2017年9月20日水曜日

新津健「猪の文化史 考古編」学習

2017.09.18記事「西根遺跡 焼骨と破壊土器が混ざって出土する理由」で頭部のない体部だけの幼獣焼骨の意義について考察しましたが、焼骨の意義、頭部のない獣骨の意義について図書「新津健(2011):猪の文化史 考古編、雄山閣」を入手して学習しました。

図書「新津健(2011):猪の文化史 考古編、雄山閣」

この図書ではイノシシをメインテーマにして、焼骨の意義、頭部の無い獣骨(焼骨)の意義について民俗例をふくめて考察しています。

この図書では、私が知りたかった事項がそのまま考察検討されている部分が多くあり、私にとっての良書となりました。

祭祀では、イノシシの頭部が体部とは別に扱われることは一般的であり、頭部は祭壇に飾られることが普通であることを知り、自分のこれまでの想定を変更する必要性は生じないことを確認できました。

儀式における猪の扱いの流れ
図書「新津健(2011):猪の文化史 考古編、雄山閣」から引用

この図書から有益な情報をさらに汲み取るつもりです。

2017年9月18日月曜日

西根遺跡 焼骨と破壊土器が混ざって出土する理由

西根遺跡縄文時代の土器集中地点と焼骨分布が重なります。
さらに、土器のかけらの間に焼骨(とそれを焼いた木の燃えカス)が見られます。

破壊した土器のかけらと焼骨が混然一体となって出土する意味がおぼろげながら判ってきたような思考が生れています。
そのおぼろげな思考を忘れないうちに、今後の学習の参考とするために、下にメモしておきます。

1 トチの実アク抜きによる主食づくりの道具としての土器(加曽利B式土器 粗製土器)が壊れて使用に耐えなくなる。
2 それに代わる新しい土器をつくり、古い土器は廃用とする。
3 土器を更新することにより、道具(設備)の面から主食づくりの継続性が集落で担保できる。(食物調達に関する持続可能性)
4 堅果類による主食づくりのメドがついた秋~冬に収穫祭を行う。
5 収穫祭で廃用土器を送り、土器に感謝する。(土器送り…土器破壊)
6 狩猟民である縄文人は主食である堅果類の収穫祭を狩猟の祭(イノシシ、シカの共食と骨焼き行為)の中で(の一環として)行った。
[恐らく狩猟の祭(イノシシ祭などと呼ばれる縄文社会普遍の狩猟祭)に後から堅果類収穫祭が加わった。]
7 縄文時代後期の印旛浦周辺地域は下総地域における主要な狩場では決してないのでイノシシやシカの入手は困難であり、祭祀用の幼獣を特別に入手したり、飼育していたと想像する。
8 縄文社会の伝統である狩猟祭(イノシシ祭)の一環として堅果類収穫祭が位置づけられ、廃用土器の破壊(送り)が行われた。
9 飼育幼獣などを利用してイオマンテ類似行為により獣を共食し骨を焼きそれを散布する行為は縄文社会を営むために必須の祭であった。狩猟行為の実態が存在しない、あるいは虚弱な集落であっても、狩猟祭は必須であった。その必須狩猟祭の一環として(新たに主食化が成功した)堅果類の収穫祭を行った。

土器破片と焼骨が一体となって出土する意味とは、狩猟民としての精神性を示す狩猟祭(イノシシ祭)を冠として、主食である堅果類の収穫祭が行われたことを示していると考えます。

狩猟祭(イノシシ祭)では頭部を体部と切り離して祭壇に飾ったと考えます。
狩猟祭(イノシシ祭)について、今後学習を深めます。
体部の骨を焼く行為の意味については、送り行為の一環(火葬)であると想像しますが、今後学習を深めます。

狩猟祭としての焼骨行為は精神性(象徴性)が強いと考えますので、焼骨散布による修景機能(祭壇付近を白く染める)や土木機能(祭壇付近の地面を固める)は結果として生まれるサブ機能であったと考えます。

参考 西根遺跡出土焼骨
発掘調査報告書から引用

2017年9月17日日曜日

西根遺跡 焼骨出土状況の詳細とその考察

2017.09.16記事「西根遺跡 焼骨はどこで焼かれたか」で焼骨が西根遺跡空間で焼かれて生成され、その場に存置されたことがほぼ判りました。

この記事ではさらに発掘調査報告書掲載情報を詳細に分析して焼骨出土状況を把握・確認するとともに、その事実に基づいた考察を行います。

1 焼骨出土状況の詳細把握
発掘調査報告書の土層断面図記載から骨片が炭化物(焼けた木片)と常に一緒に出土していて、獣骨が西根遺跡空間で焼かれ、その場に存置されたことが明らかになりました。

この様子は発掘調査報告書文章記述では次のよう述べられています。
「集中地点の中には土器のほかに獣骨片や炭化物が多くみられる所もある。獣骨片は比較的小型の哺乳類が中心であり、細かく粉砕され、被熱しているものが大半である。」(16ページ)
「(第1集中地点)3Cグリッドには土器と土器の間に焼けた獣骨片が見られる
(第2集中地点)包含層内の1部には炭化物や骨片が見られる
(第3集中地点)小骨片も認められる。」(22ページ)
「獣骨・種子については、調査区の中で目立ったものを採取したものである。分布については、第1集中地点~第5集中地点までは土器の重量分布(第13図)と重なっている
獣骨(第183図)については、大型片は出土せず、焼けた細片が主体である。全体で1509.6gが出土し、小グリッドで出土大いには、第1集中地点の3C65グリッドで104.2g、第3集中地点の8D76グリッドの197.0g、第4集中地点の9C96グリッド188.0g、10C09グリッドの160.7gであり、いずれも200gを切っており、僅かな出土である。獣骨の種別等については第8章第2節を参照されたい。」(232ページ)
「縄文時代後期の堆積層から採取した遺存体は、いずれも短時間に強い熱を受けたと考えられ、色調は灰白色ないし灰黒色を呈し、変形や損傷が著しい。」(342ページ 理化学的分析)
「西根からは、腐食しにくく、腐肉食性の動物などからの食害を受けにくい遊離歯も回収できないことから、今回の焼骨の中に占める頭骨の頻度はそれほど高くないと見込まれる。」(345ページ 理化学的分析)
「獣骨は、第1集中地点~第5集中地点で検出しているが、どれもほとんど同じ状況で被熱痕が強く残り、イノシシやシカの幼獣の骨片が多いという事実があきらかとなった。これについては今後、他の遺跡との照合が必要である。」(422ページ)

上記の記述から、焼骨の出土は土器が密集するところに分布し、炭化物と骨片が混ざっていて土器と土器の間にみられ、どこも同じような状況であることが確認できます。

2 焼骨づくりに伴う活動の考察 
破壊した土器があるその場所で焼骨を作ったことが確認できるのですから、次のような活動を想定できます。
●廃用土器の破壊と焚火による焼骨生成が1回の活動(祭祀)で一緒に行われた。
この活動想定から次のような状況を想像できます。
●廃用土器と生きた幼獣(シカあるいはイノシシ)を持参して西根遺跡に丸木舟で集団がやってくる。
●祭壇(イナウ)を設置し、飾り弓を使ったイオマンテ類似祭祀が行われる。
●獣の頭骨は祭壇に飾り、体部は焼いて集団が食べる。
●残った骨は焼いて骨灰(焼骨)とする。
●焚火の近くで廃用土器を破壊する。
(私はこの活動を堅果類収穫祭の一環であり、印旛浦広域集落群共同の取り組みであり、手賀浦地域との交流の場であり、印旛浦と手賀浦を結ぶミナトの移動(廃絶)ともかかわると考えています。)

このように想像すると次の諸点で発掘情報と整合します。
1 土器片の間に炭化物と焼骨が混ざって出土する。
2 頭骨は祭壇に飾られて放置されるので腐り、土層中に残りにくい。
3 自生する灌木を利用して現場でつくる祭壇(イナウ)は包含土層中に残り、木質(自然木)として出土している。
4 集落から持参した製品としてのイナウは「杭」として出土している。イオマンテ類似祭祀で使った飾り弓は出土。
5 包含層上下の土層から多くの木質が出土していることから、縄文時代後期の戸神川谷津は灌木が豊富であったと考えることができる。従って祭壇(イナウ)づくりはもとより、獣を調理したり焼骨をつくるための焚火の材料には事欠かなかった。

3 焼骨づくりに関する検討項目の考察
焼骨づくりのイメージがより詳しく湧いてきましたので、焼骨づくりの意義に関する検討が新たな項目として抽出されました。
具体的には次の項目について今後検討を深める必要があります。

●動物を調理して食った後の骨を何故焼いて骨灰(焼骨)にしてその場に存置したのか?
土器破壊と骨灰(焼骨)づくり(その存置)は一体の祭祀活動であると考えます。
その祭祀の意味、土器を破壊する意味、骨を焼いて存置する意味について詳しく検討する必要が項目として浮かびあがりました。
具体的には、骨灰(焼骨)存置行為に祭場を白く修飾する風景機能や祭場を固めて破壊土器が動かないようする土木的機能を縄文人が期待していたのかなどについて検討したいと思います。

4 焼骨分布を指標にした検討項目の考察
焼骨と炭化物と土器片が混然一体となって出土する状況は、その場所が後世の流路で破壊されなかったことを物語っています。
仮にその場所が後世の旧流路と平面図上で重なっていても、断面図上では上下に離れていることを物語ります。
つまり、焼骨分布を指標として後世流路により攪乱を受けていない場所を抽出できることになります。
逆に土器が分布し焼骨は分布しない場所で、後世流路と重なる場所は攪乱をうけた場所である可能性が濃厚になります。焼骨や土器の一部が流出してしまったり、上流から土器が水流で運ばれてきた場所になります。
焼骨分布を指標として西根遺跡の詳細地形特性を明らかにすることができます。
今後詳しく空間分析します。

参考 土器分布図(ウススミ)、時代別流路分布図、獣骨分布図(グリッド)のオーバーレイ図 第3~第5集中地点付近

5 参考 感想
1で引用したとおり発掘調査報告書では焼骨について「これについては今後、他の遺跡との照合が必要である。」と述べています。
この記述は、言外に、焼骨に関してはこれ以上検討しないということを述べていると感じました。
発掘調査報告書における「集中地点の性格と意義」における次の結論的記述には焼骨が検討ファクタとしては含まれていないことが推察できます。
「…何を意味するのか具体的には不明である。現代の針供養とも一面では通じるような感を受けるが、穿った見方であろうか。」

土器集中地点の性格と意義を検討するためには破壊土器だけに着目するのではなく、焼骨も重大な検討成分として一緒に検討することが必須だと考えます。

類似他遺跡の検討結果を丹念に見直し、西根遺跡と比較して西根遺跡の意義を考察する必要性が大切であることは論を待ちません。
しかし、その前に西根遺跡内部の徹底した分析・考察が無ければ、類似遺跡情報ばかり集めても、それがどれだけ使えるか何の保証もありません。

2017年9月16日土曜日

西根遺跡 焼骨はどこで焼かれたか

2017.09.15記事「西根遺跡 焼骨の意味に関する検討」で焼骨が祭祀に関わっているだけでなく、アク抜き用添加剤という実用機能を有する材料である可能性についても検討する必要性をメモしました。

もし焼骨がアク抜き用添加剤として使われたもので、廃用土器と一緒に西根遺跡にもちこまれたものならば、焼骨は集落で作られたものであると考えることができます。

そこでもう一度詳しく発掘調査報告書を調べてみました。

次に断面図における包含層の記述を抜き出してみました。

断面図における包含層の記述抜き書き 1

断面図における包含層の記述抜き書き 2

断面図における包含層の記述抜き書き 3

骨片の記述は4カ所ありますが、そのうち3か所は「炭化物・骨片」となっていて炭化物(木片の焼け焦げ)と骨片は同時に出土することが西根遺跡では一般的であると考えられます。

「杭」の実物閲覧をした際に、「杭」と一緒に黒く焼け焦げた小木片が2-3点同封されていました。

「杭」に同封されている炭化物(木片の焼け焦げたもの 画面下の黒い小片)

骨片と焼け焦げた木片がいつも同時に出土するということは、骨片が出土した場所で骨が焼かれた可能性が濃厚であることを示していると考えることが合理的です。

なお、焼けた粘土塊も出土したと発掘調査報告書に記述があります。(場所不明、写真等の情報なし)

以上の情報から、西根遺跡では動物の骨を焼いて焼骨を作り、その場に存置した可能性が高まります。

焼骨が集落で作られ、土器とともに持ち込まれた可能性は低くなりました。

廃用土器の破壊と焼骨行為は同じ大きな活動の中の並列する小さな構成要素であるように感じられます。

さらに焼骨について検討をつづけます。

2017年9月15日金曜日

西根遺跡 焼骨の意味に関する検討

西根遺跡出土焼骨の意味について様々な可能性を検討することの必要性を感じるようになりましたので、今後の検討方向をメモしておきます。

1 焼骨出土状況
西根遺跡には7か所の土器集中地点がありますが、そのうち5カ所の土器集中地点の土器密集部に対応して焼骨(獣骨)が出土しています。


土器重量と焼骨出土の対応 例
土器重量は密集部(最大分位 赤)のみ表示
 
焼骨の量は全体で1.5㎏で、その特徴は発掘調査報告書で次のように記載されています。
1 短時間に強い熱を受けたと考えられ、色調は灰白色ないし灰黒色を呈し、変形や損傷が著しい。
2 動物相が単純である。(ほとんどがイノシシとシカ)
3 同定可能な遺存体の中に占める頭骨の割合が低い。
4 推定年齢の若い遺存体が相対的に多く同定された。

出土焼骨例 発掘調査報告書から引用

焼骨の意義について、発掘調査報告書ではつぎのように記述しています。
「当時、何らかの必要があって、若齢個体を含むイノシシおよびシカの骨を焼く習慣があった可能性は今後検討する必要がある。」

2 これまでの検討
このブログにおける西根遺跡焼骨検討(見立て)の概要は次のようなものです。
・飾り弓と焼骨が出土していて、かつ若い動物が多く、頭骨が少ない状況から、またイナウと仮説する丸木が出土していることから、イオマンテ類似祭祀が行われ、焼骨は獣肉食の跡であると考える。
(若い動物を飾り弓で射る(送る)祭祀を行い、殺した動物の頭はイナウに飾り、体部は祭祀参加者で食べ、残った骨は焼いて祭祀場中央部(土器密集部)に撒いたと空想しました。)

3 焼骨検討に関する問題意識を深めた学習
最近、焼骨に関する専門的検討文献として「西野雅人・服部智至(2016):横芝光町中台貝塚出土の動物遺体、千葉縄文研究6」を千葉市埋蔵文化財調査センター所長の西野雅人先生からいただき学習する機会を得ました。
この文献では焼骨の事例と用例について幅広く検討が行われていて、特に骨灰に関して縄文時代に活用でき得たものとして、壁や床の補強材・装飾・調湿、低地の地盤改良、肥料、灰汁抜き、獣皮処理(漬け込みで毛が抜けやすくなる)などがあるとしています。

また、次のような現代の利用例を挙げて、こうした参考情報を踏まえて骨灰について検討すべきであることが指摘されています。
骨灰(ハイドロキシアパタイト)の現代の利用例
医療:歯科治療、骨や筋肉の増強・炎症予防、人口骨、男女産み分け
食用:ベーキングパウダー、フルーツの糖度向上
工業・建築:内外装工事(防水・調湿)、研磨剤、陶磁器、重金属吸着
その他:肥料・飼料、酸性土壌中和
「西野雅人・服部智至(2016):横芝光町中台貝塚出土の動物遺体、千葉縄文研究6」から引用

焼骨とは水で洗って発掘した結果であり、焼骨の実体が骨灰であると考えると、この論文の視点つまり骨灰の物質特性に着目する視点から西根遺跡焼骨に関して検討を深める必要があります。

4 西根遺跡焼骨の意味に関する可能性
上記文献学習からインスピレーションを得て、次のような項目について検討を深めることとします。

ア 焼骨(骨灰)が動物の送りであると考える。
アイヌに灰塚があり、モノを燃やした灰も1個所に集め丁寧に送るという習俗があります。この習俗と同じで、イオマンテ類似活動の結果として食した獣の骨を灰になるまで焼いて一カ所に撒き、獣を送ったと考えます。(このブログのこれまでの見立て)

イ 焼骨(骨灰)散布により祭祀場を装飾する。
アとともに、骨灰散布により祭祀場を白く染めるという装飾効果があったかもしれません。

ウ 焼骨(骨灰)散布により祭祀場の地盤を固める。
ア、イととともに一緒にその効果を狙った可能性として、骨灰散布により祭祀場の地盤を固めて祭祀をしやすくした可能性が考えられます。

エ 焼骨がトチの実アク抜き用添加剤であった可能性
ア~イの発想と根本的に異なる焼骨(骨灰)機能の可能性として、トチの実アク抜き用添加剤であったことが考えられます。この思考はこれまで自分が見立てた遺跡意味とは大幅に異なるものです。

この可能性について次のようなイメージを持ちました。
「焼骨はトチの実アク抜き用添加剤」の可能性
●焼骨は大量骨灰の中に含まれていたと考える。
●発掘作業の水洗作業で大量灰は全て失われ、少量の焼骨のみが採取されたと考える。
●焼骨を含む骨灰は加曽利B式土器の中に入れられてトチの実等堅果類のアク抜き剤として使われた。つまり、骨灰はトチの実等を煮沸する時のアク抜き用添加剤であると考える。
骨灰の中に混じる焼骨の生焼け部分から骨髄エキスが出て、トチの実に味付けする効用も考えられる。
●アク抜き煮沸用加曽利B式土器が壊れて廃用になった時、土器底に貯まった(こびり付いた)骨灰は洗い流されることなく西根遺跡に持ち込まれた。
●土器は全て破壊されるので、土器内部の骨灰は土器周辺に飛び散り土器と一緒に堆積したような層相(骨灰が撒かれたような層相)がうまれる。
●トチの実アク抜き作業は集落で行われたので、アク抜き剤としての骨灰(焼骨)も当然ながら集落でつくられた。

この可能性をもし仮説として採用すると、これまでの自分の見立てとは大きく異なるので、自分の作ったストーリーに様々な不都合が生れます。

焼骨の根本意義を祭祀に置くかつまりア、イ、ウで考えるか、それとも主食生産用添加剤として見るかつまりエで考えるか、大きな岐路に立たされてしまいました。

この岐路を越えると、自説の正しさにますます自信を深めるか、自説を放棄する苦しみ(恥ずかしさ)と引き換えに新たな価値を社会に提供できるような仮説を構築できるかのどちらかが待っていると期待します。ワクワク、ドキドキです。

じっくり学習を深めて行くつもりです。

……………………………………………………………………
追記 2017.09.17
「焼骨はトチの実アク抜き用添加剤」の可能性についてワクワク、ドキドキしながら焼骨について検討をはじめたのですが、検討を始めたとたんにその可能性は無くなりました。
2017.09.16記事「西根遺跡 焼骨はどこで焼かれたか」参照

自説の正しさにますます自信を深める結果となりました。
2017.09.17記事「西根遺跡 焼骨出土状況の詳細とその考察」参照

自身の内部で密かに期待した(?)どんでん返しがなくなり、寂しい(?)気持ちもありますが、「添加剤説」が一種の触媒となって自分の思考を刺激し活性化させています。

自説の正しさに自信を深めることができたことは良いことです。

2017年9月4日月曜日

西根遺跡 古墳時代のみ戸神川に可動堰が作られた理由

2017.09.03記事「西根遺跡 弥生時代以降における縄文土器露出状況」の検討副産物を記事にします。

次の図は時代別流路の断面図を例示したものです。

時代別戸神川流路の深さ

流路2(古墳時代前期以前)と流路3(古墳時代前・中期)の深さが大きく、また断面自体も大きくなっています。
戸神川の浸食力が大きく、極端にいえば沖積低地が河岸段丘のようになっている様子がわかります。

時代前後の流路1(縄文時代)や流路4~6・7は極浅い流路となっています。

この現象はいわゆる「弥生の小海退」に対応する地象であると考えます。
このような戸神川浸食力増加時期があったため、その期間に水田耕作する人々は戸神川に可動堰を作ったと考えます。
戸神川の浸食力が衰え、流路の深さが浅くなれば、可動堰は必要なくなり、自然流下で水田に水を引くことができます。
古墳時代にのみ戸神川に可動堰がつくられた理由は「弥生の小海退」の影響によるものであると考えます。

参考 古墳時代(流路3)可動堰
「印西市西根遺跡-県道船橋印西線埋蔵文化財調査報告書-」(平成17年)から引用

2017年9月3日日曜日

西根遺跡 弥生時代以降における縄文土器露出状況

2017.09.01記事「西根遺跡と小字「西根」」で次の文章を書きました。

「古代人は西根遺跡空間付近で破壊縄文土器の圧倒的な露出風景を見ているでしょうから、その光景をみて「根の国」「黄泉の国」を想像したかもしれないと空想しています。」

古代人が戸神川光景を見て「根の国」を想像したかどうかは今は空想の段階です。
しかし、「古代人は西根遺跡空間付近で破壊縄文土器の圧倒的な露出風景を見ている」ことは確認できるので、GISにおける地図のオーバーレイによるデータを作成して確認してみました。

時代流路毎に見た縄文土器露出の可能性が高い場所

縄文土器分布図と時代毎流路を重ね合わせ、流路が縄文土器分布と重なった部分を抽出しました。断面図を参考に考察すると、流路2、流路3、現河川では抽出ケ所全てでほぼ確実に縄文土器が露出し、流路4、流路5、流路6では抽出した場所の多くのところで縄文土器露出が存在したと把握できます。

参考 西根遺跡の土器検出状況
「印西市西根遺跡-県道船橋印西線埋蔵文化財調査報告書-」(平成17年)から引用

2017年9月1日金曜日

西根遺跡と小字「西根」

印西市小字「西根(ニシネ)」の位置を確かめると次のようになります。

印西市小字「西根(ニシネ)」

この分布範囲と西根遺跡との位置関係をGISで確かめると次のようになります。

西根遺跡と小字「西根(ニシネ)」

さて西根の語源はどのようなものでしょうか?
私は西根遺跡の学習の中で次のような仮説を1回メモしました。

1 西根の語源 仮説1
……………………………………………………………………
戸神川沖積地の左岸サイドに「西根」があります。
西根の東側は船尾白幡遺跡の中心拠点(Dゾーン)が控えています。
また西根遺跡から多数の出土物がみつかり、西根遺跡付近が船尾白幡遺跡のミナトであり、祭祀の場であることもわかってきています。
このような情報から、小字「西根」の意味を次のように想像します。
船尾白幡遺跡が新規開発地として建設された時、その西側に位置する戸神川低地は開発地(集落)と外部を結ぶ重要なミナトであり、そのミナトを通じて船尾白幡遺跡は外部とつながっていました。
つまり船尾白幡遺跡からみると、地先の戸神川低地は西側に伸びる根のような存在であったと考えます。
船尾白幡遺跡からみて地先戸神川低地は自らの根元の部分に当たると考えて、「西根」という地名が生まれたと考えます。

参考 印西町字界図(昭和63年印刷)平成13年4月印西市復刻
……………………………………………………………………
参考
ね【根】
1 〖名〗
二 物の基礎となり、それを形づくる根本となる部分。ねもと。つけね。
① 生えているものの下部。毛、歯などの生えているもとの部分。
*万葉(8C後)四・五六二「いとま無く人の眉(まよ)根(ね)をいたづらに掻かしめつつもあはぬ妹かも」
*あきらめ(1911)〈田村俊子〉七「頭髪の根が痛くって仕様がないよ」
② 立っているものが、地に接する部分。ふもと。すそ。
*書紀(720)神代上(兼方本訓)「譬ば海(うな)の上(うへ)に浮(うか)べる雪の根(ネ)係所(かかること)無(な)きが猶し」
*真景累ケ淵(1869頃)〈三遊亭円朝〉五一「手水鉢(てうづばち)の根に金が埋めて有るから」
『精選版 日本国語大辞典』 小学館から引用
……………………………………………………………………

2 西根の語源 仮説2
西根遺跡の学習を深めるなかで奈良・平安時代の水辺祭祀だけでなく、縄文時代こそ最も活発な水辺祭祀が行われていたことを学習しました。
そして縄文時代水辺祭祀がその後の弥生・古墳・奈良平安時代に少なからず影響を与えたようだという印象を持つにいたりました。
このような学習進行のなかで、西根の語源を次のように仮説します。

西は印西の西と同じで印旛浦の西側という意味です。
根は「つけね」「ふもと」「すそ」という意味合いであり、西根は印旛浦の西にある「付け根」という意味合いになると考えます。
西根遺跡の空間が古代人にとって遠い昔から(原始時代から)伝わってきた祭祀空間であることから、つまり印旛浦の西にある信仰上の拠点空間であることから、西根という地名が生まれたと考えます。

なお、根が「根の国」(ニライカナイ)と関係するのかどうか、さらに検討していくつもりです。
古代人は西根遺跡空間付近で破壊縄文土器の圧倒的な露出風景を見ているでしょうから、その光景をみて「根の国」「黄泉の国」を想像したかもしれないと空想しています。

西根という地名はおそらく古墳時代か奈良平安時代につくられたと想像します。