2017年7月3日月曜日

大膳野南貝塚 後期土坑の帰属時期

大膳野南貝塚後期集落(縄文時代中期末葉~後期)の土坑の学習を行います。
発掘調査報告書第Ⅷ章まとめの「土坑の概要」記述を順次引用して、その記述について学習・考察します。

発掘調査報告書からの引用は赤字で示します。

1 土坑の概要 帰属時期
 出土土器から帰属時期が明らかになった土坑は、加曽利E4 ~称名寺古式期が5 基、称名寺~堀之内1 古式期が17基、堀之内1 式期が61基、堀之内2 式期が8 基、堀之内2 ~加曽利B1 式期が4 基、加曽利B1 ~2 式期が6 基である。また、出土土器が皆無あるいは無文、縄文施文のみ、細片のみの土坑については、形態的な特徴(フラスコ状・円筒形等)、覆土の特徴(貝層の有無等)、遺構の重複関係などから総合的に判断して、総数264基の土坑が本時期に属するものと推定した。これらは台地平坦部を中心に調査区全体に分布している。

2 土坑の帰属時期別分布

土坑の帰属時期

加曽利E4 ~称名寺古式期

称名寺~堀之内1 古式期

堀之内1 式期

堀之内2 式期

堀之内2 ~加曽利B1 式期

加曽利B1 ~2 式期

堀之内式期(一括)、後期(一括)、不明(一括)

3 考察
帰属時期別に土坑の特性を検討順次行おうと考えたのですが、詳細帰属時期を特定できない土坑が多く、帰属時期別検討をメインに行うことは無理のようです。
ただ、次の状況は着目できます。

3-1 称名寺~堀之内1 古式期の土坑の分布
後期貝塚集落の基礎がつくられたと考えられる称名寺~堀之内1 古式期の土坑の分布が竪穴住居分布域から離れた集落西南部に偏在しています。
この分布パターンは前期後葉集落の土坑分布と類似しています。

参考 前期後葉集落

前期後葉集落の土坑で集落西南部に密集するもので調査されたものは全てオニグルミ核が出土していて堅果類貯蔵庫であったことが判っています。

称名寺~堀之内1 古式期の土坑で集落西南部に集中するものは断面形状がフラスコ型、円筒型でやはり食料貯蔵庫であったことが推定できます。

称名寺~堀之内1 古式期集落では竪穴住居から離れた集落西南部に前期後葉集落と同じ理由で食料貯蔵庫としての土坑を設置したものと考えます。

竪穴住居から離れた場所に食料貯蔵用土坑を集中して設置した主な理由は食料貯蔵の環境衛生面の条件を満たすためであったと考えています。
2017.04.29記事「土坑集中の意味」参照

3-2 堀之内1 式期の土坑の分布
堀之内1 式期になると土坑分布状況がガラリと変わります。
竪穴住居の近くに設置される土坑が増え、竪穴住居から隔絶したと考えられる土坑の数が少なくなります。
恐らく、集落の生業が前期後葉集落や称名寺~堀之内1 古式期集落とは根本的変化して、つまり採貝専業集落として発展できるようになったと考えます。
その生業の根本変化(採貝専業で身を立て、必要な生活物資の多くは近隣から交易で入手する)に対応して必要とする土坑意味が全く変化したのだと考えます。
食料備蓄用土坑などは少なくなり、漁獲物を製品にするための活動に関連する施設としての土坑が増えたのだと考えます。
このような推定がどの程度の蓋然性を持つか、引き続き検討を深めます。

3-3 堀之内2式期以降の土坑の分布
時期が特定されている土坑の数が少なく、集落衰退期には土坑の実数(竪穴住居1件あたり土坑数)が本当に少なくなったのか、疑問です。
漁業活動も不活発になりますから、どのような生業で集落が成り立っていたのか、その際土坑が少なくて済んだのか、今後自分なりのイメージをつくりたいと思います。
なお、堀之内2 式期以降土坑墓が出現する可能性を発掘調査報告書では記述しているで、順次学習します。



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