚 縄文時代前期後葉 竪穴住居と土坑の分布

竪穴住居と土坑の分析学習に入る前に、この記事で陥し穴との関係について考察します。

次に陥し穴(縄文時代早期後半頃)と前期後葉の竪穴住居・土坑のオーバーレイ図を示します。

大膳野南貝塚 縄文時代早期後半ぼろ陥し穴の分布と前期後葉竪穴住居・土坑の分布 オーバレイ

このオーバーレイ図から次の2点について気が付きましたのでメモしておきます。

1 陥し穴と竪穴住居・土坑の分布は完全に重なりますから竪穴住居・土坑が作られた時期(前期後葉)に陥し穴が罠猟として利用されていたことは完全に否定されます。

陥し穴からは早期後半の土器細片と前期後葉の土器細片が出土しますが、前期後葉の土器細片は竪穴住居・土坑が利用されていた時代に、当時の陥し穴覆土層表面にたまたま落ちたものであることが確認できます。

つまり陥し穴の時期は出土物からみると、早期後半であることが判明します。

2 早期後半に狩場であった大膳野南貝塚発掘区域が前期後葉になると集落区域として開発されてしまったことに着目します。

この場所に集落をつくってしまえば、この場所のみならず周辺の土地が狩場として機能しなくなります。
狩場を失っても集落をつくる必要があったという強い縄文社会要請が働いたということが見て取れます。

早期後半と比べて前期後葉になると人口急増が発生して、これまでの狩場が住居ゾーンとして開発されたものと考えます。

前期後葉113の土坑はほとんど堅果類の貯蔵に使われていたことが判明しています。
これから、狩猟という獲得食物エネルギー総量の劣悪な生業から、植物食という獲得食物エネルギー総量の優良な生業に社会が転換した様子と人口急増が重なっている様子が推察できます。

また竪穴住居からは獣骨や貝が出土していますから、この場所から恐らく東方向に狩場を新規開発し、また海にも出て動物タンパクを補給していたと想定します。

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なお、大膳野南貝塚付近が早期後半頃に狩場であり、炉穴で干し肉や燻製を作っていたころ、その縄文人達の主要な居住地がどこであったのか、検討していないことに気が付きました。

早期後半頃大膳野南貝塚付近で狩をしていた縄文人達の拠点がどこであるか、追って検討することにします。

 

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