2017年11月1日水曜日

鳴神山遺跡直線道路が行軍用一方通行道路であった可能性

鳴神山遺跡直線道路が陸奥国へ向かう将兵の行軍用一方通行道路であった可能性が濃厚となりましたので、メモしておきます。
2017.10.31記事「大塚前遺跡出土大溝が道路であることについて(野馬堀説の間違い訂正)」の関連情報になります。

1 鳴神山遺跡直線道路の構造
鳴神山遺跡直線道路の断面形状を詳しく観察すると次の3パターンに分類できます。

鳴神山遺跡直線道路 断面形状による区分
断面図は道路西方向を向いたときの断面

台地側道付複線区間は複線区間が3箇所ある区間です。正確には単線区間と複線区間が繰り返される区間です。この単線・複線が繰り返される区間の台地北側に側道が連続して付いています。
この区間は馬の前後の入れ替えを複線の繰り返しで行い、人の前後の入れ替えを台地側道で行える区間です。
単線区間はその巾の狭さから人馬の追い抜きが困難な区間です。
堀込が浅い単線区間は総柱建物の前だけですから、その建物のある宅地面に上がり、降りるための区間であると考えることができます。

参考 鳴神山遺跡 直線道路近くの総柱掘立柱建物

総柱掘立柱建物(2間×3間)はその長軸方向と道路走行が完全に一致し、かつ道路から7-8mのところにあります。また総柱掘立柱建物は鳴神山遺跡ではここだけです。この建物は床がある施設であり、道路機能と密接に結びついた行政機関に関連するものと考えることが可能です。

この建物前だけで道路深さが浅くなり、宅地面に上りやすくなっています。
その前後は単線区間であり、西に複線区間があります。

2 道路利用の推定
総柱掘立柱建物の主要機能はこの道路を行軍してきた将兵に対する補給を行いチェックする機関であったことが考えられます。
複線区間は補給チェックの運営がスムーズに行えるようにするためのグループ集合施設、順番待ち施設であったと想定できます。

西から行軍してきた将兵の一団は前を進む一団の補給とチェックが済むまで複線区間で待たされたのではないかと想像します。複線区間は対面交通の退避所ではなく、一団がそろって補給とチェックを受けることができるように遅れた人馬を待ち、前後の入れ替えを行う集合順番整序場所であったと考えます。
下総国府方面から移動してくる間に各集団が入り混じったり、将校と兵の順番が狂ったりするので、この場所で一団が秩序だった人馬順番を形成したのだと考えます。そろった一団から補給チェック施設に向かい、そこで宅地面に上り補給とチェックを受け、再び道路に降りて東の香取の海のミナトに向かって行軍したと想像します。

鳴神山遺跡直線道路機能の想像

3 鳴神山遺跡直線道路の性格と廃絶
このように考えると直線道路は完全な一方通行路です。西から東へ行軍するためだけの軍事専用一方通行道路です。

律令国家が将兵を東へ向かって行軍させることが無くなれば、この道路は無用の長物になります。
実際に、9世紀始め頃(蝦夷戦争が終了した頃)この道路は埋め立てられました。蝦夷戦争終了後鳴神山遺跡は大発展するのですが、その経済発展にこの道路は全く関わっていません。

大塚前遺跡の大溝道路も蝦夷戦争終結まで機能した軍事専用一方通行道路であったと考えられます。

なお、下総国府付近の東海道本路になったと考えられる道路は複線区間になっていて両方向通行道路であったことが判っています。

参考 新山遺跡出土道路
「千葉県の歴史 資料編 考古3(奈良・平安時代)」(千葉県発行)から引用


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