2017年12月7日木曜日

大膳野南貝塚 廃屋墓の機能不明柱穴の検討 2

大膳野南貝塚後期集落の最初期(加曽利E4~称名寺古式期)には人骨を集骨した廃屋墓竪穴住居(J88)が1軒あり、その期の住人は漁業に関わっておらず、従って地点貝層(住居内貝層)は皆無であることを知りました。この期の住民は次期(称名寺~堀之内1古式期)の住民(地点貝層や漆喰炉・漆喰貼床を残した漁民)に駆逐され、住民の総入れ替わりがあったことを知りました。
2017.12.03記事「大膳野南貝塚 廃屋墓の機能不明柱穴の検討 1」、2017.12.04記事「大膳野南貝塚 後期集落最初期の集団入れ替わり」参照

この記事では称名寺~堀之内1古式期の廃屋墓柱穴について検討します。
称名寺~堀之内1古式期の住民は後期集落の始祖といえる人々です。この始祖たちの竪穴住居を核にしてその後の貝塚(貝層)が形成されていきます。

2 称名寺~堀之内1古式期 J77竪穴住居
2-1 特徴
南貝層に埋没して存在していて、漆喰炉(新旧2基)、漆喰貼床が存在します。

J77竪穴住居の位置

主体部端に一部漆喰貼床に覆われた床下墓坑が存在し、3才くらいの幼児人骨が出土しました。
床下墓坑が漆喰貼床に一部覆われていることから、墓坑は竪穴住居が生活に使われていた時期に存在していたことが確認できます。
死んだわが子の亡骸を身近な場所に置いて生活したいという縄文人の心性をうかがうことができます。(この心性は小児棺が屋外漆喰炉の近くにあることでもうかがうことができます。…追って検討予定)
竪穴住居は廃絶後燃やされたと考えられ漆喰貼床は被熱で赤化しています。竪穴住居の穴は貝で埋まって(地点貝層)います。
張出部覆土層下部から骨角器3点が出土し、そのうち1点は鹿角製完形垂飾品(腰飾り)です。

垂飾品

J77竪穴住居からの出土遺物は中テン箱3箱、獣骨が1箱に達します。
これらの情報から、J77竪穴住居は廃絶後焼却されるとともに垂飾等のお供えがあり、また繰り返し獣骨や貝殻の投げ入れがあったことがわかります。これらの行為は全て丁寧な祭祀が繰り返し実行されたことを物語ると考えます。垂飾品(腰飾り)は故人が身に着けていたものと推定し、故人は社会的身分が高かった人、リーダーであると推定できます。

2-2 検討
発掘調査報告書ではJ77柱穴に機能不明柱穴はありません。
しかし建物構造柱の柱穴と考え難い柱穴が2つあるので検討します。
●P34
床下墓坑の詳細図を見ると床下墓坑設置後につくられたと観察できる柱穴(P34)があります。
床下墓坑の設置後その場所の隅に柱を立てたとすれば、その柱は墓坑の祭壇の役割をした柱の可能性が浮かび上がります。
●P40
主体部と張出部を連結する空間に存在する東西に細長く伸びた漆喰貼床の中央に位置する柱穴は居住機能(利便性)から考えて非合理的であり、また漆喰貼床設置後につくられた可能性が濃厚であるので、住宅廃絶後の柱の可能性があります。例えば竪穴住居廃絶焼却後の祭壇としての柱の可能性があります。

検討

漆喰貼床に方向性を感じ取りますのでメモしておきます。
J77の漆喰貼床は大きく3箇所(張出部、連結部、主体部)に分布しています。
張出部漆喰貼床(発掘調査報告書では文章記述されているが図示されていない)は南北方向長軸の略矩形です。連結部漆喰貼床は東西方向の長矩形です。主体部漆喰貼床は東西方向長軸の楕円形です。これら3つの分布は南北性の軸により展開しています。この南北軸は北方向を意識したものであると推定します。
柱(祭壇)だけでなく住居構造にも縄文人の北方向信仰の跡が多数見つかりそうなので、あえてメモしておきます。

J77竪穴住居の漆喰貼床模式と方向性

なお張出部と主体部の間に連結部(緩衝部?)があることから、主体部の居住機能とは別の機能、例えば祭祀機能が張出部にあったことを想像します。
住居廃絶後張出部に社会的地位(リーダー性)を示す腰飾りを供え、また地点貝層も主体部とは別に独自に存在していることから、張出部に対して主体部とは別の独立した意味があったことが判ります。
また、床下土坑の位置が連結部(緩衝部?)漆喰貼床の延長にあることから、床下土坑は主体部と連結部(緩衝部?)を介して繋がっていることが判ります。
つまり、主体部(現実の生活)は連結部(緩衝部?)を介して張出部(祭祀空間?)と床下墓坑(わが子の亡骸)と繋がっています。あるいは近接するけれども直接交わらないようにしているとも言えます。



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