2018年1月16日火曜日

竪穴住居からの石器出土数時期変化

大膳野南貝塚後期集落の出土物による竪穴住居検討 9

竪穴住居から出土した石器数を漆喰貝層有無別に観察します。

1 竪穴住居からの石器出土数

竪穴住居からの石器出土数
最初期の漆喰貝層有竪穴住居は5軒だけですが石器出土数が異様に大きく不自然です。
時期別に竪穴住居数は大幅に変動しますから、竪穴住居1軒あたり平均出土数で比較して観察してみました。

時期別竪穴住居1軒あたり平均石器出土数
観察ア
最初期(漆喰貝層有は称名寺式期~堀之内1古式期、漆喰貝層無は加曽利E4式期~称名寺式期)の漆喰貝層有が飛びぬけた直となっています。
観察イ
集落が貝塚集落であった時期(漁業がおこなわれていた時期)漆喰貝層無竪穴住居からの石器出土数は極めて乏しく、有と比べて多くて13%程度ですが、貝塚集落終焉以後の期(堀之内2式期~加曽利B1式期、加曽利B1式期)になると急増して堀之内1式期・堀之内2式期の有竪穴住居と同等程度の直になります。

2 考察
2-1 最初期漆喰貝層有竪穴住居の石器多量出土の理由(観察ア)
最初期漆喰貝層有竪穴住居からの石器出土数を後期集落全体の順位グラフで確かめると次のようになります。

石器数出土順位グラフ
5軒の竪穴住居のうち3軒からの石器出土数が特に多く平均値を大幅に押し上げている状況が確認できます。

この5軒の分布は次の通りです。

称名寺式期~堀之内1古式期竪穴住居(すべて漆喰貝層有竪穴住居)

この5軒は大膳野南貝塚後期集落の最初の漁民家族です。貝塚集落の始祖家族の住居です。
この始祖家族が苦労して東京湾の漁業権を獲得して、以後集落が東京湾で漁業ができるようになったのです。
これら始祖家族に対する祭祀は長い間繰り返し行われ、その時のお供え物が累積的に蓄積したと考えられます。通常の竪穴住居廃絶祭祀とはことなり、後々まで集落の人々に語りつがれ、始祖を敬う祭礼が行われたと考えます。
そのお供え物のうち土器や石器が残り多量に出土していると考えます。
中テン箱数(大ざっぱには土器の量に比例するようです)も同じ傾向を示しています。

参考 中テン箱数

2-2  貝塚集落終焉後に漆喰貝層無竪穴住居の石器出土が増える理由(観察イ)
漆喰貝層有竪穴住居は堀之内2式期までで、この期で貝塚集落は終わります。漁民家族は狩猟も植物採集も全て自前でおこなっていて繁栄した時期もあるので、生業上の理由から移動したということは考えづらいと思います。恐らく何らかの理由で集落崩壊して衰滅したと想像します。その衰滅理由にもよりますが、例えば清潔な飲料水の枯渇(疾病を伴う水質の汚染)が原因ならば漁民家族だけでなく漆喰貝層無竪穴住居の家族も衰滅したに違いありません。
想像を重ねると、堀之内2式期に集落は一旦全滅し、その後に漁業権を持っていない別の家族が外部から入り、この場所に竪穴住居を構えたと考えます。

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