2017年6月24日土曜日

衰退期の大膳野南貝塚集落

この記事は2017.06.22記事「最盛期の大膳野南貝塚集落」のつづきです。

発掘調査報告書からの引用は赤字で示します。

1 堀之内2 式期
「本時期には大膳野南貝塚縄文集落は縮小傾向となる。本時期に属する主な遺構は住居7 軒、土坑8 基、屋外漆喰炉1 基などである。このうちJ31・32号住は径9 mを超える大型の柄鏡形住居である。」
「遺構の分布は散在傾向だが、大きく台地東~南側縁辺部に住居群、中央~西側平坦部に土坑群が位置しており、可視的には前段階(堀之内1 式期)の遺構配置を踏襲しているようにみえる。」
「漆喰使用文化は本時期も継続しており、J11・40・81号住の3 軒の住居で漆喰炉が、北貝層西端部では4 号屋外漆喰炉が検出された。また貝層を伴う遺構は住居2 軒、土坑5 基を数え、集落規模は大きく縮小しながらも採貝活動および貝殻利用は本時期も継続して行われていたようである。」
「埋葬関連の遺構は2 軒の廃屋墓が検出された。J11・40号住より伸展葬と推定される人骨が出土した。いずれも単葬である。」

堀之内2 式期集落

2 堀之内2 式期のメモ・考察
2-1 集落の発展と衰退に関する問題意識
分布図を並べてみると貝塚集落の発展と衰退の様子が顕著に観察できます。

大膳野南貝塚 貝塚創始期-発展期-衰退期の竪穴住居跡の変化

各時期のある時間断面を考えた時、どれほどの住居が存在していたかという点は今後検討するつもりですが、創始期と衰退期は似たような住居数であり、発展期はそれと比べるとはるかに多い住居が存在していたことは確実です。
この顕著な分布変化を見て次のような問題意識を持ちました。

問題意識メモ(2017.06.24)
・集落発展の理由
・集落発展は自然増か社会増か?
・社会増の場合どこから移住してきたか?
・集落衰退の理由
・集落衰退は自然減か社会減か?
・社会減の場合どこに移住したか?

不確かな第1印象ですが発展も衰退も自然増減より社会増減の方が効いているように感じます。

2-2 衰退期A、B家族がそれぞれの祖先住居・貝塚を守っているように感じられる
次の図に示すように衰退期A、B家族がそれぞれの祖先住居・貝塚を守っているように感じられます。

貝塚創始期と衰退期のA、B家系統は対応するか?

創始期に始まるA、B家の直系血統は衰退期にも継続していて、直系血統の人々は祖先崇拝の強い気持ちがあり、それで住居位置を決めていたと考えます。

衰退期にC家集団が消滅するのはC家集団がもともと集落創始に関わらない「外人部隊」のような性格の集団であったためであると考えます。
集落運営が困難になるとC家集団はそこで頑張る意味はなく、早々に別の場所に移住していったと考えます。
A家、B家集団のものも多くは移住していったと考えますが、極一部(本家筋)だけは経済や生活状況にお構いなく祖先を守っていたのだと想像します。

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