2017年12月22日金曜日

非貝塚形成集団と貝塚形成集団の入れ替わり

大膳野南貝塚 廃屋墓の機能不明柱穴の検討 14

この記事は2017.12.21記事「大膳野南貝塚 廃屋墓の機能不明柱穴の検討 まとめ」の続きです。

4 集骨葬集団が非貝塚集団であること
2017.12.04記事「大膳野南貝塚 後期集落最初期の集団入れ替わり」で後期集落最初期と次期の間に集団の入れ替わりがあったことをメモしました。

参考 大膳野南貝塚 縄文時代中期末葉~後期中葉集落の最初期に集団が入れ替わった可能性

参考 大膳野南貝塚加曽利E4~称名寺古式期竪穴住居
2軒の竪穴住居は北貝層の下にうずもれていますが、これは竪穴住居が廃絶した後の時期に形成されたものです。

後期集落最初期と次期の間には葬送や生業・技術の違いがあまりに大きくまた明瞭であり、その間に集団としての継続性を認めることは到底できません。
ところが発掘調査報告書では最初期について次のように記載しています。
「本時期は大膳野南貝塚中期末~後期集落の成立期と考えられる。」(大膳野南貝塚発掘調査報告書)
発掘調査報告書では最初期の集団は「積極的な採貝活動の痕跡は確認できない」けれども貝塚集落の始祖であると認識していることが読み取れます。
この認識は間違いであり、次期の「称名寺~堀之内1古式期」が大膳野南貝塚中期末~後期集落の成立期と考えます。
同じ集団がある時期を境に葬送や生業・技術がすべて抜本的に変化するとは到底考えることができません。

千葉県縄文時代時期区分との対応で次のように考えます。

大膳野南貝塚後期集落(仮説)最初期と次期の間の断絶

最初期の短期間だけなぜ別の集団がこの場所に住み着いたのか、その理由に大いに興味がわきます。
この記事では次のような想像仮説をメモしておきます。
●大膳野南貝塚後期集落 最初期だけ別集団が住み着いた理由(想像仮説)
東京湾沿岸には分散居住する集団(Ⅴ期集団)が住んでいた。
列島西の方から東京湾に環状貝塚形成を特徴とし、かつ高度生業技術をもった集団(Ⅵ期集団)が移住してきた。
その移住圧を逃れてⅤ期集団の一部がそれまで無人であった大膳野南貝塚付近に移住した。
しかしあまり時間を置かないで大膳野南貝塚付近にもⅥ期集団が到達し、Ⅴ期集団を追い払い貝塚集落を形成した。

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